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第3章
2.バックドア(8)
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「どうしたんですか、京介」
抱いて、と訴えたのを優しく受け止めてもらって抱き締められたら、もう一人で立っていられなくて、しがみついて伊吹の胸に甘えていた。
時間を戻したい。
眠っていた時間のまま。
明達と騒いで気持ちよかったあの夜まででもいい。
でもきっと駄目なんだ。
静かに澄み渡ってくる脳裏に浮かぶのは、大輔の手に握られた伊吹のマフラー。
大事そうだったのにあんなことに使われて、あげくに捨ててきてしまった。ひょっとしたら、伊吹にとってかけがえなく大切だったものかもしれないのに。
そんなふうに、京介は伊吹を傷つけてしまうかもしれない。
京介の大事なものは粉々だけど、伊吹の大事なものまで、マフラーより酷い目に合わされてしまうかもしれない。
そんなことになるぐらいなら。
「疲れたのかな、ちゃんと寝なくちゃだめだよね」
深呼吸して立ち上がると、ふいに自分が汚れたシャツのまま居ることに気付いて、顔が熱くなった。
恥ずかしい。
こんな格好で伊吹に甘えていたのか、とうろたえる。
「ちょっと着替えて、ついでに外回りしてくるよ」
お昼前には戻ってくるから、僕のおにぎり食べないでね、と付け加えると、伊吹が大丈夫ですよ、と笑ってくれた。
会社に置いてある予備のシャツと下着に着替えて、朝、煮詰まった状態でまとめたデータを見直す。高崎への連絡も付け加えて、明日から動けるようにもう少し手配を詰めた。
石塚が何か言いたげだったけれど、何、と尋ねると、何でもありませんと言いつつ、険しい表情で顔を背けて、朝はよほどぶっ飛んでたのかなと反省する。
得意先を回って、商談を詰めて。
不思議に静かに仕事を進められた。
「いいお天気ですね、せっかくだから屋上で食べましょう」
伊吹がそう誘ってくれて外に出る。
「もらっていい?」
「どうぞ……二種類しかないし、おかずなし、ですけどね」
「いいよ」
ああ、これこれ、とおにぎりを口に運んだ。
「僕、伊吹さんのおにぎり、好きだし」
考えてみれば、始めからずっと、伊吹さんが欲しかったんだなあ、と京介は思う。
始めはおにぎりだと思ってて、けど、結局は伊吹さんが欲しくて。
ようやくここまで来れたけど。
「どうして今日行きたかったの?」
「ん?」
「映画とドライブ」
「ああ……もういいんだ、僕ちょっと」
伊吹さんはやっぱり鋭い、何か感じているんだな、と苦笑する。
「ちょっと、焦ってて」
「焦ってた?」
「うん……美並、が……遠くへ行く、ような気がして」
本当は僕が遠くへ行っちゃうかも、なんだけど、そうなったらもうここには戻ってこないから、きっと伊吹さんだって気付かない。
「一緒に居る、って言いましたよね?」
「うん、そうだね」
まず京介の不安を取り除いてくれようとする伊吹のことばに微笑む。
嬉しい。
君に会えて、よかった。
それだけでも、きっとあの真崎の家から出て来てよかったんだ。
「映画を一緒に見に行きたいの?」
「うん」
「明日には終わってしまうの?」
「……うん……終わってしまうかもね」
大輔に抱かれて、どこまで正気でいられるかわからない。昨日なんて、イかされただけだったのに、何だかもうぐずぐずになった。成長して、なまじ快感を知っているだけに余計まずいのかもしれない。快感に煽られる自分と、大輔に殺される自分との板挟みになって、心も身体もばらばらになる。
「おいしいな」
「もう一個ありますよ? 食べる?」
「うん……凄く、おいしい」
最後の晩餐。
豪勢なものでなくていいんだな、大好きな人と一緒においしいと思って食べられれば、食事は何でも楽しいんだ。
ああ、なんか、こんなぎりぎりになって、いろんなことがいっぱいわかる。
「課長?」
「はい」
「明日、出張か何かあるんですか?」
出張。
切なくて胸が詰まっていた矢先に、そのことばがひどく平凡に聞こえる。
「……なんで?」
そんなもの、ないよ。
「何か、見える?」
わからないの、伊吹さん。
「ああ、おいしかった」
でも、わかったら最後、嫌われるよね、仕事を身体で買おうとしてるなんて、真崎京介なんかじゃない。
「ごちそうさま、伊吹さん」
でも、それしか方法がない、君を失わない方法。
「足りました?」
ぽつんと尋ねられて、今度は確実に堪えた。
足りるわけがないじゃないか。
思わず伊吹が片付けている包みを見下ろす。
足りるわけ、ないよ。
「少し、足りない、かも」
もっと欲しいに決まってる。
「追加買ってきましょうか」
そんなことじゃない。
「ううん、いいよ」
なんで?
