『闇を闇から』

segakiyui

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第3章

5.夢現(8)

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 『ハイウィンド・リール』のロビーはいつか来たときと同じように、いや、どちらかというと夜が更けるに従って出入りが激しくなっているような印象があった。
「ここは…普通のホテルなんですか」
「そうだったんだけどね」
 強ばる体に軽く深呼吸しながら、京介は周囲を見回す。
 時計は20時半をゆっくりと回っていくところ、入ってきたカップルが時に人目を伺うように急ぎ足に鍵を受け取りフロントを離れていく。
「今は観光客もそれほどいないから」
 そういう方向で使い勝手がいいホテルに流れていってしまったんだろうね。
「そうですか」
 入り口から賑やかに入ってきた壮年のスーツの群れがフロントに溜まったのに、そっと奥の一角の喫茶に入る。かなりの年配の男性も混じる中、何を待っているのかなかなか動こうとしない。
「まだいらしていないようですね」
「そうだね」
 きっと大輔は京介が応じると思い込んでやってくるだろう。断ることなど考えてもいないはずだ。
「課長は…大石さんをどうするつもりなんですか」
「……大輔に会わせる」
「え?」
「僕が応じることで桜木通販の『ニット・キャンパス』参加を認める、そう大輔は約束した。それが本当かどうかはわからないけど」
 微かに震えた指でそっとコーヒーカップを持ち上げる。
「それを大石が知ったら黙ってはいないはずだ」
「大石さんを利用する、ということですね」
「……狡いよね」
 静かに確認する伊吹に目を伏せる。
「自分一人で跳ね返せなくて…伊吹さんまで巻き込んでいる」
 情けなくてみっともない自分を晒せなかった、伊吹の前でかっこいいままでいたかったから逃げられなくなったと今ではわかるけど。
「マフラーのことがある」
 ぽつりと伊吹が呟いて目を上げる。伊吹もまた、きつい視線で掌に包んだココアを見つめていた。
「あれは私が始末をつけたいことです」
「……大事なもの、だった…?」
「…はい」
「……ごめんね」
 今さらながらに胸の奥がずきりとした。
 ロビーに入ってから外されて、伊吹の隣に置かれているマフラーに竦む。
 ひょっとして自惚れ過ぎていたのかな。あのマフラーが伊吹にとって何だったのか、そう言えば結局聞いていない。
「あのマフラーは」
「あのマフラー…あ」
 同時に口を開いて言いかけ、お互い顔を見合わせて少し笑った。
「あのマフラーは、何?」
「プレゼントです」
「………誰からの」
「男性からの」
 いたずらっぽい伊吹の笑みに、ごくん、と思わず唾を呑み込んだ。
 どうしよう、と頭の中に不安が広がる。
 そうだよね。伊吹さんのこと、僕はまだまだ何も知らなくて。
 そう思った矢先、違う、と気付いた。
 何も知ろうとしなかったんだ、今までずっと自分のことで手一杯で。
 どうしよう、その遅れが、そのずれが、伊吹を失うきっかけになってしまったら。
「その人のことも、伊吹さんは」
「あかい」
「……は?」
 くすりと笑った伊吹が言い放ったことばが理解できなくて瞬きする。
「あかい?」
「そう」
「……何が?」
「空が」
「…………空?」
 楽しそうに見返している伊吹の視線に一所懸命考える。空があかい。あかい、って、色の赤のことだよね?
 赤い空? 
「夕焼け……?」
「京介」
「はい」
「好きですよ」
「はい?」
 京介はちゃんと赤い空について考えてくれるでしょう? だから私は安心できるんですよね。
 また理由のわからない呟きが続いて、京介は混乱する。
「どういうこと?」
「赤い空なんてない、空は青だって、そう言われたんですって」
「……空は、青…?」
 私が高校生の時。学校から家に戻る時に、河原でじっと空を見上げてる男の子が居たんです。
 伊吹が微笑みながら話し出す。
 足下にはいろんな色が塗られた画用紙と描きかけらしい絵をびりびりに裂いたものが散らばってて、身動きしないで空を睨んでいた子。小学3、4年ぐらい、だったと思います。
 近所では見かけない子で、冬のことで、どんどん暗くなってくるのに帰ろうとしないから、何となく気になってじっと見てたら、急に振り返って「あかい」って。「そらは、あかい」って。
 だから私はその子の見上げていた空を見上げて。
 もうかなり色は消えてきていたけれど、見事な夕焼けでした。だから、そうねって。赤いわねってそう応えたら、いきなり飛びついてきて泣きだして。あかい、あかい、あかいって。
 後で聞いたんですけど、転校してきたばかりの子で、図画の時間に空を描きましょうと言われて、画用紙を真っ赤に塗ったそうです。もともと学習態度に問題があると言われて、それで転校を繰り返してきたらしくて。思い込みというか偏見というか、その時の担任が問題のある描き方をしていると言い出して。その子も譲らなくて、担任と掴みあいになって。
「……絵を破かれたの?」
「はい。それを持って、飛び出していって戻らなくて、探されていたところへ、私が一緒に居て」
 泣き疲れて眠ってしまった男の子をもたれさせて身動きとれなくなったところで、明が来てくれて。
「……そのまま、考えてくれればよかっただけなのに」
 赤い空って何だろう、って。
「……その担任の頭の中には空=青しかなかった…?」
「そうですね」
 でも、京介は違ったから。
 伊吹が小さく笑って少し目を伏せた。
「もし、私の子どもが京介と違うものを見てると知っても、子ども達を責めたりしないでしょう?」
 思い出す、明のことば。
『美並が女に産まれたのは美並のせいじゃない、けれど美並は自分の体に責任があるからって、自分を傷つけるつもりだったんだ』
 運命を一身に引き受けて、独りで生きることを選ぼうとした伊吹。
 その、強くて痛々しい覚悟に、京介はどうしたら応えられる。
 思わず、引き寄せて抱きしめたくなった矢先、
「どういうことだ」
「っ」
 背後から響いた強い声に京介ははっとした。
 
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