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第2章
2.リフル・シャッフル(6)
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よりにもよってここなのか。
溜め息まじりに美並は入り口の隣にかかった上品な木のプレートを見遣った。そこには『村野』と書かれている。
京介と初めて一緒に食事をした場所だ。
「どうぞ」
木製で古めかしい歪みのあるガラスをはめた扉を押さえて、大石が微笑んだ。
「最近見つけたところだけれど、おいしいものを食べさせるんだ」
ゆったりとした仕草は以前の大石にはなかった落ち着きだ。
「いらっしゃいませ」
予約を入れていたのだろう、扉の向こうにシェフ姿の男が控えていて、大石と美並に軽く会釈した。
「お待ちしておりました、大石さま」
「……」
鷹揚に頷いて、大石がシェフの前を通り過ぎる。続いた美並に、一瞬相手の目がわずかに見開かれたような気がして、同じように進みかけ、振り向いた。
柔らかそうな口鬚は綺麗に整えられていて不快感を与えない。放たれる気配はもてなそうとする温かさで満ちている。
けれど、穏やかな黒い瞳がゆっくりと瞬きし、まるで何かを確認するように美並を、それから先を行く大石を見た。
「あの?」
「……失礼いたしました」
相手はすぐに微笑み直して、頭を下げた。
「チーフシェフの村野と申します。本日は御来店ありがとうございます」
「……いつも」
なぜかその応対が美並と話したがっている、そんな気がして美並は首を傾げた。
ここに来たのは一度切りだ。なのに今の視線は美並と連れを確認したように見えた。もっとはっきり言えば、美並の連れが真崎でないことを訝った、そんな感じだ。
「お出迎えして下さるんですか?」
確か前はそんなことはなかったように思う。
「……本日は」
村野はちら、と大石に視線を泳がせて、微かに苦笑を漂わせた。
「特別にとお申し付けがありましたので」
「ああ」
つまり、大石があらかじめ出迎えるように頼んでいた、ということか。
頷いた美並に村野は少し目を細めた。
「申し上げたことは御内聞に」
「はい」
「美並!」
村野に微笑むと、大石が席から呼び掛けてくる。
「どうしたの?」
「あ、ごめんなさい」
「何か彼が?」
急ぎ足に席に近付いていくと、大石が鋭い視線で背後を伺う。
「ううん、今日のおすすめについて聞いてたの」
「ああ、ごめん、今夜のはもう決めてる」
大石が肩をちょっと竦めてみせる。
「魚のコースだけど、オードブルに鴨を加えてもらってるから………今もこってりしたの、駄目?」
「うん、ありがとう」
一瞬不安そうに見遣ってきた相手を見上げる。覚えててくれたのか、とちょっと嬉しい。
「でも、最近は少しましかもしれない」
「そうか。じゃあ次は肉でもいいかな」
さりげなく呟いた大石がワインリストを開くのに少し固まる。
次は。
次があると、当然のように思っているのか、大石は。
なぜだろう、とちょっと不思議になった。
あんなふうなあやふやな別れ方、どちらかというと千切れるような別れ方をしたのに、まるでそんなことがなかったかのように大石は振る舞っている。
「ワインは白が好きだったよね。ロゼのいいのもあるな…」
昔なじみのドイツワインを注文する大石を美並はまじまじと見つめた。
本当はもっとどきどきするかと思っていた。
自殺したと聞かされていた大石が生きていて、奇跡のような再会、待ち合わせ場所に現れた顔にぐっと胸が詰まって、お互いに一気に走り寄れるような。
けれど、大石はあまりにも変わっていて。
『美並……本当に美並、なんだ』
会いたかったよ、と側に近付かれて抱えるように両手を広げられても、これは誰だろう、とそんな妙な違和感に取り付かれてしまって立ち竦んだ。どうして生きていると知らせてくれなかった、言いかけた泣き言も口の奥に詰め込まれて溶けたようで。
美並の戸惑いが伝わったのか、大石はすぐに手を降ろし、とにかく食事にしよう、と誘われて、ここへやってきたのだけれど。
肩幅が広くなった感じがするのは昔と違って高級そうなスーツのせいか。びしりと整って皺一つないシャツ、鮮やかだけど嫌味のないネクタイ、整えた髪は軽くカラーリングされて、焦茶色の柔らかなウェーブがかっちりした顔だちによく似合う。さっきから微かに漂う香りも洗練されていて、食事の邪魔にもならないだろう。手首に覗いた時計は落ち着いた金属の光沢を放って、文字盤に宝石が入っている。ネクタイピンにも宝石がついている。滑らかな肌は丁寧に鬚をあたってきた感じ、それこそ、どこからどう見ても、一分の隙なく整った、成功している男の見本のようだ。
