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第2章
10.ブラインド・ベット(7)
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「なあ、美並」
ベッドの横にシュラフにくるまって寝転んだ明が夜更けに声をかけてきた。
美並、は明が大学へ行き出してから、改まった話をする時に使う呼び名になっている。
「寝た?」
「何?」
「……あいつのこと、もう忘れた?」
あいつ、が誰を指すのか、お互いに確認しなくともわかっている。
美並は眼を開け、じっと天井を見つめた。
「忘れてない」
明に隠し立てをするつもりはない。特に美並、と呼び掛けてきたときは。
「……恨んでる?」
「ううん」
「………真崎、ってやつは、あいつのこと、知ってる?」
「うん」
その応えは明にとってなぜか意外だったらしい。
「……そんなふうには見えなかったけどな」
「え?」
「いつから付き合ってるの?」
「うーむ」
「うーむ……って何だよ」
「どのあたりから付き合ってるって言うのかな……」
「おい」
シュラフのジッパーを開いてむくりと明が体を起こす。
「何だよ、そのどのあたりからって……っ」
覗き込んできた明が振り向いた美並に一瞬微かに息を呑んだ。
「………何」
「いや、その」
明らかな困惑を浮かべて顔を背ける。
「なんか今一瞬、美並に見えなかったから」
「はい?」
「どっかの知らない女に見えた」
「何よ、それ」
七海さんに言い付けるわよ、とからかうと明が苦笑する。
「あ、そういうこと?」
「ん?」
「美並、もうあの人と夜一緒に過ごしたことあんだ?」
「う」
あいかわらずはっきり物を言うよね、そう思いつつ、ふと明のことばに引っ掛かる。
「あの、人?」
「あ」
「私、明に課長のこと話したのは初めてだよね?」
「……ああ」
「どこで課長見たの?」
「……ちぇっ」
明が軽く舌打ちする。どたん、と大袈裟にシュラフに転がって天井を見上げる。
「ばれちゃった」
「何が」
「一度、姉ちゃんの会社、見に行ったことがあるんだよ」
「え?」
「どうしてるかってみんな気にしてたから」
「ああ」
美並、が姉ちゃん、に戻った。
美並も同じように天井を見上げながら眼を閉じる。
明は今嘘をつこうとしているんだ、とわかる。距離を取り、美並に知らせたくないことをそっと隠そうとしている。
明が美並を傷つけるような嘘をつくことはない。ならば、安心して、だまされればいい。そう思ったけど。
「そうしたら、迷っちゃって、その時に会ったことがある人がそうかなと思って」
明は一人でキャンプに出かけたりすることもある。単独で行動するのも集団で行動するのも得意で、しかも今度就くのは営業職、このあたりの単純な街並で迷うとは思えない。
「真崎さん、って呼ばれてたから」
なんかえらく綺麗な顔してる人だろ。
『なんか男のくせに妙に華やかで綺麗な顔してるやつで』
綺麗な顔。
同じ表現が別人で二度重なることは少ない。ましてや「綺麗な」「男」となるとかなり限られてくる表現、それを明が立続けに口にして気付く。
「明」
「ん?」
「課長に御飯奢ってもらったの?」
「う」
「なんで?」
「あ~」
明が頼りない声を上げた。
「やっぱり。姉ちゃんに隠し事できるとは思ってなかったけどなあ」
溜め息をついてがしがしと頭をかいた。やがて、その手をぴたりと止める。
「あのさ、はっきり言うけど」
ゆっくりと大きな息を吐いて、明が静かに続けた。
「あの人は、やめろよ」
「……なんで?」
やっぱり明はそう言うだろう、と思っていた。
美並は少し息を吐く。
「……綺麗、すぎるじゃん」
その理由もまた明特有だ。
「欲しがる人、一杯いるだろ」
「…うん」
眼を閉じたまま頷いた闇の視界には、大輔の強ばった笑顔や恵子の媚びる表情、相子の引きつった顔が次々と過る。
「姉ちゃん、きっと怪我する」
明が不愉快そうに呟いた。
「あの人じゃ、守り切れない」
力不足ってこと?