「今度はもっと作ってきますね?」
「今度?」
なんで、わかってくれない?
なんで、もっと見てくれない?
今度なんて、もうない。
僕にはもう今しかない。
伊吹さんなのに、どうしてもっと、僕を見てくれないの。
「課長……いえ、京介」
ぞくんと竦んだ腰、煽られて熱くなる身体に京介は泣きそうになる。
今さら、名前を呼ばれたって。
ふいに、立ち上がった伊吹が、透明な視線で京介を見つめてきた。
「私は、信じられないですか?」
射抜かれて、動けなくなる。
「私は京介が信頼するに足りない、ですか?」
事もあろうに、そんなことを聞くなんて。
「そんな、こと、ない…でも」
「でも?」
「僕は、美並を」
吐き出したくなる、全てのことを。
「失いたく、ない、から」
「失いませんよ?」
これも伊吹の能力なのか、そう思いつつ首を振る。ぶちまけたい、訴えたい、辛くて寂しくて怖くて苦しい、助けてほしい抱いてほしい。でも。
「失う」
美並を。
「え?」
京介のせいで。
「大丈夫、だ。慣れてる、から」
あのマフラーみたいに。
それだけは、嫌だ。
「京介?」
「ごめんっ…」
もう堪え切れなくて、身を翻し、京介は一気に駆け去った。
抱いて、と訴えたのを優しく受け止めてもらって抱き締められたら、もう一人で立っていられなくて、しがみついて伊吹の胸に甘えていた。
時間を戻したい。
眠っていた時間のまま。
明達と騒いで気持ちよかったあの夜まででもいい。
でもきっと駄目なんだ。
静かに澄み渡ってくる脳裏に浮かぶのは、大輔の手に握られた伊吹のマフラー。
大事そうだったのにあんなことに使われて、あげくに捨ててきてしまった。ひょっとしたら、伊吹にとってかけがえなく大切だったものかもしれないのに。
そんなふうに、京介は伊吹を傷つけてしまうかもしれない。
京介の大事なものは粉々だけど、伊吹の大事なものまで、マフラーより酷い目に合わされてしまうかもしれない。
そんなことになるぐらいなら。
「疲れたのかな、ちゃんと寝なくちゃだめだよね」
深呼吸して立ち上がると、ふいに自分が汚れたシャツのまま居ることに気付いて、顔が熱くなった。
恥ずかしい。
こんな格好で伊吹に甘えていたのか、とうろたえる。
「ちょっと着替えて、ついでに外回りしてくるよ」
お昼前には戻ってくるから、僕のおにぎり食べないでね、と付け加えると、伊吹が大丈夫ですよ、と笑ってくれた。
会社に置いてある予備のシャツと下着に着替えて、朝、煮詰まった状態でまとめたデータを見直す。高崎への連絡も付け加えて、明日から動けるようにもう少し手配を詰めた。
石塚が何か言いたげだったけれど、何、と尋ねると、何でもありませんと言いつつ、険しい表情で顔を背けて、朝はよほどぶっ飛んでたのかなと反省する。
得意先を回って、商談を詰めて。
不思議に静かに仕事を進められた。
「いいお天気ですね、せっかくだから屋上で食べましょう」
伊吹がそう誘ってくれて外に出る。
「もらっていい?」
「どうぞ……二種類しかないし、おかずなし、ですけどね」
「いいよ」
ああ、これこれ、とおにぎりを口に運んだ。
「僕、伊吹さんのおにぎり、好きだし」
考えてみれば、始めからずっと、伊吹さんが欲しかったんだなあ、と京介は思う。
始めはおにぎりだと思ってて、けど、結局は伊吹さんが欲しくて。
ようやくここまで来れたけど。
「どうして今日行きたかったの?」
「ん?」
「映画とドライブ」
「ああ……もういいんだ、僕ちょっと」
伊吹さんはやっぱり鋭い、何か感じているんだな、と苦笑する。
「ちょっと、焦ってて」
「焦ってた?」
