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第3章
3.虚実(8)
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管理人が直接部屋にやってきたことなどほとんどない。相子との一件があってからは特にそうだ。
『真崎さ~ん』
また声がした。
幻聴にしては驚くほど、はっきりしていて現実感がある。
それとも、幻聴と言うのは全部こういうものなんだろうか。
京介はのろのろと壁から身体を引き離した。そのままふらふら出ていきかけ、気づいてとりあえずバスタオルを腰に巻き、インターフォンに出る。
「はい」
『あ、すいません、管理人の大野です』
やっぱり本物らしい、幻聴なんかじゃない。
でも、なぜ?
ありえない、よね?
それとも、ついに幻覚とやりとりできるまで、自分の頭が吹っ飛んでしまったか、と京介はぼんやり首を傾げる。
「はい?」
『ちょっと出て来てもらえますか』
何だって?
出て来い?
困惑して自分の姿を見下ろした。バスタオル一枚という格好もそうだが、結構好き勝手なことをしてたから、正直わかる人間には匂いでわかるんじゃないかと怯む。
本当だ、僕、とんでもないこと、してたんだ。
玄関から脱ぎ散らかされた服を見つめて、我に返る。
もう相当におかしいのかもしれない。
もう既に幻の世界で生きているのかもしれない。
「すぐに出られないんですが」
とりあえず普通を装って返事を返す。
インターフォンの向こうではごしゃごしゃと声が響いていた。何だろう、と眉をしかめて受話器を強く耳に当てたとたん、
『あの、伊吹、さんが来てるんですけど』
い、ぶき…?
「……え…?」
一瞬伊吹って何だったっけ、そう思った次の瞬間には受話器を投げていた。服を蹴散らしてドアに突進し、下駄箱の上のものを何か落とした、けれどもう構わずにドアを開いて、見つけた姿にしがみつく。
「みなみ…っ!」
うわ、か何か声が響いたが、ただただもう嬉しくて寂しくて離れたくなくて力を込めて抱き締めて叫ぶ。
温かい。柔らかい。
本物。
本物。
「みなみっみなみっみなみっ」
来てくれた。
来てくれた。
僕のところに来てくれた。
美並が来てくれた。
視界は奔流、意識は濁流、半端に煽られていた身体は激流に揉まれてきっちり立ち上がる、その矢先。
「中に、入れて?」
「っ」
耳元で囁かれてぞくん、とした。慌てて顔を上げる、間近で見つめてくる伊吹に顔が一気に熱くなる。
「みなみ……っん」
今ここですぐにでもいいの、僕もう限界、そう訴えようとしたら、口を塞がれて唇を吸われて、ふっと意識が飛びかけた。
ああ、イっちゃう。
なんで、こんな、キス、だけで。
身体を震わせてしがみつく。バスタオルの下で揺れて擦られて、腰も危うい。
唇を離されて、ゆっくりと頬と耳元にキスされて。
切羽詰まっていた身体から焦りが抜けて、温かさだけが満ちてくる。
そして響く、短い、けれど確かな命令。
「従いなさい」
「は…い」
僕は、あなたのもの。
従えばいい、この声に。
そういうこと、だよね?
京介は安堵の吐息をついて身体を引いた。
「こっち…」
「……凄いことになってますね」
「う」
伊吹が廊下に散らばっている服を目に留めて呟き、京介の腰のタオルに視線を動かす。
「や…見ないで」
「え?」
「あ?」
とっさに膨れた部分を庇って身体を背けかけ、違和感に気づいた。
「見ちゃだめなの?」
伊吹も不思議そうに呟く。
「僕、今」
見ないでって、言ったよね?
