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第1章
13.絶対零度の領域を(5)
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しゅこしゅこしゅこしゅこ。
しつこく鳴る携帯の電源は切った。固まってしまった真崎を促して、一緒に近くのコンビニに行き、牛乳を買って、ついでに翌朝のパンも買った。
牛乳を温めて、コーヒーを淹れ直させて、今ミルクホイッパーで牛乳を泡立てている美並の側で、真崎は膝を抱えてそれを眺めている。
しゅこしゅこしゅこしゅこ。
「ん、いい具合」
泡立ったそれをコーヒーの上にそっと流し入れ、ふわふわになった薄茶色の表面ににっこり笑って真崎を見上げると、相手がびくりとして見返してきた。
「何」
「いや」
「ほら、できたから飲みましょう」
「う、うん」
渡されたカップに唇をつけてこくりと一口、真崎がちょっと驚いたように目を見開く。
「あ…」
「んー、おいしい」
「うん……おいしい」
「泡とコーヒーの温度差がまた楽しいですね」
「う、ん」
「もうちょっとコーヒー甘くてもいいかなあ」
「ん……」
こくん、こくん、とカップを抱えて飲み続ける真崎は、ひどく頼りなく見える。
酷いことをする。
溜め息をつきながら美並は目を伏せた。
ぼそりぼそりと真崎が打ち明けた話は、何だか聞いていると居畳まれないような気分になってくる話だった。
確かに、いくら孝のことを教えてくれるからと言われてのこのこと部屋に出かけ、あげくに襲われてしまった真崎は本当に成人男子なのかと言いたい情けなさはあるけれど、あの家で大輔にずっとそんなふうに扱われてきた真崎が、今また恵子にまで好き放題されたあげく、婚約者だと紹介した相手にそれをぶちまけられて、どれほど傷ついたかは想像するに余りある。
なんでそんなことできるんだろう。
もう既に怒りを通り越して呆れ果てるというか、人類の神秘に感心しそうだ。
「伊吹……さん」
「はい」
「……今夜……泊まってってくれるんだよね……?」
真崎はおどおどと確認した。カップを抱えて首を傾げ、そっとこちらを見遣ってくる眼がまだ潤んでいる。
脆そうな、綺麗な、繊細なまなざし。
確かにこんな眼で見上げられていたら、煮詰まってる人間なら壊したいとか思ってしまうのかもしれないが、それにしても。
ふぅ、と溜め息をついた。
もともとがガラス細工のような人格だったのかもしれない。真崎の中にある砕けたガラスというのは、つまり元の人格が壊れ砕けた成れの果て、したたかでタフで柔軟なキャラクターは後から造り上げたもの、繭というのはそれを覆っていたのではなくて、大輔や恵子という存在に、造った防御さえも削られ砕かれつつあった破片が周囲に舞っていた、ということかもしれない。
いずれにせよ、今の真崎は素肌を晒しているようなもの、一番底にあったものは確かめられたが、とても放置していける状態じゃない。
「そうですね」
もう電車もなくなったし。
「明日朝早めに起きて、戻ってから出勤します」
不安そうな真崎に笑ってみせた。
幸い石塚は休みだけど、誰に何を言われるかわかったもんじゃないし。いくら真崎が伊吹伊吹と会社で騒いでいたところで、真崎一流の軽さと曖昧さで冗談半分に流されているところ、さすがに一緒に昨日と同じ服で出勤するわけにもいくまい。
「…寝巻は……?」
歯ブラシはコンビニでついでに買った。
「……んー……」
私が着れるようなジャージとか、あります?
