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第5章
9.祝宴(1)
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「で、その顔は何だ」
と聞くほうが野暮か。
金曜日に源内の道場へ出向いての第一声に、京介は薄赤くなったのを自覚する。
「ああ、そのえーと」
「何だまたキスマーク付けられたのか」
すでに着替えている源内がからかう口調に、慌てて奥の更衣室へ向かいながら、
「今度は僕が付けました」
がたたっ!
響いた物音に振り返ると、源内が蹴り飛ばしたらしいバケツを拾いに向かっている。
「あの」
「話すな答えるなさっさと着替えて来い!」
背中を向けたまま怒鳴られた。
「ったく」
源内は小さく溜め息を吐きながら、バケツの中で濯いだ雑巾を丁寧に絞って京介に渡す。
「ハルのことだけでも色々人生に衝撃だったのに、あんたのような男がいて、そいつと関わっていくなんて予想もしていなかった」
「…そんなに特殊な人間でもないと思うんですが」
「自覚がないのも致命的だよ」
ほら、始めろ、と促されて、京介は雑巾を手に造り付けの棚を拭きにかかる。
長く使っていなかった道場は、源内がざっと掃除した程度では、溜まった埃を掃き出しきれなかったらしく、この前に使った後もどこからか現れたチリ埃で薄汚い感じになった。
終わった後の片付けは俺がやるから、始める前の掃除を一緒にしよう。
提案した源内に、前後とも自分がすると申し出た京介だったが、静かにはっきりと首を振って拒否された。
『師匠には師匠で、整理して学ぶべきことがあるんだ』
確かに、こうして一つ一つ棚を拭き、汚れを確かめ、雑巾を濯ぎ、また次の棚を拭き、と繰り返していくと、この数日間でのしかかっていた様々なものが、少しずつ減っていく気がする。
経営管理の方法に『5S』と呼ばれるものがある。整理、整頓、清掃、清潔、しつけの頭文字をとったもので、不要なものを捨て、使いやすく片付け、掃除し綺麗な状態を保ち続けること、それを職場で徹底することで、職場の問題に気づき解決していく。
心も同じようなものかもしれない。
毎日毎日、いろんな想いや考え、感情が見えない場所で無造作に積み上げられ、不具合があるような気がするのに、どこに問題があるのかもわからなくなって、いつの間にか身動き取れなくなってしまう。
「京介」
「はい」
呼びかけられて振り返ると、源内が背後でじっとこちらを見ていた。
「何でしょう」
「もう少し、丁寧に」
「すみません」
いけない、気持ちのことを考えて、実際の掃除がおろそかになっちゃってたかな。
謝りながら、ちょっと落ち着かない、けれどどきどきするような感覚になる。
そう言えば、最近は上から目線で命じられることなんてほとんどなかったなあ、と雑巾を絞り直した。次期社長と決まってからは、社内でも一層距離を置かれるようになった。高山が一歩引いている気配があるのは、いつぞやの孝の話以降だ。あの細田でさえ、呼びつけることをぴたりと止めた。京介にストレートに話しかけてくるのは、富崎と元子ぐらいか。
『どうだろう?』
富崎の提案を思い出す。
『不自然ではないと思う。先日の一件から、会議室にも設置したいところだが、微妙な会議まで全て記録されるのはどうかと思うし』
報道後、不審な人物が桜木通販の周囲をうろうろすることが増えた。メディア関係ばかりではなく、野次馬的な一般人もいるようで、社内外にも不安が広がっている。
富崎が提案したのは監視カメラの増設で、今まで出入り口と駐車場にだけ設置していたのを増やさないかとの申し入れだった。
『ひょっとして?』
『ああそうだ、動きも掴みやすくなる』
暗に赤来のことを尋ねれば、すぐに頷く。
『ありがとうございます。必要ですね』
京介だけに被害があるならまだいい。伊吹に手を出されては全てが終わる。
元子も異論はないと応じた。
『あなたが全て決めていいわ、責任は私が引き受けていく』
変わっていく、何もかも、いつの間にか、踏みとどまれないほどの強さではっきりと。
今、京介に命じられるのは伊吹ぐらいかも知れない。
私がいいというまで我慢して。
耳の奥に響いた声に薄笑みを浮かべた途端、
「京介」
「はいっ」
源内の声に思わず背筋を伸ばした。
「違う、もう少し考えて体を使え」
「え?」
意味がわからなくて振り向くと、やってきた源内が隣で同じように棚を拭き始めながら、説明してくれた。
「ここでは、この筋肉が伸びている」
「…はい」
「……こうすると、ここに力が入って、重心が動く」
「………はい」
同じような動きをしながら、言われた場所を確認する。
「…違う、こっちだ」
時々意識している場所がずれていることを見抜かれ、そっと静かに押さえられて示された。
ふとまた、奇妙な感覚が過ぎる。
と聞くほうが野暮か。
金曜日に源内の道場へ出向いての第一声に、京介は薄赤くなったのを自覚する。
「ああ、そのえーと」
「何だまたキスマーク付けられたのか」
すでに着替えている源内がからかう口調に、慌てて奥の更衣室へ向かいながら、
「今度は僕が付けました」
がたたっ!