ええ、と頷いた伊吹が見たことのない寂しそうな顔で笑って、すい、と目を背けた。
「わかりました、見ません」
「あ…」
どうして見ないでなんて言っちゃったんだろう、ずっとずっと見て欲しかったのに。
戸惑っている間に、伊吹はリビングに鞄を置き、くるりと振り返って笑った。
「京介」
「はい」
どきんとして慌てて後を追う。
近付くにつれ、胸がさっきとは別の鼓動でどきどきして、身体が熱くてたまらなくなってくる。
見ている。
伊吹が京介の半裸を、タオルに腰を覆われただけの姿を、じっと見ている。
見られている。
「っ…」
恥ずかしい。
そう思った瞬間に、顔が堪え切れないほど熱くなって、目を伏せて俯いて、それでも急いで側に寄る。
「濡れちゃったから」
伊吹のことばにずきんとして、タオルの下のものが震えた。
「お風呂借りてもいいですか?」
「あ、うん」
なんだ、美並自身のこと、そう思って、背中を向けて仕事仕様のスーツジャケットを脱ぐ伊吹をぼんやりと見る。
僕、びしょ濡れでしがみついちゃったから、しかもボディソープ半端に落とした状態だったから、染みになっちゃうかもしれない。新しいスーツ、買いに行かなくちゃいけない。
するりと落とされたジャケットの下、ブラウス一枚の背中がしなやかにそって、振り向いたのだと気づいて顔を上げる。
「一緒に入る?」
「…え…?」
「体、冷えたでしょう?」
微笑む伊吹に京介はしばらくぽかんとして、唐突に我に返る。
「あ、あ、あっ」
「?」
「あの、うん、ちょっと、待って、でも、それ」
どうしよう。
浴室の中もきっととんでもないままで。
「僕、あのっ」
「……だめ、ですか?」
一瞬動きを止めた伊吹が生真面目な顔になって、それからまた、さっきと同じ静かな寂しそうな顔で笑った。外しかけたブラウスのボタンをゆっくりと留め直す。
「……じゃあ、タオル、貸して下さい」
さすがにこのままじゃ帰れないんで。
淡々とした声で少し俯いて、微かに笑う。
「アイロンも、お願いします」
なるべく急いで乾かしますから。
「……課長は、もう一度、お風呂に入ってこられたほうがいいですよ」
「あ、うん」
そうだよね、こんな格好でみっともないったら。
アイロンはここ、タオルはこれ、と急いで準備して、浴室に向かいかけた背中に、やっぱり静かな声が届く。
「服が乾いたら、すぐに出ていきますから、安心して下さい」
「えっ」
ぎょっとして振り向くと、伊吹は頷いて顔を上げる。
「『ニット・キャンパス』の話は明日の朝、聞かせてもらうことにします」
「『ニット・キャンパス』…」
急にまともに焦点をついたことばを出されて京介は固まる。
「締め切り、過ぎてたんでしょう?」
「う、ん、でも」
「参加が通った、って言いましたよね?」
「うん、それは」
「大輔さんと取り引きしたんですか?」
「っっ」
ぞっとした。
頭の真上から氷の串に刺し通されたみたいに動けなくなる。
「だい…すけ…?」
「向田市社会連絡協議会、青年部部長、だそうですね」
知りませんでした、そう続けられてことばが出なくなった。
「伊吹…さ…」
「締め切りを繰り上げた提案者だそうですね。『Brechen』も申し込んだようですが、通らなかったと」
「『Brechen』……?」
なぜ、そんなことを伊吹が知っているのだろう。
そう思った瞬間に閃いたのは、今日は駄目だと言ったことば。
「明日駄目なのは、大輔さんと会うから、ですか?」
「伊吹、さん、こそ…っ」
不安と焦りと苛立ちと。
一番痛いところを指摘されて頭に血が昇る。
あんなに辛い思いして。
あんなに苦しんで。
なのに、君は大石と会ってたんだ?