そう尋ねると、ぶ、と真崎がむせて驚く。
「課長っ」
「ご、ごめ…っ」
慌ててティッシュで周囲を拭くのを手伝っていると、ひょいと顔を上げてきた真崎が軽く目を伏せた。気付いて動きを止めると、そっと伸ばした舌で美並の唇を舐めてくる。
濡れた温かい感触は優しかった。性的なものというより、まるで大きな犬が親愛の情を示してきているような気配、やれやれ犬にまで戻っちゃった、と溜め息をつきながら受け入れる。
「泡」
「ん」
「……僕にも……ついてる?」
「ついてます」
「……どこに?」
「……ここ」
甘えてきているのはわかっているから、美並も真崎の上唇についた泡を舐め取った。息を詰めて目を閉じている相手に誘われて、軽く唇を重ねる。真崎が何度か唇をついばんでくる、その仕草さえ幼い気がした。
「……不思議、だな」
「はい?」
唇が離れると、ほっとした顔で真崎が体を寄せてきた。ソファに座らずにもたれて二人、お互いの熱に目を閉じる。
「……なんで伊吹さん……怒らないの」
「……怒るようなこと、しましたか?」
「………他の女と」
「そうですね」
「………だから……」
てっきり嫌われてしまうと思ってたのに。
「ふう」
「?」
そうか覚えてないんだな、と美並は溜め息をついた。美並が真崎を求めたことも、好きだと言ったことさえも。
「婚約者、ですよね、まだ?」
「…うん」
「凄くむかつくんですけど、それでも」
ちゃんと話してくれたし、何より、それを本当に嫌がって苦しんで死にたくなってるの、わかりました、だから。
これを言うのには覚悟がいる、そう思った。まだうんと遠い未来まで真崎にかけて、それでも見返り一つ受け取れないことを受け入れる覚悟が。
それを自分の中で確認して、美並は繰り返した。
「……ゆっくり行きましょう、京介」
もう大事な相手を突き放してしまいたくない。
「私のこと、好きですよね?」
「うん…」
静かに確かめると震えた相手が体を擦り寄せてくる。
「冷えてきたよ、伊吹さん」
「そうですね」
「……ベッドへ行きたい」
「一緒に眠るだけ、ですよ?」
「ん」
一瞬お互いを抱き締めあって、それから支えあうように立ち上がる。
真崎のジャージ上下に着替えてベッドに戻ると、真崎は既に寝落ちていた。きっちり美並の場所を開けて、大きな体を竦めるように丸めながら、それでもくうくうと眠る相手を見下ろし苦笑する。
「……恋人に、なれるかなあ……」
まあ、いいか。
苦笑しながら、そっと顔を降ろして、眠る真崎の髪に口づけた。
潜り込んだベッドは真崎の体温でぬくまっている。こんなに温かい寝床は久し振りだ、そう思いながら、美並もゆっくり眠りに落ちた。
しつこく鳴る携帯の電源は切った。固まってしまった真崎を促して、一緒に近くのコンビニに行き、牛乳を買って、ついでに翌朝のパンも買った。
牛乳を温めて、コーヒーを淹れ直させて、今ミルクホイッパーで牛乳を泡立てている美並の側で、真崎は膝を抱えてそれを眺めている。
しゅこしゅこしゅこしゅこ。
「ん、いい具合」
泡立ったそれをコーヒーの上にそっと流し入れ、ふわふわになった薄茶色の表面ににっこり笑って真崎を見上げると、相手がびくりとして見返してきた。
「何」
「いや」
「ほら、できたから飲みましょう」
「う、うん」
渡されたカップに唇をつけてこくりと一口、真崎がちょっと驚いたように目を見開く。
「あ…」
「んー、おいしい」
「うん……おいしい」
「泡とコーヒーの温度差がまた楽しいですね」
「う、ん」
「もうちょっとコーヒー甘くてもいいかなあ」
「ん……」
こくん、こくん、とカップを抱えて飲み続ける真崎は、ひどく頼りなく見える。
酷いことをする。
溜め息をつきながら美並は目を伏せた。
ぼそりぼそりと真崎が打ち明けた話は、何だか聞いていると居畳まれないような気分になってくる話だった。
確かに、いくら孝のことを教えてくれるからと言われてのこのこと部屋に出かけ、あげくに襲われてしまった真崎は本当に成人男子なのかと言いたい情けなさはあるけれど、あの家で大輔にずっとそんなふうに扱われてきた真崎が、今また恵子にまで好き放題されたあげく、婚約者だと紹介した相手にそれをぶちまけられて、どれほど傷ついたかは想像するに余りある。
なんでそんなことできるんだろう。
