『闇を闇から』

segakiyui

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第2章

10.ブラインド・ベット(4)

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「はぁ…」
 やっぱりいろいろ、いろいろとまずかったかな。
 テンション高い真崎がむくれた顔をしながらパソコンに向かって仕事を始める、その顔を可愛いと思ってしまっている自分に呆れながら、美並の頭の中に戻ってきているのは、土曜日の夜。

 一緒にお風呂には入れないけど、一緒にプリン食べましょうか。
 誘ったのは美並で、放置されてしまっている村野のカフェプリンを思い出したから。
「大丈夫かな」
「大丈夫でしょう」
 急いでシャワーを浴び直して、一通り着替えを済ませて二人で並んでリビングで開いた箱には、薄青い陶器のカップが入っている。
「こんなのに入ってるんだ」
 甘い茶色の表面はいささか乾き始めている気もするけれど、ぴっちり覆われたラップを外して、真崎が手早く一つ手に取った。
「じゃあ、僕毒味してみる」
 止める間もなく、中身を掬ってスプーンで口に滑り込ませた真崎がひくんと顔を引きつらせて俯く。
「えっ」
 何、どこかおかしいの、と慌てて覗き込むと、急に顔を上げてきた相手がちゅ、と唇を合わせてきた。
「んっ」
「おいしいよ」
 唇を少し離して真崎が微笑む。
 その顔に、圭吾と向き合った食卓を思い出した。
『同情だと言ったよ、彼は』
『彼女は僕の手管に引っ掛かったに過ぎない、と』
『もっとも、彼も最後には納得してくれて、さっさと連れ去って下さい、とまで言ってくれたけど』
「伊吹さん?」
 どんな気持ちで、圭吾にそう言ったのか、今これほど甘えてくる男が。
「京介」
「、はい」
 名前を呼ぶと、びくりとして生真面目な顔になった相手が目を見開く。眼鏡の向こうの瞳が始めのうちは考えもしなかった柔らかさに濡れているのに、そっと両頬を包む。
「…み…なみ」
「覚えておいてくださいね?」
「え」
「同情じゃありません」
「……うん」
「京介の手管に引っ掛かったわけでもありません」
「…………うん」
「もちろん、カフェプリンを分けてくれたからでもありません」
「うん……」
「京介が、欲しいです」
「っ…」
「私は、京介が欲しい」
「美並…」
「だから、待ってほしいんです」
「?」
「もう少し、待って」
 何を、そう尋ねてくることばを封じて唇を重ねる。ほっとした顔で目を閉じる相手が抱き締めてくるのにそのまま体を任せながら、美並は明のことを考える。
『次のやつは、俺が見る』
 圭吾が裏切ったと知ったときの激しい怒りの目。
『姉ちゃんが構わなくても、俺が俺を許せなくなる』
 普段は静かな人間だけに、吹き上がる怒りに両親も呆れ果てた。
『俺が男として納得できなけりゃ、俺は許さない』
 圭吾の行方がはっきりしなかったからよかったものの、あれで圭吾の居場所がわかっていたら殴り込みかねなかった。
 明にはまだ、圭吾が生きていたことも、真崎のこともはっきり話していない。圭吾のことはともかく、真崎の気持ちが本当に恋愛なのかどうか、まだ微妙だと思っているからだ。
 家族に恵まれず、愛する女性にも巡り合えず、自分の居場所を見つけられなくて心を凍らせてきた男が、ようやく見つけた拠り所だから愛情だと錯覚しても無理はない。
 それでもいい、と思っている。
 真崎が楽に生きられるならそれでいい、そう思ってしまうほど、もう美並は真崎に魅かれている。
 けれど明はそれでは納得しないだろう。圭吾のことがあっただけに、美並が覚悟のうえだと言うならなおさら頷かないだろう。真崎を敵だと認識したら、せっかく掴みかけている明自身の幸せも放り投げて駆けつけそうで怖くなる。