「うん……美並、が……遠くへ行く、ような気がして」
本当は僕が遠くへ行っちゃうかも、なんだけど、そうなったらもうここには戻ってこないから、きっと伊吹さんだって気付かない。
「一緒に居る、って言いましたよね?」
「うん、そうだね」
まず京介の不安を取り除いてくれようとする伊吹のことばに微笑む。
嬉しい。
君に会えて、よかった。
それだけでも、きっとあの真崎の家から出て来てよかったんだ。
「映画を一緒に見に行きたいの?」
「うん」
「明日には終わってしまうの?」
「……うん……終わってしまうかもね」
大輔に抱かれて、どこまで正気でいられるかわからない。昨日なんて、イかされただけだったのに、何だかもうぐずぐずになった。成長して、なまじ快感を知っているだけに余計まずいのかもしれない。快感に煽られる自分と、大輔に殺される自分との板挟みになって、心も身体もばらばらになる。
「おいしいな」
「もう一個ありますよ? 食べる?」
「うん……凄く、おいしい」
最後の晩餐。
豪勢なものでなくていいんだな、大好きな人と一緒においしいと思って食べられれば、食事は何でも楽しいんだ。
ああ、なんか、こんなぎりぎりになって、いろんなことがいっぱいわかる。
「課長?」
「はい」
「明日、出張か何かあるんですか?」
出張。
切なくて胸が詰まっていた矢先に、そのことばがひどく平凡に聞こえる。
「……なんで?」
そんなもの、ないよ。
「何か、見える?」
わからないの、伊吹さん。
「ああ、おいしかった」
でも、わかったら最後、嫌われるよね、仕事を身体で買おうとしてるなんて、真崎京介なんかじゃない。
「ごちそうさま、伊吹さん」
でも、それしか方法がない、君を失わない方法。
「足りました?」
ぽつんと尋ねられて、今度は確実に堪えた。
足りるわけがないじゃないか。
思わず伊吹が片付けている包みを見下ろす。
足りるわけ、ないよ。
「少し、足りない、かも」
もっと欲しいに決まってる。
「追加買ってきましょうか」
そんなことじゃない。
「ううん、いいよ」
なんで?
「今度はもっと作ってきますね?」
「今度?」
なんで、わかってくれない?
なんで、もっと見てくれない?
今度なんて、もうない。
僕にはもう今しかない。
伊吹さんなのに、どうしてもっと、僕を見てくれないの。
「課長……いえ、京介」
ぞくんと竦んだ腰、煽られて熱くなる身体に京介は泣きそうになる。
今さら、名前を呼ばれたって。
ふいに、立ち上がった伊吹が、透明な視線で京介を見つめてきた。
「私は、信じられないですか?」
射抜かれて、動けなくなる。
「私は京介が信頼するに足りない、ですか?」
事もあろうに、そんなことを聞くなんて。
「そんな、こと、ない…でも」
「でも?」
「僕は、美並を」
吐き出したくなる、全てのことを。
「失いたく、ない、から」
「失いませんよ?」
これも伊吹の能力なのか、そう思いつつ首を振る。ぶちまけたい、訴えたい、辛くて寂しくて怖くて苦しい、助けてほしい抱いてほしい。でも。
「失う」
美並を。
「え?」
京介のせいで。
「大丈夫、だ。慣れてる、から」
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それだけは、嫌だ。
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「ごめんっ…」
もう堪え切れなくて、身を翻し、京介は一気に駆け去った。
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