響いた物音に振り返ると、源内が蹴り飛ばしたらしいバケツを拾いに向かっている。
「あの」
「話すな答えるなさっさと着替えて来い!」
背中を向けたまま怒鳴られた。
「ったく」
源内は小さく溜め息を吐きながら、バケツの中で濯いだ雑巾を丁寧に絞って京介に渡す。
「ハルのことだけでも色々人生に衝撃だったのに、あんたのような男がいて、そいつと関わっていくなんて予想もしていなかった」
「…そんなに特殊な人間でもないと思うんですが」
「自覚がないのも致命的だよ」
ほら、始めろ、と促されて、京介は雑巾を手に造り付けの棚を拭きにかかる。
長く使っていなかった道場は、源内がざっと掃除した程度では、溜まった埃を掃き出しきれなかったらしく、この前に使った後もどこからか現れたチリ埃で薄汚い感じになった。
終わった後の片付けは俺がやるから、始める前の掃除を一緒にしよう。
提案した源内に、前後とも自分がすると申し出た京介だったが、静かにはっきりと首を振って拒否された。
『師匠には師匠で、整理して学ぶべきことがあるんだ』
確かに、こうして一つ一つ棚を拭き、汚れを確かめ、雑巾を濯ぎ、また次の棚を拭き、と繰り返していくと、この数日間でのしかかっていた様々なものが、少しずつ減っていく気がする。
経営管理の方法に『5S』と呼ばれるものがある。整理、整頓、清掃、清潔、しつけの頭文字をとったもので、不要なものを捨て、使いやすく片付け、掃除し綺麗な状態を保ち続けること、それを職場で徹底することで、職場の問題に気づき解決していく。
心も同じようなものかもしれない。
毎日毎日、いろんな想いや考え、感情が見えない場所で無造作に積み上げられ、不具合があるような気がするのに、どこに問題があるのかもわからなくなって、いつの間にか身動き取れなくなってしまう。
「京介」
「はい」
呼びかけられて振り返ると、源内が背後でじっとこちらを見ていた。
「何でしょう」
「もう少し、丁寧に」
「すみません」
いけない、気持ちのことを考えて、実際の掃除がおろそかになっちゃってたかな。
謝りながら、ちょっと落ち着かない、けれどどきどきするような感覚になる。
そう言えば、最近は上から目線で命じられることなんてほとんどなかったなあ、と雑巾を絞り直した。次期社長と決まってからは、社内でも一層距離を置かれるようになった。高山が一歩引いている気配があるのは、いつぞやの孝の話以降だ。あの細田でさえ、呼びつけることをぴたりと止めた。京介にストレートに話しかけてくるのは、富崎と元子ぐらいか。
『どうだろう?』
富崎の提案を思い出す。
『不自然ではないと思う。先日の一件から、会議室にも設置したいところだが、微妙な会議まで全て記録されるのはどうかと思うし』
報道後、不審な人物が桜木通販の周囲をうろうろすることが増えた。メディア関係ばかりではなく、野次馬的な一般人もいるようで、社内外にも不安が広がっている。
富崎が提案したのは監視カメラの増設で、今まで出入り口と駐車場にだけ設置していたのを増やさないかとの申し入れだった。
『ひょっとして?』
『ああそうだ、動きも掴みやすくなる』
暗に赤来のことを尋ねれば、すぐに頷く。
『ありがとうございます。必要ですね』
京介だけに被害があるならまだいい。伊吹に手を出されては全てが終わる。
元子も異論はないと応じた。
『あなたが全て決めていいわ、責任は私が引き受けていく』
変わっていく、何もかも、いつの間にか、踏みとどまれないほどの強さではっきりと。
今、京介に命じられるのは伊吹ぐらいかも知れない。
私がいいというまで我慢して。
耳の奥に響いた声に薄笑みを浮かべた途端、
「京介」
「はいっ」
源内の声に思わず背筋を伸ばした。
「違う、もう少し考えて体を使え」
「え?」
意味がわからなくて振り向くと、やってきた源内が隣で同じように棚を拭き始めながら、説明してくれた。
「ここでは、この筋肉が伸びている」
「…はい」
「……こうすると、ここに力が入って、重心が動く」
「………はい」
同じような動きをしながら、言われた場所を確認する。
「…違う、こっちだ」
時々意識している場所がずれていることを見抜かれ、そっと静かに押さえられて示された。
ふとまた、奇妙な感覚が過ぎる。
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