そう尋ねると、明は少し黙った。
沈黙がゆっくりと夜気に冷えて凝っていく。
「力は……あるよ、きっと」
見えてる以上にタフでしたたかな人なんだろうと思う。
考え考え明は呟いた。その口調に、ただ迷ったときに出会った、そういうことではないな、と美並は思った。
通りすがったより深く、おしゃべりしたより近く、明は真崎と接したことがあるのだ。
なのに、真崎は明と会ったこと、明のことを知っていることを露ほども見せなかった。真崎がそうやって感情を殺すとき、それは自分に関することだと美並はもうわかっている。大石に見せたように、美並に装ったように、自分の大切なものを手放そうとするとき、真崎は自分を殺してしまうのだ。
そして、それは時に一気に弾けてしまう。
会社で美並が辞めるのかと迫った激しい感情、あれはひょっとして明から何かを知って不安になったからなのか?
「明」
「ん」
「京介に何を話したの」
「え?」
「私のこと、何か話したでしょう」
明がぎゅっと唇を閉じた気配がした。
「あなたじゃだめだ、そんなこと言ってないわよね?」
「……姉ちゃん」
「何も言わずに黙ってただろうけど、」
それとも平然と笑っていたかもしれないけど。
美並はずきずきする胸に喉を詰まらせそうになりながら続ける。
「私に言ったみたいに、京介に、諦めろとか、言ってないわよね?」
きっとそう言われても、真崎は理由も正さず聞いていただろうけれど。
閉じた目蓋の裏が一気に熱くなって美並は慌てて目を見開いた。ゆらりと闇が揺れる。真崎の、いつか見たベランダに立ちすくんで微笑んだ淡い笑みを底に溶かして。
「やっと、好きだっていう気持ちがわかってきたのに、そんなひどいこと、してないわよね?」
「……美並…」
ごそりと起きた明が零れ落ちた美並の涙に気付いて低い声で呟いた。
「……決めちゃってるんだ?」
「うん」
「誰が反対しても」
「うん」
「俺が嫌がっても」
「うん」
ごめん、明。
「………昔から」
微かな溜め息をついて、明が首を振った。
「こうと決めたら、もう引かない」
やれやれ、厄介な姉きだよね。
ゆっくりと寝そべりながら明は笑った。
ベッドの横にシュラフにくるまって寝転んだ明が夜更けに声をかけてきた。
美並、は明が大学へ行き出してから、改まった話をする時に使う呼び名になっている。
「寝た?」
「何?」
「……あいつのこと、もう忘れた?」
あいつ、が誰を指すのか、お互いに確認しなくともわかっている。
美並は眼を開け、じっと天井を見つめた。
「忘れてない」
明に隠し立てをするつもりはない。特に美並、と呼び掛けてきたときは。
「……恨んでる?」
「ううん」
「………真崎、ってやつは、あいつのこと、知ってる?」
「うん」
その応えは明にとってなぜか意外だったらしい。
「……そんなふうには見えなかったけどな」
「え?」
「いつから付き合ってるの?」
「うーむ」
「うーむ……って何だよ」
「どのあたりから付き合ってるって言うのかな……」
「おい」
シュラフのジッパーを開いてむくりと明が体を起こす。
「何だよ、そのどのあたりからって……っ」
覗き込んできた明が振り向いた美並に一瞬微かに息を呑んだ。
「………何」
「いや、その」
明らかな困惑を浮かべて顔を背ける。
「なんか今一瞬、美並に見えなかったから」
「はい?」
「どっかの知らない女に見えた」
「何よ、それ」
七海さんに言い付けるわよ、とからかうと明が苦笑する。
「あ、そういうこと?」
「ん?」
「美並、もうあの人と夜一緒に過ごしたことあんだ?」
「う」
あいかわらずはっきり物を言うよね、そう思いつつ、ふと明のことばに引っ掛かる。
「あの、人?」
「あ」
「私、明に課長のこと話したのは初めてだよね?」
「……ああ」
「どこで課長見たの?」
「……ちぇっ」
明が軽く舌打ちする。どたん、と大袈裟にシュラフに転がって天井を見上げる。
「ばれちゃった」
「何が」
「一度、姉ちゃんの会社、見に行ったことがあるんだよ」
「え?」
「どうしてるかってみんな気にしてたから」
「ああ」
