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第3章
2.バックドア(6)
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「いいお天気ですね」
せっかくだから屋上で食べましょう。誘って真崎と外に出た。
置かれているベンチに並んで二人、美並が持参した包みを開くのを、真崎はじっと見ている。
抱いてと言われても、はいそうですか、と言えるわけもなく、それでも今にも崩れ落ちそうなのを手を伸ばして抱き締めると、へたへたと膝をついてしがみついてきて驚いた。
きつく閉じた目、眼鏡が歪みそうなのも頓着せずに美並の胸に頭を押し付け動かなくなる。十分、いやニ十分ぐらいもしていただろうか、やがて瞬きして、のろのろと顔を上げ、ありがとう、と笑った。
『疲れたのかな、ちゃんと寝なくちゃだめだよね』
にこりと笑いながら立ち上がる。動作にはもういつもの滑らかさが戻っていて。
何があったの、そう尋ねるつもりの美並の質問を見事に封じてしまった。
少し立ち直ってみると、ようやく自分のシャツに気付いたらしく、ちょっと着替えて、ついでに外回りしてくるよ、と何ごともなかったように美並の側を離れていった。戻ってきたのは計ったように昼前で、先に昼に入った石塚の動きも読み込んでいたようなタイミングのよさ、その卒なさは、始めの頃の真崎を思わせた。
「もらっていい?」
「どうぞ」
二種類しかないし、おかずなし、ですけどね。
「いいよ」
真崎が嬉しそうにおにぎりを掴む。
「僕、伊吹さんのおにぎり、好きだし」
お返し、と買ってきてくれたお茶のペットボトルを受け取り、美並もおにぎりを摘む。
しばらくそのまま、二人でゆっくり、何も話さずに食べ続けた。
警戒が募る。
美並の中にじわじわと黒い靄が広がっていく。
さっきは明らかに壊れそうだった。
同じものをどこかで見たことがある、そう感じて思い出したのは恵子に襲われて自殺しそうになっていた時。
けれど理由がわからない。
「どうして今日行きたかったの?」
「ん?」
「映画とドライブ」
「ああ……もういいんだ、僕ちょっと」
一瞬真崎が動きを止めた。そちらを見遣ると彼方の空を見つめながら、
「ちょっと、焦ってて」
「焦ってた?」
「うん……美並、が」
こくん、ともぐもぐしていた口の中身を呑み込んで、真崎はなおもまっすぐに彼方を向いたまま、
「遠くへ行く、ような気がして」
「一緒に居る、って言いましたよね?」
「うん、そうだね」
またふわりと真崎は笑った。
さっきよりは格段に真崎は落ち着いている、ように見える。
けれど笑うたびに、確実に薄白い靄が真崎の周りを覆っていくのがわかる。
「映画を一緒に見に行きたいの?」
「うん」
「明日には終わってしまうの?」
「……うん」
終わってしまうかもね。
真崎がくすりと笑った。
気になったから、美並は午前中の空き時間に、今上演している映画を新聞とネットで調べてみた。
真崎は今日にこだわっている。今日か明日終わる予定の映画か何かがあるかどうかあたってみたが、ほとんどのものは今月末か、クリスマス直前まで続いている。
真崎の「終わるもの」は、見たがっている映画ではないということだ。
美並が遠くへ行くから焦った、そう真崎は伝えてきた。けれど、美並は退職する予定はない。引っ越す予定もない。
ひょっとして、昨日元子が持ち出した社長付きの秘書の件が、そうそうに真崎に伝わってしまったのだろうか。
でもそれなら、ドライブ、というのがわからない。
「おいしいな」
「もう一個ありますよ? 食べる?」
「うん……凄く、おいしい」
噛み締めるように、味わうように丁寧に食べる真崎は嬉しいが、どうも大袈裟すぎる気がする。まるで、これが最後の食事のようだ。
「課長?」
「はい」
「明日、出張か何かあるんですか?」
「……」
真崎が動かなくなった。
「……なんで?」
何か、見える?