昔の大石はもっと砕けた格好をしていた。
スーツの裾が外回りの車に乗りづめだからとくしゃくしゃになっていることがあった。ネクタイがあまりなくて繰り返して締めていたから、一本プレゼントしたことがあるが、今度は『さわやかルーム』に来るときはそれをずっと締めててくれた。急に冷え込んだ時には着ていた薄いコートまで美並にかけてくれて、がたがた震えながら異常気象についてああだこうだと講釈を垂れ、一体何の話なの、と聞くと「どこかで温まりたいねって言う話だよ」と真面目に返されて吹き出したこともある。
大石との記憶はいつもほっとするような温かさに満ちていた。
それを美並は失った、いや美並こそがそれを消してしまったのだと、何度自分を責めただろう。自分が死ねばよかったのだと、何度夜中に泣いただろう。
奈保子に責められるまでもない、きっと自分の対応のまずさが、自分を守ろうとした迷いが、大石を追い詰めてしまったのだ、そう思い切るまで、どれほど辛い夜を過ごしただろう。
こんな想いをするなら金輪際人と関わるまい、そう思いながら、それでも生きていくためにアルバイトを転々として、何度も大石のことを思い出した。大石の優しさ温かさを頼りにしのいだ。
人は大切な記憶さえちゃんと持っているなら頑張れる。
そう気付いて、では次はもう二度と誰の重荷にもなるまい、ずっと一人で生きていこう、そう決心した矢先に、真崎に会って。
正反対だな、と思った。
今目の前にいる大石とも、昔の大石とも、真崎にはほとんど共通点がない。
真崎ときたら、不安定で嘘つきでいじっぱりで大胆でぶっ飛んでてずるくて繊細で脆くて、最近では、男のくせにまるで大輪の牡丹のような華やかさ色っぽさまであって。
きっとこの先も、真崎に大石のような安定感や充実感、落ち着きや真面目さ、真摯さ誠実さなどを感じられることはないだろう。
では、美並は真崎の何に魅かれたのだろう。
「美並?」
「あ、はい」
いつの間にか運ばれてきたオードブルを前に、大石がじっとこちらを見つめている。
「……何を考えてる?」
「え」
「誰のことを、そう聞いた方がいいのかな、僕は」
大石が微かに瞳を翳らせた。
溜め息まじりに美並は入り口の隣にかかった上品な木のプレートを見遣った。そこには『村野』と書かれている。
京介と初めて一緒に食事をした場所だ。
「どうぞ」
木製で古めかしい歪みのあるガラスをはめた扉を押さえて、大石が微笑んだ。
「最近見つけたところだけれど、おいしいものを食べさせるんだ」
ゆったりとした仕草は以前の大石にはなかった落ち着きだ。
「いらっしゃいませ」
予約を入れていたのだろう、扉の向こうにシェフ姿の男が控えていて、大石と美並に軽く会釈した。
「お待ちしておりました、大石さま」
「……」
鷹揚に頷いて、大石がシェフの前を通り過ぎる。続いた美並に、一瞬相手の目がわずかに見開かれたような気がして、同じように進みかけ、振り向いた。
柔らかそうな口鬚は綺麗に整えられていて不快感を与えない。放たれる気配はもてなそうとする温かさで満ちている。
けれど、穏やかな黒い瞳がゆっくりと瞬きし、まるで何かを確認するように美並を、それから先を行く大石を見た。
「あの?」
「……失礼いたしました」
相手はすぐに微笑み直して、頭を下げた。
「チーフシェフの村野と申します。本日は御来店ありがとうございます」
「……いつも」
なぜかその応対が美並と話したがっている、そんな気がして美並は首を傾げた。
ここに来たのは一度切りだ。なのに今の視線は美並と連れを確認したように見えた。もっとはっきり言えば、美並の連れが真崎でないことを訝った、そんな感じだ。
「お出迎えして下さるんですか?」
確か前はそんなことはなかったように思う。
「……本日は」
村野はちら、と大石に視線を泳がせて、微かに苦笑を漂わせた。
「特別にとお申し付けがありましたので」
「ああ」
つまり、大石があらかじめ出迎えるように頼んでいた、ということか。
頷いた美並に村野は少し目を細めた。
「申し上げたことは御内聞に」
「はい」
「美並!」
村野に微笑むと、大石が席から呼び掛けてくる。
「どうしたの?」
「あ、ごめんなさい」
「何か彼が?」
急ぎ足に席に近付いていくと、大石が鋭い視線で背後を伺う。