美並、が姉ちゃん、に戻った。
美並も同じように天井を見上げながら眼を閉じる。
明は今嘘をつこうとしているんだ、とわかる。距離を取り、美並に知らせたくないことをそっと隠そうとしている。
明が美並を傷つけるような嘘をつくことはない。ならば、安心して、だまされればいい。そう思ったけど。
「そうしたら、迷っちゃって、その時に会ったことがある人がそうかなと思って」
明は一人でキャンプに出かけたりすることもある。単独で行動するのも集団で行動するのも得意で、しかも今度就くのは営業職、このあたりの単純な街並で迷うとは思えない。
「真崎さん、って呼ばれてたから」
なんかえらく綺麗な顔してる人だろ。
『なんか男のくせに妙に華やかで綺麗な顔してるやつで』
綺麗な顔。
同じ表現が別人で二度重なることは少ない。ましてや「綺麗な」「男」となるとかなり限られてくる表現、それを明が立続けに口にして気付く。
「明」
「ん?」
「課長に御飯奢ってもらったの?」
「う」
「なんで?」
「あ~」
明が頼りない声を上げた。
「やっぱり。姉ちゃんに隠し事できるとは思ってなかったけどなあ」
溜め息をついてがしがしと頭をかいた。やがて、その手をぴたりと止める。
「あのさ、はっきり言うけど」
ゆっくりと大きな息を吐いて、明が静かに続けた。
「あの人は、やめろよ」
「……なんで?」
やっぱり明はそう言うだろう、と思っていた。
美並は少し息を吐く。
「……綺麗、すぎるじゃん」
その理由もまた明特有だ。
「欲しがる人、一杯いるだろ」
「…うん」
眼を閉じたまま頷いた闇の視界には、大輔の強ばった笑顔や恵子の媚びる表情、相子の引きつった顔が次々と過る。
「姉ちゃん、きっと怪我する」
明が不愉快そうに呟いた。
「あの人じゃ、守り切れない」
力不足ってこと?
そう尋ねると、明は少し黙った。
沈黙がゆっくりと夜気に冷えて凝っていく。
「力は……あるよ、きっと」
見えてる以上にタフでしたたかな人なんだろうと思う。
考え考え明は呟いた。その口調に、ただ迷ったときに出会った、そういうことではないな、と美並は思った。
通りすがったより深く、おしゃべりしたより近く、明は真崎と接したことがあるのだ。
なのに、真崎は明と会ったこと、明のことを知っていることを露ほども見せなかった。真崎がそうやって感情を殺すとき、それは自分に関することだと美並はもうわかっている。大石に見せたように、美並に装ったように、自分の大切なものを手放そうとするとき、真崎は自分を殺してしまうのだ。
そして、それは時に一気に弾けてしまう。
会社で美並が辞めるのかと迫った激しい感情、あれはひょっとして明から何かを知って不安になったからなのか?
「明」
「ん」
「京介に何を話したの」
「え?」
「私のこと、何か話したでしょう」
明がぎゅっと唇を閉じた気配がした。
「あなたじゃだめだ、そんなこと言ってないわよね?」
「……姉ちゃん」
「何も言わずに黙ってただろうけど、」
それとも平然と笑っていたかもしれないけど。
美並はずきずきする胸に喉を詰まらせそうになりながら続ける。
「私に言ったみたいに、京介に、諦めろとか、言ってないわよね?」
きっとそう言われても、真崎は理由も正さず聞いていただろうけれど。
閉じた目蓋の裏が一気に熱くなって美並は慌てて目を見開いた。ゆらりと闇が揺れる。真崎の、いつか見たベランダに立ちすくんで微笑んだ淡い笑みを底に溶かして。
「やっと、好きだっていう気持ちがわかってきたのに、そんなひどいこと、してないわよね?」
「……美並…」
ごそりと起きた明が零れ落ちた美並の涙に気付いて低い声で呟いた。
「……決めちゃってるんだ?」
「うん」
「誰が反対しても」
「うん」
「俺が嫌がっても」
「うん」
ごめん、明。
「………昔から」
微かな溜め息をついて、明が首を振った。
「こうと決めたら、もう引かない」
やれやれ、厄介な姉きだよね。
ゆっくりと寝そべりながら明は笑った。
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