懐かしい台詞だ、と美並は思った。
初めてぶつかったあの夜みたいな感覚、そう気付いて少し目を見開く。
抱いて、と真崎は言わなかったか。
真崎の「抱く」は一般の男性と少し意味合いが違っている。自分が「抱く」だけではなく、「抱かれる」感覚が同時に入っている。抱かれて、自分の全てを暴かれて。それが真崎の望むことだ。
そこに重なるこの懐かしい感覚、しかも「抱いて」とねだられているということは、真崎は美並に暴かれたがっているということ、つまりそれは、美並は真崎の何かを暴き損ねている、そういうことではないのか。
「ああ、おいしかった」
美並がその何か、に辿りつこうとした矢先、真崎が伸びをしながら立ち上がった。
「ごちそうさま、伊吹さん」
「足りました?」
「……うん……少し、足りない、かも」
声が揺れて掠れて響く。
「追加買ってきましょうか」
「ううん、いいよ」
逆光になった真崎の表情ははっきり見えない。ただ、見る見る真崎の熱が閉じ込められていくような気配が広がってきて、不安になる。
「今度はもっと作ってきますね?」
「今度?」
オウム返しに問いかける、そのことばに潜んだのは嘲笑、それもまた、あの夜と似ているもの。
見えないんでしょう、そうなじられるような。
今度なんて、ないよ。
泣きそうな声が響き渡った気がして、美並も立ち上がる。
「課長……いえ、京介」
手を伸ばすと、真崎がゆらりと後ずさった。
その瞬間に確信する。
真崎は何かを隠している。美並に関わる何か、を話すに話せないでいる。
閃いた疑問をそのままぶつける。
「私は、信じられないですか?」
明らかに真崎の体が強ばった。
「私は京介が信頼するに足りない、ですか?」
「そんな、こと、ない…でも」
「でも?」
光を浴びて浮かび上がった相手の顔が真っ白になっている。凍りついて感情を失った表情は人形のようだ。整っていて無機質で。さっきの淫靡さの方がまだ人間らしかった。これではまるで。
ゼンマイ仕掛け。
元子の声が蘇る。
「僕は、美並を」
ぎくしゃくと後ずさっていく動き、まるで誰かに操られるように。
「失いたく、ない、から」
「失いませんよ?」
真崎は首を振った。
眉を寄せて微かに笑う。
「失う」
「え?」
「大丈夫、だ。慣れてる、から」
儚くて、今にも消えてしまいそうな笑顔。
胸から腰にかけて内側から突き出してくる、ぎらぎら光る砕かれたガラス片。
なぜ、これが、今戻ってきている?
薄靄の向こうに真崎の姿が呑み込まれそうだ。
「京介?」
「ごめんっ…」
突然身を翻し、真崎は一気に駆け去った。
せっかくだから屋上で食べましょう。誘って真崎と外に出た。
置かれているベンチに並んで二人、美並が持参した包みを開くのを、真崎はじっと見ている。
抱いてと言われても、はいそうですか、と言えるわけもなく、それでも今にも崩れ落ちそうなのを手を伸ばして抱き締めると、へたへたと膝をついてしがみついてきて驚いた。
きつく閉じた目、眼鏡が歪みそうなのも頓着せずに美並の胸に頭を押し付け動かなくなる。十分、いやニ十分ぐらいもしていただろうか、やがて瞬きして、のろのろと顔を上げ、ありがとう、と笑った。
『疲れたのかな、ちゃんと寝なくちゃだめだよね』
にこりと笑いながら立ち上がる。動作にはもういつもの滑らかさが戻っていて。
何があったの、そう尋ねるつもりの美並の質問を見事に封じてしまった。
少し立ち直ってみると、ようやく自分のシャツに気付いたらしく、ちょっと着替えて、ついでに外回りしてくるよ、と何ごともなかったように美並の側を離れていった。戻ってきたのは計ったように昼前で、先に昼に入った石塚の動きも読み込んでいたようなタイミングのよさ、その卒なさは、始めの頃の真崎を思わせた。
「もらっていい?」
「どうぞ」
二種類しかないし、おかずなし、ですけどね。
「いいよ」
真崎が嬉しそうにおにぎりを掴む。
「僕、伊吹さんのおにぎり、好きだし」
お返し、と買ってきてくれたお茶のペットボトルを受け取り、美並もおにぎりを摘む。
しばらくそのまま、二人でゆっくり、何も話さずに食べ続けた。
警戒が募る。
美並の中にじわじわと黒い靄が広がっていく。
さっきは明らかに壊れそうだった。
同じものをどこかで見たことがある、そう感じて思い出したのは恵子に襲われて自殺しそうになっていた時。
けれど理由がわからない。
「どうして今日行きたかったの?」
「ん?」
「映画とドライブ」
「ああ……もういいんだ、僕ちょっと」