「む」
 真崎が体を強ばらせて我に返ると、唇を合わせたまま相手がじっとこちらを見ている。
「………なに」
 唇を離しても追い掛けてこないで、ゆっくりと目を細めた。
「誰のこと、考えてるの」
「え?」
「僕以外のことを考えてたでしょ」
「あ……うん」
 こういうときにごまかすのはよくない。ゆらりと揺れた真崎の目の殺気に同意すると、
「嘘つき」
 甘い声でなじられた。
「僕が欲しいって言ったくせに」
「待ってほしいとも言いましたよ?」
「………まだ」
「え?」
「まだ、あいつのこと、想ってるの」
「ああ…」
 確認されてはっとする。そう言えば、あの夜、圭吾との間で何があったか話していない。
「大石さんと食事した時」
 俯きかけていた真崎が上目遣いで見上げてきた。
「もう一度付き合わないか、と言われました」
「……」
 真崎が固まる。
「いろいろあったことは誤解で、お互いがすれ違っただけだから、やり直そうと」
「……それで」
 薄白くなった顔色に本人は自覚がないのだろう。あまりにも不安そうに見えたから、そっと引き寄せてこめかみにキスする。一瞬拒むように震えた真崎が、諦めたように力を抜いて息を吐いた。
「断りました」
「っ」
「京介が待ってるとわかってましたから」
「でも…っ」 
 すり寄るように顔を上げてくるのに、キスを耳元に贈る。ふ、と切なそうに息を詰めて、真崎が小さく呟いた。
「彼が美並のこと誤解したのは、別の人間が彼に余計なことを吹き込んだからで」
「? どうしてそんなこと知ってるんですか?」
 思わずきょとんとすると、ぎゅっと腕に力を込めてきた真崎の耳が染まる。
「僕は真崎京介だから」
「答えになってません」
「……聞いた、んだ」
 彼が婚約者と話しているとき、たまたま、同じ喫茶店に居て。
「そう、なんですか」
 だから、あんなことを圭吾に言う気になったのか。圭吾がまだ美並を欲しがっていて、美並もまだ圭吾を忘れていないと知って、自分の居場所はないと諦めたのか。
「ばか」
「え?」
「難しいことだけど」
 小さく吐息をついて、真崎を抱き返す。
「どうしようもない一瞬、ってあるんだと思います」
「?」
「そこが全て。そこを外すと、取り返しがつかない一瞬」
 酷い事ですけど。
 たとえば圭吾が美並と連絡を断ったこと。たとえば、相子がイブキを傷つけたこと。たとえば、真崎が自殺しかけた時に怯まず気持ちをぶつけたこと。
「たぶん、二つに一つしか選べなくて、どちらかしか一緒に居るための未来には繋がっていない」
「美並…」
「はい?」
「……キスマーク……つけて」
「は?」
 唐突に掠れた声でねだられて瞬きしながら体を起こす。顔を覗き込んだ真崎は蕩けるような表情で首を傾げる。
「僕に、キスマークつけて」
 乱れた前髪が眼鏡にかかったまま、煙った優しい瞳で繰り返すのに、何を欲しがっているのかわかった。
「どこに?」
「……ここ」
 反らせる首筋にはこの前のキスマークが淡く薄れながらも残っている。そのあたりを不安そうに指で探って示され、顔を降ろして吸いついた。
「ぁ…」
「……はい、くっきり残りましたよ」
「ん」
 後で鏡で確認するね。
 嬉しそうに付け加えた相手に、さっさとプリン食べましょう、とスプーンを取ったが、プリンより数段おいしいと感じたものが何か、考えるまでもなく。
 美並は熱くなる顔に慌ててカップを空にした。

 どうしよう。
 真崎と近付くにつれ、そのことばがぐるぐるする。
 どうしよう、どんどん動けなくなってくる。
「はぁ…」
 きょとんとした顔を上げる真崎に何でもない、と首を振ってみせ、美並は卓上カレンダーを見た。
 とにかく、一度明と話してみるしかない。
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