「ううん、今日のおすすめについて聞いてたの」
「ああ、ごめん、今夜のはもう決めてる」
大石が肩をちょっと竦めてみせる。
「魚のコースだけど、オードブルに鴨を加えてもらってるから………今もこってりしたの、駄目?」
「うん、ありがとう」
一瞬不安そうに見遣ってきた相手を見上げる。覚えててくれたのか、とちょっと嬉しい。
「でも、最近は少しましかもしれない」
「そうか。じゃあ次は肉でもいいかな」
さりげなく呟いた大石がワインリストを開くのに少し固まる。
次は。
次があると、当然のように思っているのか、大石は。
なぜだろう、とちょっと不思議になった。
あんなふうなあやふやな別れ方、どちらかというと千切れるような別れ方をしたのに、まるでそんなことがなかったかのように大石は振る舞っている。
「ワインは白が好きだったよね。ロゼのいいのもあるな…」
昔なじみのドイツワインを注文する大石を美並はまじまじと見つめた。
本当はもっとどきどきするかと思っていた。
自殺したと聞かされていた大石が生きていて、奇跡のような再会、待ち合わせ場所に現れた顔にぐっと胸が詰まって、お互いに一気に走り寄れるような。
けれど、大石はあまりにも変わっていて。
『美並……本当に美並、なんだ』
会いたかったよ、と側に近付かれて抱えるように両手を広げられても、これは誰だろう、とそんな妙な違和感に取り付かれてしまって立ち竦んだ。どうして生きていると知らせてくれなかった、言いかけた泣き言も口の奥に詰め込まれて溶けたようで。
美並の戸惑いが伝わったのか、大石はすぐに手を降ろし、とにかく食事にしよう、と誘われて、ここへやってきたのだけれど。
肩幅が広くなった感じがするのは昔と違って高級そうなスーツのせいか。びしりと整って皺一つないシャツ、鮮やかだけど嫌味のないネクタイ、整えた髪は軽くカラーリングされて、焦茶色の柔らかなウェーブがかっちりした顔だちによく似合う。さっきから微かに漂う香りも洗練されていて、食事の邪魔にもならないだろう。手首に覗いた時計は落ち着いた金属の光沢を放って、文字盤に宝石が入っている。ネクタイピンにも宝石がついている。滑らかな肌は丁寧に鬚をあたってきた感じ、それこそ、どこからどう見ても、一分の隙なく整った、成功している男の見本のようだ。
昔の大石はもっと砕けた格好をしていた。
スーツの裾が外回りの車に乗りづめだからとくしゃくしゃになっていることがあった。ネクタイがあまりなくて繰り返して締めていたから、一本プレゼントしたことがあるが、今度は『さわやかルーム』に来るときはそれをずっと締めててくれた。急に冷え込んだ時には着ていた薄いコートまで美並にかけてくれて、がたがた震えながら異常気象についてああだこうだと講釈を垂れ、一体何の話なの、と聞くと「どこかで温まりたいねって言う話だよ」と真面目に返されて吹き出したこともある。
大石との記憶はいつもほっとするような温かさに満ちていた。
それを美並は失った、いや美並こそがそれを消してしまったのだと、何度自分を責めただろう。自分が死ねばよかったのだと、何度夜中に泣いただろう。
奈保子に責められるまでもない、きっと自分の対応のまずさが、自分を守ろうとした迷いが、大石を追い詰めてしまったのだ、そう思い切るまで、どれほど辛い夜を過ごしただろう。
こんな想いをするなら金輪際人と関わるまい、そう思いながら、それでも生きていくためにアルバイトを転々として、何度も大石のことを思い出した。大石の優しさ温かさを頼りにしのいだ。
人は大切な記憶さえちゃんと持っているなら頑張れる。
そう気付いて、では次はもう二度と誰の重荷にもなるまい、ずっと一人で生きていこう、そう決心した矢先に、真崎に会って。
正反対だな、と思った。
今目の前にいる大石とも、昔の大石とも、真崎にはほとんど共通点がない。
真崎ときたら、不安定で嘘つきでいじっぱりで大胆でぶっ飛んでてずるくて繊細で脆くて、最近では、男のくせにまるで大輪の牡丹のような華やかさ色っぽさまであって。
きっとこの先も、真崎に大石のような安定感や充実感、落ち着きや真面目さ、真摯さ誠実さなどを感じられることはないだろう。
では、美並は真崎の何に魅かれたのだろう。
「美並?」
「あ、はい」
いつの間にか運ばれてきたオードブルを前に、大石がじっとこちらを見つめている。
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