『闇を闇から』

segakiyui

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第2章

9.女と男(4)

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 いつもみたいにベッドに入って待っていたのに、伊吹は入り口に立ち止まっていてなかなか近寄ってきてくれない。
 やっぱりちょっとやり過ぎた、と京介は思った。
 それでも今夜別々に眠るというのは、気持ちも身体もずきずきして苦しいから。
「はい、伊吹さん、ここ」
 にこにこ無邪気そうに笑って、ベッドを叩きながら、手元のリモコンの温度を少しだけ下げる。
 伊吹が風呂に入っている間に部屋の温度を心持ち低めに調整しておくのはささやかな企み、タイマーをかけたリモコンをベッドの端に押しやって、体を竦めた伊吹に声をかける。
「寒いでしょ?」
「冷えてきてますね」
「11月だしね……ほら、風邪っぽいんでしょ」
 伊吹はまだ警戒モード。
 そんなにきわどいことやったかな、と思い出して、逆に煽られてしまいそうになり、困った顔を装う。
「明日お休みだけど、僕はそれこそ企画提案資料を仕上げなくちゃならないし、伊吹さん寝込んでも世話できないから」
 姑息な手だけど仕方ない、罪悪感に訴えさせてもらおう。
 う、と怯んだ伊吹が溜め息まじりに近付いてくる。京介の伊吹用になったジャージから覗いた細い指先を掴んで一気に引き寄せたくてじりじり我慢する。
 そっと隣に入ってきたのを急いで布団をかけて抱きかかえようとしたとたん、
「って、課長っ」
「なに」
 伊吹が体を逸らせてどきっとした。きょとんとした顔をしたものの、もうこれ以上触っちゃだめとか言われるんだろうか、と腰が竦んで萎えかける。
 けれど、伊吹は相変わらず心配そうな真面目な表情で京介を見上げてきた。
「風邪引いてるんですよ?」
 なんだ、そんなこと。
 ほっとして笑う。
「だから抱きしめとこうかと」
「はい?」
「これ以上風邪菌を活躍させちゃいけないだろうし」
 肩に触れて、予想以上に冷たくなっているのにぎくりとする。しまった、温度下げ過ぎた。慌てて抱き込み、ひんやりした伊吹を胸に抱く。寒かったのだろう、無意識みたいに伊吹が擦り寄ってきてほっとした。
 目を閉じて、じっと伊吹の息を聴く。
 繰り返される呼吸音。
 吸って、吐いて。吐いて、吸って。
 穏やかに打ち寄せる波の音、静かな浜辺の昼下がり、ゆっくり歩く濡れた砂、風が同じリズムで吹き寄せてくる感覚。
 ああ、気持ちいい。
 乱れてくれる伊吹ももちろん好きだけど、こうやって京介の腕の中で呼吸する伊吹を抱いているのは格別だ。
 冷えていた肌が温まるまで、熱を与えるのは京介だけど、それが伊吹を満たしたら、次には甘い波になって吐息とともに戻ってくる。触れる息が柔らかく胸も首筋もくすぐって、野原で優しい風に吹かれて横になっているような開放感が広がってくる。吐息の向こうにはもう少しリズムの早い振動がある。それは京介の鼓動とシンクロするみたいに、微かに早まり、時に緩やかになる。
 音楽を聴いているみたい。
 腕の中に伊吹という楽器を抱えて、そこから響く音色に耳を澄ませている。呼吸の音、心臓の音、それからまるで体を流れる血の音まで聴こえるような気がして、京介は伊吹の中に溺れていく。
 このまま永遠に一緒に居よう。
 胸の中で呟く。
 このままずっと君の音を聴いていよう。
 それは海の中に居るようで。
 温かで豊かな海に浸され守られているようで。
 どんなに疲れていても、どんなに苛立っていても、止まることなく打ち寄せてくるこのリズムが、まるで世界の全ての始まりのようで。
 京介は安心する。
「……?」
 が、ふいに、腕の中で伊吹が微かに体を硬直させてまどろみから覚めた。
 どうしたの。
 そう尋ねかけて口を閉じたのは、穏やかだった伊吹の呼吸が忙しく乱れているからだ。
 それは京介に警戒を呼び起こす。濡れて危うい気配が伊吹から広がってくる、その感覚は、いつか恵子に押し倒されて貪られたものと似ている。
 まさか、伊吹。
 なのに、一瞬考えたことはぞくりと腰を疼かせた。
 恵子の指が与えた快楽を伊吹が与えてくれるとしたら。
 恵子が覆い被さった場所に伊吹が来てくれるとしたら。
「……っ」
 思わず眉をひそめた。
 そんなことを伊吹にされたら。
 まるでそれを聞き取ったように伊吹が体を少し離して、ぎゅ、と頭を京介の胸に押しつけてくる。それがまるで、そこから下へ顔を滑らせていこうとするように思えて、とっさに強く引き寄せかけた腕の力をかろうじて緩める。
 眠ってると思っている?
 京介が眠っているから、伊吹は?
 ごく、と唾を呑み込んでしまって、それが悟られないかとどきどきした。
 だが、伊吹は動かない。京介の目覚めにも気付かない。
 あれ?
 何か、違う。
 目を閉じて眠ったふりをしたまま、伊吹の体から伝わってくるものを確かめた。
 甘酸っぱい感じの呼吸は切なげに押さえられている。力を込めて全身竦めて、そのくせ京介の胸にすがってきていない体は微かに震えている。
「…っく」
 零れた声は滲んで揺れていて、泣いている、そう気付いたとたん、二重の感覚に襲われてずきんとする。
 泣いているから慰めたい。
 このままもっと泣かせてみたい。
 続くかと思った声が途切れて、もっと聴きたくて呼び掛ける。
「美並?」
 びくりと伊吹が震えて、ああ、呼んじゃった、と思いながら抱え込んでいた手で相手の頬を探り、指先がしっとり濡れたのに不安になる。思わず顎を掴んで上向かせる。
「なんで泣いてるの?」
 あ、と目を閉じたままの伊吹が京介の指に押されて顔を上げた。
「美並…」
 上気して、薄く開いた唇を晒して、閉じた目からなお零れ落ちる涙に頬を汚した顔。
「っ」
 今度はまともに腰に来た。
「何を哀しんでる…?」
 囁いたことばが中空に浮く。
 そんなんじゃない、伊吹は誘惑しているわけじゃない、きっと何か辛いことを思い出したかあったかして、なら、それを聞いて慰めなくちゃ。
 そう思ったのに。
 僕の腕に居るのに、僕以外のことを考えている。
 それがきり、と胸を刺す。
 もしかしたら、ひょっとしたら、大石とのことを思い出した、いつか耳にキスした時みたいに?
「……そんなに……嫌なの、僕と居るの」
 すぐに唇を奪ってしまいたかったけれど、不安な声で囁いてやった。
 そうしたらきっと伊吹は僕を見てくれる、計算に違わずうろたえた表情になって伊吹が目を開く。
 艶やかに潤んだ黒い瞳の頼りなさ、それが驚いたように見開かれるのに嬉しくなった。
「違う、よね」
 ああ、そうだ、違う、これは。
 まっすぐ自分を見返す瞳に笑って覆い被さる。
「だって、伊吹さん、待ってるものね」
 震えた伊吹をベッドに押し付けた。
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