もう既に怒りを通り越して呆れ果てるというか、人類の神秘に感心しそうだ。
「伊吹……さん」
「はい」
「……今夜……泊まってってくれるんだよね……?」
真崎はおどおどと確認した。カップを抱えて首を傾げ、そっとこちらを見遣ってくる眼がまだ潤んでいる。
脆そうな、綺麗な、繊細なまなざし。
確かにこんな眼で見上げられていたら、煮詰まってる人間なら壊したいとか思ってしまうのかもしれないが、それにしても。
ふぅ、と溜め息をついた。
もともとがガラス細工のような人格だったのかもしれない。真崎の中にある砕けたガラスというのは、つまり元の人格が壊れ砕けた成れの果て、したたかでタフで柔軟なキャラクターは後から造り上げたもの、繭というのはそれを覆っていたのではなくて、大輔や恵子という存在に、造った防御さえも削られ砕かれつつあった破片が周囲に舞っていた、ということかもしれない。
いずれにせよ、今の真崎は素肌を晒しているようなもの、一番底にあったものは確かめられたが、とても放置していける状態じゃない。
「そうですね」
もう電車もなくなったし。
「明日朝早めに起きて、戻ってから出勤します」
不安そうな真崎に笑ってみせた。
幸い石塚は休みだけど、誰に何を言われるかわかったもんじゃないし。いくら真崎が伊吹伊吹と会社で騒いでいたところで、真崎一流の軽さと曖昧さで冗談半分に流されているところ、さすがに一緒に昨日と同じ服で出勤するわけにもいくまい。
「…寝巻は……?」
歯ブラシはコンビニでついでに買った。
「……んー……」
私が着れるようなジャージとか、あります?
そう尋ねると、ぶ、と真崎がむせて驚く。
「課長っ」
「ご、ごめ…っ」
慌ててティッシュで周囲を拭くのを手伝っていると、ひょいと顔を上げてきた真崎が軽く目を伏せた。気付いて動きを止めると、そっと伸ばした舌で美並の唇を舐めてくる。
濡れた温かい感触は優しかった。性的なものというより、まるで大きな犬が親愛の情を示してきているような気配、やれやれ犬にまで戻っちゃった、と溜め息をつきながら受け入れる。
「泡」
「ん」
「……僕にも……ついてる?」
「ついてます」
「……どこに?」
「……ここ」
甘えてきているのはわかっているから、美並も真崎の上唇についた泡を舐め取った。息を詰めて目を閉じている相手に誘われて、軽く唇を重ねる。真崎が何度か唇をついばんでくる、その仕草さえ幼い気がした。
「……不思議、だな」
「はい?」
唇が離れると、ほっとした顔で真崎が体を寄せてきた。ソファに座らずにもたれて二人、お互いの熱に目を閉じる。
「……なんで伊吹さん……怒らないの」
「……怒るようなこと、しましたか?」
「………他の女と」
「そうですね」
「………だから……」
てっきり嫌われてしまうと思ってたのに。
「ふう」
「?」
そうか覚えてないんだな、と美並は溜め息をついた。美並が真崎を求めたことも、好きだと言ったことさえも。
「婚約者、ですよね、まだ?」
「…うん」
「凄くむかつくんですけど、それでも」
ちゃんと話してくれたし、何より、それを本当に嫌がって苦しんで死にたくなってるの、わかりました、だから。
これを言うのには覚悟がいる、そう思った。まだうんと遠い未来まで真崎にかけて、それでも見返り一つ受け取れないことを受け入れる覚悟が。
それを自分の中で確認して、美並は繰り返した。
「……ゆっくり行きましょう、京介」
もう大事な相手を突き放してしまいたくない。
「私のこと、好きですよね?」
「うん…」
静かに確かめると震えた相手が体を擦り寄せてくる。
「冷えてきたよ、伊吹さん」
「そうですね」
「……ベッドへ行きたい」
「一緒に眠るだけ、ですよ?」
「ん」
一瞬お互いを抱き締めあって、それから支えあうように立ち上がる。
真崎のジャージ上下に着替えてベッドに戻ると、真崎は既に寝落ちていた。きっちり美並の場所を開けて、大きな体を竦めるように丸めながら、それでもくうくうと眠る相手を見下ろし苦笑する。
「……恋人に、なれるかなあ……」
まあ、いいか。
苦笑しながら、そっと顔を降ろして、眠る真崎の髪に口づけた。
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