『闇を闇から』

segakiyui

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第5章

9.祝宴(10)

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 有沢を病院へ送り届けると、帰院時間を超えていたのだろう、少し窘められた。
 病室へ運ばれ、血圧や脈拍を測られるマスクを外した有沢の顔は薄赤くなっていて、険しい顔の看護師から微熱が出ていると知らされた。壁に付けられた装置から伸びたチューブで、横になった有沢に酸素マスクが、用心のためと説明されながら、寝巻きに着替えさせられた胸にモニターがつけられる。
 それらの動きをじっと見つめる有沢が、壁際に立つ美並に微笑む。赤く染まった目元、まだ潤んでいる瞳がゆっくり瞬きする。
 部屋を整えた看護師が壁から伸びたコードを有沢の手元に置いた。
「もし苦しくなったらこれを押して下さいね」
「はい」
 ナースコールに触れ、頷いて部屋を出て行く看護師を見送り、有沢は呼ぶように美並を見る。
「なんですか?」
「ビールが欲しいな」
「無理ですね」
「無理だなあ」
 檜垣なら買ってきてくれたかな。
 にやりと笑う顔は憑き物が落ちたような明るさだ。
「苦しいですか」
「ちょっと……呼吸するのに力が要る感じ」
 話しながら、軽く呼吸を弾ませる。
「さっきよりは…楽かな…」
「…では、帰りますね」
「…うん」
 うとうとしかけていたのか、有沢は瞬いて目を開けた。
「また来てくれますか」
「京介と一緒に」
「…ひどいな」
 苦笑いする。
「あなたはずっと容赦がない」
「ごめんなさい」
「……だから俺は安心して逝ける」
 ぽつりと吐かれたことばは脅しには聞こえなかった。
「…あなたは…憐れまない……俺が何をしても……どれだけ…甘えても…」
 目を閉じる。ふう、ふう、と数回息を大きく繰り返す。
「同僚だったら……楽しかっただろう…なあ…」
 囁くような声で続けた。
「あなたと……俺で………事件を……追って……」
 しゅーと聞こえる酸素の音に、ともすれば声は消されそうになる。
「……張り込んで……上と……揉めて……」
「……問題児だったでしょうね」
「ああ…違いない……」
 くすくす、と有沢は小さく笑った。
「……太田さんに……叱られて………毎日……歩き回って……靴底減らして……」
 けれど。
「…帰りに……寄って……明日こそ……とっかかり……見つけるって………大騒ぎ…して…」
 次、は。
 蕩けるように眉を緩める。
「有沢さん?」
 モニターは警告音を鳴らさない。薄赤くなっている頬はそのままだが、呼吸は穏やかに続いている。
「……あら」
 入って来た看護師が素早くモニターに目を走らせ、美並を振り向く。
「眠られたみたいね」
 ずっと病室におられたから疲れたんでしょう。
「そうですね」
 美並は立ち上がった。ナースコールの側に投げ出された有沢の手に触れる。頬の赤みを裏切る冷たさにそっと布団の中に手を入れてやった。
 看護師が検温し、モニターを確認し、静かに一礼し、部屋を出て行く。
「おやすみなさい」
 美並もまた小さく呟いて、病室を後にした。

 吹き付ける風のせいばかりではなかっただろう。
 体がひどく寒くて、美並は会社に向かった。
 真崎はまだしばらくマンションに戻らない。昼は過ぎていて、ひょっとすると久しぶりの外回りにも出ているかと思ったが、一目顔を見て帰ろうと思った。
「あれ?」
 確かにここ数日桜木通販は何かと慌ただしかったが、今日は違う雰囲気で落ち着かなげだ。
「…お疲れ様です」
「あら、今日は休みじゃなかった?」
「はい、けど、あの」
「ああ、課長ね」
 開発管理課の中には石塚しかおらず、忙しそうに書類の山を積み上げている。
「今はちょっと無理だと思うわよ。富崎課長と防犯カメラの設置にうろうろしてるから」
「防犯カメラですか」
「そう。ひょっとすると手放すかもしれない社屋にねえ」
 石塚が苦笑いする、その指に。
「?」
「っ」
 美並の視線を感じたのか、一瞬うろたえた顔で石塚が左手を隠そうとし、やがて溜め息をついた。
「もう…相変わらず変なところで鋭いんだから」
「すみません」
 笑いながら、扉を閉めていつもの席に座る。
「それって結婚指輪ですよね?」
「そう」
「お相手は…高山課長?」
「そう」
「すみません、ここからは私もわかりません、いつご結婚されたんですか?」
 それとも今日ご飯行きます?
 確認すると、石塚がふるふると首を振った。かっちりした眼鏡も気がつくと、赤とオレンジの混じった可愛らしいものになっている。
「忙しいから無理。引越し途中だし」
「高山課長のお家に?」
「そう」
 美並の視線に諦めたように笑う。
「11月22日。役所に届けを提出するだけだったから簡単よ」
「新婚2日目ですね」
 さすがに驚いてしまった。
「…今回のことでいろいろと考えたんだってさ」
 放り投げるような口調で、それでも耳たぶを染めながら石塚が口を尖らせる。
「いつ何があるかわからんからなって。それがプロポーズってどう思う?」
「ひどいですね」
「ひどいわよ」
 微笑みながら美並の脳裏に高山の家に行った時の光景が浮かぶ。結構長い付き合いはあったのだろう。緑川の一件があったから、妻を失った後で同僚と再婚するのに抵抗があったのかもしれない、お互いに。けれども、桜木通販が消え失せるかも知れないとなったら、二人の間の約束が何もないことに気づいたのかも知れない。
「…課長が阿倍野さんに襲われたって」
「…はい」
「……考えたらしいの、それだけで収まるんだろうかって」
「ああ……」
 高山は案じたのだ、真崎に係わりのある人間に向かう波紋を。
「目の届くところに来いって」
 緑川の事件に関わり、情報を隠していた高山は、自分が野放しにしてしまったかも知れない殺人者に警戒した。ひょっとすると、高山は石塚を守るために桜木通販から退くつもりかも知れない。
「とっちめてやろうと思ってるのよ、『ニット・キャンパス』が終わったら」
 石塚は指輪を眺めた。
「会社がガタガタしている時に、無駄遣いしちゃいけないでしょって」
「高山課長は無駄遣いなんてされませんよ」
 美並は微笑んだ。
「…私もそう思う……さ、仕事仕事」
 石塚のはにかんだ微笑は、照れ隠しの声とともに書類の向こうに伏せられた。
 
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