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『午前2時』3.テレフォン(2)

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「うん…かかってこなかったんだ」
 俺は溜め息混じりに繰り返した。
 レポートの方は完全にお留守になっていたが、長い間引っ掛かっている事が甦ってきて、俺は改めてスッキリしないあの時の気持ちを思い返していた。
「まあそれで、高校出てから、大学入る資金を稼ぐのに二年もかかったんだが……。どうにもわからない事が一つ、ある」
 周一郎が促すように俺を見る。
「あー、その、実は、その時ヤコが取った電話な、その福祉団体からの連絡だったんだ」
 胸に苦いものが戻ってきた。
「つまりさ、ヤコはその連絡を受け取りながら、俺や皆んなには違うって言ったんだ。…どうしてなんだ? どうしてヤコが、俺が奨学金を受けるのを妨害しなきゃならない?」
 それは心の片隅にずっと引っ掛かり続けてきた事だった。
 今更恨みを言おうと言うわけじゃない。ただ、ヤコがどうしてそんなことをしたのかがわからない。
「ヤコさんが、あなたに嫉妬していたとは考えられませんか?」
 ずり落ちかけたタオルを手で押さえながら、興味を引かれたように周一郎が尋ねた。
「嫉妬、ねえ」
 辛そうに背中を向けたヤコ。
「でもさ、そりゃ確かに、ヤコの将来が閉ざされていたら、そう言うこともあるかも知れない。けど、ヤコは一週間後にはバックアップを受ける団体の寮に入ることになってたんだぞ? ちゃあんと自分の進みたい道が開けているのに、なんで俺を羨まなくちゃならない?」
「…単に嫌がらせのつもりだった、とか…」
「ヤコはそんな人間じゃない」
 反射的に強い口調で言い返し、周一郎がわずかに哀しそうな顔になったのに慌てて付け加えた。
「いや確かにそう言う人間もいるかも知れないけど、ヤコはそんな事をする人間じゃないんだ。負けず嫌いで、何事にも一所懸命で、声楽の道だって努力に努力を重ねて、根性で道を開いたんだし、それを驕る人間でもなかった」
「…すみません…ぼくは…」
 周一郎が目を伏せて謝った。
「そんな人間ばかり…見てきたから…」
「ああ、いい、気にしてないから」
 それでも沈んだ様子の相手に、俺は手を伸ばした。頭に手を乗せ、軽く叩く。体を緊張させ、叱られる子どものような表情で、周一郎が上目遣いに俺を見たから、そっと押さえつけて覗き込み、
「俺が気にしてないんだから、お前が気にしたって仕方ないだろ?」
 笑ってやる。
「ま、女ってのは訳のわからん生き物だよ。な」
「…そう、ですね…」
 薄い笑みがようやく周一郎の頬に浮かんだ。
 しかしまあ、気味が悪いほど素直だな。
「にゃあ…」
「ん?」
 ドアの外で小さな鳴き声がして振り返る。
「…ルト」
「帰ってきたのか」 
 立ち上がりドアを開けてやる。
 うむ、ご苦労。そう言いたげに、ルトが隙間をすり抜け、青灰色の尻尾を振り立てて周一郎のベッドに飛び乗る。そのまま心配そうに枕元までやってきて、熱を測るようにピンクの舌を出して、周一郎の額を舐めた。
「ふ…」
 邪気のない子どもっぽい笑みを浮かべて、周一郎がルトに手を回した。甘えるように体を擦り付け、ルトは布団の中に潜り込んでいく。十分入り込むと、体を翻して顔を出し、俺を見上げてなあお、と文句ありげに鳴いた。
「悪いが、猫語は苦手でな」
「にゃあん」
 周一郎の方に体を擦り寄せ、再びじろりと俺を睨み上げる。どうやら、あんまり主人を困らせるなと言いたいらしい。
「わかったわかった。悪かったな、周一郎。変な事で悩ませてさ」
「いいえ…」
 どこか眠たげな声で周一郎が応じる。
「それに…ぼくは…その人に感謝しなくちゃ…いけないんだ」
「へ?」
「だって…」
 ふやふやと解けるような声で、
「滝さんがスムーズに大学に入ってたら……きっと…ぼくのところに……バイトなんかに……こなかったでしょう…?」
 思わずまじまじと相手を見る。
 おい、『これ』は本当に周一郎か?
 俺の戸惑いに気付かぬまま、周一郎は子どもの口調で続ける。
「そうしたら……ぼくは…滝さんに……会えてない…」
「…周一郎」
「はい…」
「お前…」
 口ごもってしまった。指摘した方がいいのか、それとも気付かぬ振りをしてやった方がいいものか。
「…ひょっとして、かなり熱があるんじゃないか?」
 もし周一郎が『正気』だったら、とてもこんな台詞を口にするとは思えない。慌ててタオルを手に取り、額に手を当てた。その俺の手を眩そうに目で追って、周一郎は首を竦める。まるで、慣れてきた人間の愛撫を受け止める猫のように、半ば甘えるような半ば逃げるような仕草。
「たぶん……そう…です…」
 ことりと答えて、ふいに自分のことばに照れてしまったように、ごそごそ布団の中へ潜り込んで行く。仕方なしに手を引っ込め、俺は机に戻った。と。
「…滝さん」
「ん?」
「今の……冗談です……忘れてください…」
 くぐもった声が言い訳がましく弁解するのに、思わずにやりと笑った。
 へええ、そうなのか、お前はあんな真面目な口調で冗談を言うのか。
 そうからかってやろうと思ったが、周一郎が発熱しているのは冗談ではないので、止めにした。いつか元気のある時におちょくってやろう。もっとも、普段の周一郎が俺程度のおちょくりで崩れるとは、とても思えないが。
 俺は今や完全に布団の中に潜り込み、額のタオルを引き下げ、表情まで隠してしまった周一郎に最後のにやにや笑いを投げて、レポートに向かい直した。
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