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第5章
11.天に還る(9)
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「朝早くからどこに行ってたの」
恵子は体を抱くようにして眉を潜めた。
「寒いわ」
「何の用?」
「部屋を訪ねたのに居ないから」
恵子は髪の毛を掻き上げながら呟く。
「部屋を?」
「ええそうよ、呼んでも出てこないし」
「呼んでも?」
京介は思わずマンションを見上げた。伊吹はまだ眠っているはず、ベルを鳴らして起きないとは思えない。ひょっとして京介が出ている間に目を覚まして、何かを案じて出かけてしまったのか。
「今大変だったと思ったけど」
言い捨てながら玄関に向かうと、立ち塞がるように恵子に行く手を阻まれた。
「待ってよ」
「何」
「用事を答えてないわ」
「興味がなくなった。じゃあ」
「待ってって言ってるでしょ」
側をすり抜けようとした矢先に鋭く伸びた爪で引っ掻くように掴まれる。
「…離して」
「大輔と別れたの」
すがりつくように瞬きながら見上げてくる顔を見下ろす。
「だから?」
「もう私は誰のものではないわ」
「そう」
「許してあげるから」
「は?」
京介は眉を寄せた。
「だから…私は許せるわ」
「何を?」
本当に恵子が何を話しているのかわからなくて京介は訝しむ。
「京ちゃんを」
一瞬、大輔を追い詰めたことや、恵子や子ども達に悲しい思いをさせたことなどへの赦しなのかと考えたが、次に恵子が話し出したのは予想の斜め上を行った。
「もう無理しなくていいのよ。私を我慢しなくていいの」
「…何の話?」
「他の女で我慢しなくても、私は京ちゃんと一緒に居られるの。寂しかったから他の人を求めてしまったのは、男ですもの、仕方がないわ。けれど、もう私は誰のものでもなくなったの。京ちゃんの…好きにしていいのよ」
「恵子さん…本気…?」
京介は干からびた声を絞り出した。
「ええ、もちろん」
恵子が薄く頬を染めて笑うのを呆然と眺める。
「本気で僕が恵子さんを欲しがってるなんて、思ってるの?」
「どういうこと? 今更何を言い出すの?」
不思議そうに恵子は首を傾げる。その姿には、この数週間の事件の影はどこにもない。
「大変だったんでしょう?」
「ええ、大変だったわ、大輔は絶対別れないって言うし」
恵子はほ、と溜め息をついた。
「あんな事件を起こしておいて」
「事件のことは…覚えてるんだ?」
「嫌だわ、京ちゃん、妙な言い方はやめて」
恵子は眉を寄せた。
「孝から引き裂かれて、嫌々大輔と結婚したけど、事件が明るみに出てようやく離婚できたの。苦しくて辛かったわ」
「…子ども達はどうしてるの」
「ああ、その、あの子達は大輔の子どもでいるのが嫌になったからって、そう、私の元からも離れたの」
「離れた?」
「ええ、なんていうか、里親、みたいな形で別居してるわ」
京介は恵子の顔を眺めた。ゆっくりと視線をずらせて、ほっそりした首、黒と灰色のワンピースに包まれた豊かな胸とくびれたウェスト、不安げに寄せてくる腰と、未だに京介の腕を捕まえているマニキュアされた綺麗な指を見た。
「恵子さん」
「なあに?」
京介が拒むことなど考えてもいないのだろう、微笑んで見上げる唇を見る。
「僕は来年伊吹さんと結婚する」
「え?」
「あなたは要らない」
「…え?」
「僕は一度もあなたを望んだことはないし、愛したこともない。わからなかったの?」
「…そんなはずがないわ」
恵子が大きく目を見開いて首を振る。
「確かに私達、大輔に邪魔されてお互いに離れ離れになってしまったけれど、離れている間に意地を張ったり喧嘩もしたけど、愛し合っているでしょう?」
「いつ?」
「え?」
「教えてよ、いつ僕があなたを欲しいと言ったの?」
「だって、『ハイウィンド・リール』で! 大輔の居ない時間を縫って、私達!」
「あなたは、孝の恋人だった」
「…」
「それから大輔の妻だった」
「…でも」
「どこに僕が欲しがる要素があるの」
「でもあの女より!」
恵子が声を上げる。
「私の方が美人よ。しとやかだし、華やかだわ。あなたのことをよく知っているし、長い間一緒に居たわ。裏切り続けた夫の下でずっと耐えてきたのよ。あんな山の奥で、楽しいことも諦めて、あなたが居たから頑張れたのよ、京ちゃん。あなたのために耐えてきたのよ。なのに大輔がああなったからって私を見捨てるの、酷いわ!」