「今日、駄目だったのは、あいつと会うからだったの?」
声が冷えた。
「あいつ?」
「大石、圭吾」
「? 違いま……っ」
嘘つき。
止まらなくて、気がついた時には駆け寄って、伊吹を壁に押し付けていた。腰のタオルが落ちて、そのまま伊吹の身体に当たる。ぎくりとした相手が白い顔で見上げてくる口を、一気に唇で塞いだ。
『真崎さ~ん』
また声がした。
幻聴にしては驚くほど、はっきりしていて現実感がある。
それとも、幻聴と言うのは全部こういうものなんだろうか。
京介はのろのろと壁から身体を引き離した。そのままふらふら出ていきかけ、気づいてとりあえずバスタオルを腰に巻き、インターフォンに出る。
「はい」
『あ、すいません、管理人の大野です』
やっぱり本物らしい、幻聴なんかじゃない。
でも、なぜ?
ありえない、よね?
それとも、ついに幻覚とやりとりできるまで、自分の頭が吹っ飛んでしまったか、と京介はぼんやり首を傾げる。
「はい?」
『ちょっと出て来てもらえますか』
何だって?
出て来い?
困惑して自分の姿を見下ろした。バスタオル一枚という格好もそうだが、結構好き勝手なことをしてたから、正直わかる人間には匂いでわかるんじゃないかと怯む。
本当だ、僕、とんでもないこと、してたんだ。
玄関から脱ぎ散らかされた服を見つめて、我に返る。
もう相当におかしいのかもしれない。
もう既に幻の世界で生きているのかもしれない。
「すぐに出られないんですが」
とりあえず普通を装って返事を返す。
インターフォンの向こうではごしゃごしゃと声が響いていた。何だろう、と眉をしかめて受話器を強く耳に当てたとたん、
『あの、伊吹、さんが来てるんですけど』
い、ぶき…?
「……え…?」
一瞬伊吹って何だったっけ、そう思った次の瞬間には受話器を投げていた。服を蹴散らしてドアに突進し、下駄箱の上のものを何か落とした、けれどもう構わずにドアを開いて、見つけた姿にしがみつく。
「みなみ…っ!」
うわ、か何か声が響いたが、ただただもう嬉しくて寂しくて離れたくなくて力を込めて抱き締めて叫ぶ。
温かい。柔らかい。
本物。
本物。
「みなみっみなみっみなみっ」
来てくれた。
来てくれた。
僕のところに来てくれた。
美並が来てくれた。
視界は奔流、意識は濁流、半端に煽られていた身体は激流に揉まれてきっちり立ち上がる、その矢先。
「中に、入れて?」
「っ」
耳元で囁かれてぞくん、とした。慌てて顔を上げる、間近で見つめてくる伊吹に顔が一気に熱くなる。
「みなみ……っん」
今ここですぐにでもいいの、僕もう限界、そう訴えようとしたら、口を塞がれて唇を吸われて、ふっと意識が飛びかけた。
ああ、イっちゃう。
なんで、こんな、キス、だけで。
身体を震わせてしがみつく。バスタオルの下で揺れて擦られて、腰も危うい。
唇を離されて、ゆっくりと頬と耳元にキスされて。
切羽詰まっていた身体から焦りが抜けて、温かさだけが満ちてくる。
そして響く、短い、けれど確かな命令。
「従いなさい」
「は…い」
僕は、あなたのもの。
従えばいい、この声に。
そういうこと、だよね?
京介は安堵の吐息をついて身体を引いた。
「こっち…」
「……凄いことになってますね」
「う」
伊吹が廊下に散らばっている服を目に留めて呟き、京介の腰のタオルに視線を動かす。
「や…見ないで」
「え?」
「あ?」
とっさに膨れた部分を庇って身体を背けかけ、違和感に気づいた。
「見ちゃだめなの?」
伊吹も不思議そうに呟く。
「僕、今」
見ないでって、言ったよね?
