『闇を闇から』

segakiyui

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第1章

10.砕かれたガラス(8)

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「あ…」
 ネクタイを落としてしまって、京介はのろのろと拾う。
 早く急がないとと思うのに、体がぐずぐずに崩れてしまったような感覚で、指にもうまく力が入らない。
 弾かれた眼鏡はさほど壊れていなかった。クリーニングはちゃんと五時十五分には戻ってきて、シャワーを浴びたから体に匂いは残っていないと思う。
 思うけど。
「……」
 あの写真は恵子の携帯に入ったままだ。
 しかも、とても伊吹に話せないような状態で恵子と過ごしてしまった。不可抗力、仕方ない、理由がある、言い訳はいくつもあるけれど、きっと伊吹は見抜くだろう、京介も誰かが欲しかったということを。
 本当は、伊吹さんが欲しかったけど。
「もう…だめだよね…」
 恵子はきっと京介が伊吹に再接近しようとしたら、あの写真を送りつけるだろう。
 不審がった伊吹に得意げに、京介がどういう状態だったのか話すだろう。
「そういうとこ……ほんと夫婦でそっくり……」
 ネクタイを締め、濡れた髪はドライヤーで乾かした。眼鏡の位置を直して、鏡を覗き込む。
 どこにも変わりはないはずだ。
 出て行ったときのまま、確かにシャツが異常にピンとしてるとか、スラックスの折り目が新しいとか、細かなところは気になるけれど、いつもと変わりない顔に見える。
「……いいよね…」
 どうせ、伊吹は大石のものなのだ。京介が誰と寝ても関係ないはずだ。
「関係、ない、から」
 けれど、もしその相手が恵子だと知ったら。
「軽蔑…される、よね…」
 京介の意志ではなくて、逆に弄ばれたようなものだと言っても世間では通らない。
「………軽蔑しても……上司と部下でいてくれるのかな」
 孝と同じ運命を、遅れて辿っていくようだ。
 孝は自分から次々寝た。大輔を誘いもしていた、らしい。そうやって、自分をむちゃくちゃにしていって、誰かわからない相手に殺されてしまった。
「僕も……そうなっちゃうのかもな」
 嫌だとか、したくないとか言いながら、大輔を受け入れ、恵子を受け入れ、そうやってなし崩しに自分を壊していって、最後に伊吹にも見捨てられてしまうのかもしれない。
「逃げ道がないよ……伊吹さん…」
 どうしたらいい? 
 どこに行けばいい?
「孝もこんな気持ちだったのかもしれない」
 どれだけ手を伸ばしても、何も掴めない。
 欲しかったものは全部幻だと、手にするたびに思い知らされて、必死に築いてきた真崎京介という姿さえ、このまま崩れ落ちてしまいそうだ。
「………ぬいぐるみのくま……か」
 疲れていたのか、十数分、そのまま眠っていたらしい。いい加減にしてよと恵子に揺り起こされる間に、少し夢を見ていた。
 京介はぬいぐるみのくまになっているのだ。
 入っているのはもちろん綿で、それも上等なものじゃなくて、切り裂かれた布とか紙とかが綿屑に入り混じってるような粗雑なもの。しかもそれもすかすかにしか入ってなくて、腹のものを抜かれるとくたんと二つに折れて床に落とされてしまうのだ。
 その京介の目の前を、別のくまが行く。
 きちんと縫い合わされて上着を着て、ネクタイまで締めて、ぎっちり中身の詰まったくまが、誇らしそうにとことこと歩いていく。
 その先には伊吹が居て、両手を広げてそのくまを抱き上げて笑うのだ。
『いいこ、いいこ、圭吾はいいこ』
 伊吹に抱き上げられたくまは嬉しそうにガラスの目玉を輝かせて、伊吹の胸に甘えている。
 で、京介くまは。
 頭だけ何か重いものが詰まっていて、でも、腹にも手足にも綿がなくて、くちゃんと潰れたまま転がってて、スパンコールか何かでできた目を一所懸命瞬いて、縫い合わされた口で何とか伊吹を呼ぼうとするのだ。
 僕もここに居るよ、伊吹さん。
 僕も連れてって。
 けれど、そんな声は聞こえるわけもなく、伊吹は立ち上がって圭吾くまだけを連れて去っていく。
 ぱたぱた静かな足音が遠ざかるのを、床についた耳は聞きたくなくてもいつまでも拾う。
 がたん、と大きな音をたててドアが閉まるまで、涙さえ流せずに。
「ぬいぐるみだもんね…」
 思わず自分の首を掴んだ。
 できるわけもないけれど、このまま声も出ないように握り潰したい。
 何も言えないなら、声など要らない。
「いぶき……」
 呻いて聞こえた、その名前にぼろぼろ泣いた。
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