恵子は体を抱くようにして眉を潜めた。
「寒いわ」
「何の用?」
「部屋を訪ねたのに居ないから」
恵子は髪の毛を掻き上げながら呟く。
「部屋を?」
「ええそうよ、呼んでも出てこないし」
「呼んでも?」
京介は思わずマンションを見上げた。伊吹はまだ眠っているはず、ベルを鳴らして起きないとは思えない。ひょっとして京介が出ている間に目を覚まして、何かを案じて出かけてしまったのか。
「今大変だったと思ったけど」
言い捨てながら玄関に向かうと、立ち塞がるように恵子に行く手を阻まれた。
「待ってよ」
「何」
「用事を答えてないわ」
「興味がなくなった。じゃあ」
「待ってって言ってるでしょ」
側をすり抜けようとした矢先に鋭く伸びた爪で引っ掻くように掴まれる。
「…離して」
「大輔と別れたの」
すがりつくように瞬きながら見上げてくる顔を見下ろす。
「だから?」
「もう私は誰のものではないわ」
「そう」
「許してあげるから」
「は?」
京介は眉を寄せた。
「だから…私は許せるわ」
「何を?」
本当に恵子が何を話しているのかわからなくて京介は訝しむ。
「京ちゃんを」
一瞬、大輔を追い詰めたことや、恵子や子ども達に悲しい思いをさせたことなどへの赦しなのかと考えたが、次に恵子が話し出したのは予想の斜め上を行った。
「もう無理しなくていいのよ。私を我慢しなくていいの」
「…何の話?」
「他の女で我慢しなくても、私は京ちゃんと一緒に居られるの。寂しかったから他の人を求めてしまったのは、男ですもの、仕方がないわ。けれど、もう私は誰のものでもなくなったの。京ちゃんの…好きにしていいのよ」
「恵子さん…本気…?」
京介は干からびた声を絞り出した。
「ええ、もちろん」
恵子が薄く頬を染めて笑うのを呆然と眺める。
「本気で僕が恵子さんを欲しがってるなんて、思ってるの?」
「どういうこと? 今更何を言い出すの?」
不思議そうに恵子は首を傾げる。その姿には、この数週間の事件の影はどこにもない。
「大変だったんでしょう?」
「ええ、大変だったわ、大輔は絶対別れないって言うし」
恵子はほ、と溜め息をついた。
「あんな事件を起こしておいて」
「事件のことは…覚えてるんだ?」
「嫌だわ、京ちゃん、妙な言い方はやめて」
恵子は眉を寄せた。
「孝から引き裂かれて、嫌々大輔と結婚したけど、事件が明るみに出てようやく離婚できたの。苦しくて辛かったわ」
「…子ども達はどうしてるの」
「ああ、その、あの子達は大輔の子どもでいるのが嫌になったからって、そう、私の元からも離れたの」
「離れた?」
「ええ、なんていうか、里親、みたいな形で別居してるわ」
京介は恵子の顔を眺めた。ゆっくりと視線をずらせて、ほっそりした首、黒と灰色のワンピースに包まれた豊かな胸とくびれたウェスト、不安げに寄せてくる腰と、未だに京介の腕を捕まえているマニキュアされた綺麗な指を見た。
「恵子さん」
「なあに?」
京介が拒むことなど考えてもいないのだろう、微笑んで見上げる唇を見る。
「僕は来年伊吹さんと結婚する」
「え?」
「あなたは要らない」
「…え?」
「僕は一度もあなたを望んだことはないし、愛したこともない。わからなかったの?」
「…そんなはずがないわ」
恵子が大きく目を見開いて首を振る。
「確かに私達、大輔に邪魔されてお互いに離れ離れになってしまったけれど、離れている間に意地を張ったり喧嘩もしたけど、愛し合っているでしょう?」
「いつ?」
「え?」
「教えてよ、いつ僕があなたを欲しいと言ったの?」
「だって、『ハイウィンド・リール』で! 大輔の居ない時間を縫って、私達!」
「あなたは、孝の恋人だった」
「…」
「それから大輔の妻だった」
「…でも」
「どこに僕が欲しがる要素があるの」
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恵子が声を上げる。
「私の方が美人よ。しとやかだし、華やかだわ。あなたのことをよく知っているし、長い間一緒に居たわ。裏切り続けた夫の下でずっと耐えてきたのよ。あんな山の奥で、楽しいことも諦めて、あなたが居たから頑張れたのよ、京ちゃん。あなたのために耐えてきたのよ。なのに大輔がああなったからって私を見捨てるの、酷いわ!」
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