ええ、と頷いた伊吹が見たことのない寂しそうな顔で笑って、すい、と目を背けた。
「わかりました、見ません」
「あ…」
どうして見ないでなんて言っちゃったんだろう、ずっとずっと見て欲しかったのに。
戸惑っている間に、伊吹はリビングに鞄を置き、くるりと振り返って笑った。
「京介」
「はい」
どきんとして慌てて後を追う。
近付くにつれ、胸がさっきとは別の鼓動でどきどきして、身体が熱くてたまらなくなってくる。
見ている。
伊吹が京介の半裸を、タオルに腰を覆われただけの姿を、じっと見ている。
見られている。
「っ…」
恥ずかしい。
そう思った瞬間に、顔が堪え切れないほど熱くなって、目を伏せて俯いて、それでも急いで側に寄る。
「濡れちゃったから」
伊吹のことばにずきんとして、タオルの下のものが震えた。
「お風呂借りてもいいですか?」
「あ、うん」
なんだ、美並自身のこと、そう思って、背中を向けて仕事仕様のスーツジャケットを脱ぐ伊吹をぼんやりと見る。
僕、びしょ濡れでしがみついちゃったから、しかもボディソープ半端に落とした状態だったから、染みになっちゃうかもしれない。新しいスーツ、買いに行かなくちゃいけない。
するりと落とされたジャケットの下、ブラウス一枚の背中がしなやかにそって、振り向いたのだと気づいて顔を上げる。
「一緒に入る?」
「…え…?」
「体、冷えたでしょう?」
微笑む伊吹に京介はしばらくぽかんとして、唐突に我に返る。
「あ、あ、あっ」
「?」
「あの、うん、ちょっと、待って、でも、それ」
どうしよう。
浴室の中もきっととんでもないままで。
「僕、あのっ」
「……だめ、ですか?」
一瞬動きを止めた伊吹が生真面目な顔になって、それからまた、さっきと同じ静かな寂しそうな顔で笑った。外しかけたブラウスのボタンをゆっくりと留め直す。
「……じゃあ、タオル、貸して下さい」
さすがにこのままじゃ帰れないんで。
淡々とした声で少し俯いて、微かに笑う。
「アイロンも、お願いします」
なるべく急いで乾かしますから。
「……課長は、もう一度、お風呂に入ってこられたほうがいいですよ」
「あ、うん」
そうだよね、こんな格好でみっともないったら。
アイロンはここ、タオルはこれ、と急いで準備して、浴室に向かいかけた背中に、やっぱり静かな声が届く。
「服が乾いたら、すぐに出ていきますから、安心して下さい」
「えっ」
ぎょっとして振り向くと、伊吹は頷いて顔を上げる。
「『ニット・キャンパス』の話は明日の朝、聞かせてもらうことにします」
「『ニット・キャンパス』…」
急にまともに焦点をついたことばを出されて京介は固まる。
「締め切り、過ぎてたんでしょう?」
「う、ん、でも」
「参加が通った、って言いましたよね?」
「うん、それは」
「大輔さんと取り引きしたんですか?」
「っっ」
ぞっとした。
頭の真上から氷の串に刺し通されたみたいに動けなくなる。
「だい…すけ…?」
「向田市社会連絡協議会、青年部部長、だそうですね」
知りませんでした、そう続けられてことばが出なくなった。
「伊吹…さ…」
「締め切りを繰り上げた提案者だそうですね。『Brechen』も申し込んだようですが、通らなかったと」
「『Brechen』……?」
なぜ、そんなことを伊吹が知っているのだろう。
そう思った瞬間に閃いたのは、今日は駄目だと言ったことば。
「明日駄目なのは、大輔さんと会うから、ですか?」
「伊吹、さん、こそ…っ」
不安と焦りと苛立ちと。
一番痛いところを指摘されて頭に血が昇る。
あんなに辛い思いして。
あんなに苦しんで。
なのに、君は大石と会ってたんだ?
「今日、駄目だったのは、あいつと会うからだったの?」
声が冷えた。
「あいつ?」
「大石、圭吾」
「? 違いま……っ」
嘘つき。
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