一瞬真崎が動きを止めた。そちらを見遣ると彼方の空を見つめながら、
「ちょっと、焦ってて」
「焦ってた?」
「うん……美並、が」
こくん、ともぐもぐしていた口の中身を呑み込んで、真崎はなおもまっすぐに彼方を向いたまま、
「遠くへ行く、ような気がして」
「一緒に居る、って言いましたよね?」
「うん、そうだね」
またふわりと真崎は笑った。
さっきよりは格段に真崎は落ち着いている、ように見える。
けれど笑うたびに、確実に薄白い靄が真崎の周りを覆っていくのがわかる。
「映画を一緒に見に行きたいの?」
「うん」
「明日には終わってしまうの?」
「……うん」
終わってしまうかもね。
真崎がくすりと笑った。
気になったから、美並は午前中の空き時間に、今上演している映画を新聞とネットで調べてみた。
真崎は今日にこだわっている。今日か明日終わる予定の映画か何かがあるかどうかあたってみたが、ほとんどのものは今月末か、クリスマス直前まで続いている。
真崎の「終わるもの」は、見たがっている映画ではないということだ。
美並が遠くへ行くから焦った、そう真崎は伝えてきた。けれど、美並は退職する予定はない。引っ越す予定もない。
ひょっとして、昨日元子が持ち出した社長付きの秘書の件が、そうそうに真崎に伝わってしまったのだろうか。
でもそれなら、ドライブ、というのがわからない。
「おいしいな」
「もう一個ありますよ? 食べる?」
「うん……凄く、おいしい」
噛み締めるように、味わうように丁寧に食べる真崎は嬉しいが、どうも大袈裟すぎる気がする。まるで、これが最後の食事のようだ。
「課長?」
「はい」
「明日、出張か何かあるんですか?」
「……」
真崎が動かなくなった。
「……なんで?」
何か、見える?
懐かしい台詞だ、と美並は思った。
初めてぶつかったあの夜みたいな感覚、そう気付いて少し目を見開く。
抱いて、と真崎は言わなかったか。
真崎の「抱く」は一般の男性と少し意味合いが違っている。自分が「抱く」だけではなく、「抱かれる」感覚が同時に入っている。抱かれて、自分の全てを暴かれて。それが真崎の望むことだ。
そこに重なるこの懐かしい感覚、しかも「抱いて」とねだられているということは、真崎は美並に暴かれたがっているということ、つまりそれは、美並は真崎の何かを暴き損ねている、そういうことではないのか。
「ああ、おいしかった」
美並がその何か、に辿りつこうとした矢先、真崎が伸びをしながら立ち上がった。
「ごちそうさま、伊吹さん」
「足りました?」
「……うん……少し、足りない、かも」
声が揺れて掠れて響く。
「追加買ってきましょうか」
「ううん、いいよ」
逆光になった真崎の表情ははっきり見えない。ただ、見る見る真崎の熱が閉じ込められていくような気配が広がってきて、不安になる。
「今度はもっと作ってきますね?」
「今度?」
オウム返しに問いかける、そのことばに潜んだのは嘲笑、それもまた、あの夜と似ているもの。
見えないんでしょう、そうなじられるような。
今度なんて、ないよ。
泣きそうな声が響き渡った気がして、美並も立ち上がる。
「課長……いえ、京介」
手を伸ばすと、真崎がゆらりと後ずさった。
その瞬間に確信する。
真崎は何かを隠している。美並に関わる何か、を話すに話せないでいる。
閃いた疑問をそのままぶつける。
「私は、信じられないですか?」
明らかに真崎の体が強ばった。
「私は京介が信頼するに足りない、ですか?」
「そんな、こと、ない…でも」
「でも?」
光を浴びて浮かび上がった相手の顔が真っ白になっている。凍りついて感情を失った表情は人形のようだ。整っていて無機質で。さっきの淫靡さの方がまだ人間らしかった。これではまるで。
ゼンマイ仕掛け。
元子の声が蘇る。
「僕は、美並を」
ぎくしゃくと後ずさっていく動き、まるで誰かに操られるように。
「失いたく、ない、から」
「失いませんよ?」
真崎は首を振った。
眉を寄せて微かに笑う。
「失う」
「え?」
「大丈夫、だ。慣れてる、から」
儚くて、今にも消えてしまいそうな笑顔。
胸から腰にかけて内側から突き出してくる、ぎらぎら光る砕かれたガラス片。
なぜ、これが、今戻ってきている?
薄靄の向こうに真崎の姿が呑み込まれそうだ。
「京介?」
「ごめんっ…」
突然身を翻し、真崎は一気に駆け去った。
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