『闇を闇から』

segakiyui

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第5章

7.夢見たものは(1)

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「え、えっ」
 夜マンションに戻ってから伊吹に連絡し、昼間ずっとろくに会えなかった寂しさを訴えようとした京介は、ごめんなさい、京介、と謝られ、続いて聞かされた内容に仰天した。
「赤来の指紋を取り損ねた、って!」
『うまく行きそうだったんですが』
「ちょっと待ってよ、伊吹さんっ」
 一体何をやってるの、僕の知らないところで。
 全身の毛穴が開くというのはこういうことだろうか。
 身体中寒くなってぞわぞわする。伊吹がいなくて、ただでさえ冷えている気がする部屋が、冷凍庫みたいに感じる。
「無茶しないでよ!」
 他にきっと方法があるはず。
「一緒に考えて、実行は僕がするから!」
『…難しいかもしれません』
 伊吹の声が考え込む。
『ひょっとしたら、気づかれたかも』
「なら、余計に危ないでしょう!」
 『羽鳥』が正体を見抜かれて大人しくしているような人間には思えない。
「明日から少し休む? 風邪とか生理痛とか親類の不幸とか」
『勝手に身内を殺さないで下さい』
 明が怒りますよ?
「じゃあ、生理痛…」
『私が怒ります。そんなことに利用しないで』
「じゃ、じゃあ悪阻とか!」
 京介、話をそらせてますか?
 確かめられて苦笑いした。相変わらず鋭くて、嬉しいやら困ったやら。
『それより京介、今日は遅かったんですね。商談?』
「ん、ああ、いや、大石と会ってて」
『えっ』
 伊吹の驚いた声に不安になった。
「何、伊吹さん、まだあいつのことが気になるの」
 絡んだ口調にならないように注意はしたが、
『違いますよ、京介』
 寝物語のような甘い声で返されてほっとする。
『大石さんと二人で話すの、辛くなかったかなと心配しました』
「大丈夫だよ」
 京介も甘く答える。
「僕には美並が居るから」
 明日は伊吹は休みを取っている。実家に顔を出すと聞いていた。明後日まで会えないと思うと、何とか理由をつけて会えないかなと思う反面、続いている緊張状態から一瞬でも解放してやりたいとも思う。
『何の話でした?』
「牟田さんのこと」
 伊吹が大石のことを『大石さん』と他人として扱ってくれているから、京介も相子のことは自分に関係がないとして扱った。
「彼女の所に檜垣刑事がきたらしい」
『……孝さんのことですね?』
「赤来のこともかなり聞いていったらしい。牟田さんは今回の件を知らないから、何に巻き込まれているかわからず、大石に相談しに来たと」
『大石さんに?』
「彼の幼馴染らしいよ」
『……そうですか』
「大石が僕についての誤解も解けた。牟田さんは他県へ引っ越して、戻ってこないらしい」
『京介への誤解?』
「僕が牟田さんを弄んだ噂」
『……ああ、なるほど』
 考え込みながら聞いていた伊吹が、静かな口調で続けた。
『……終わっていきますね』
「…うん」
 相子の話を聞いた時、京介も似たような印象を受けた。
 恋敵でもあり仕事上のライバルでもあり、状況によっては全面的に敗北するしかなかった相手とワインを空け、謝罪を受ける。今後の協力を確かめ、対等な立場で関係を結び直す。
 仕事ではよくある話だったけれど、ここまでプライベートに踏み込んだ状態で『健全に』仕切り直すのは初めての経験だ。
 伊吹と出会って数ヶ月の間に、京介の人生は大きく変わった。
 行き場のない怒り、自嘲、絶望と疲弊、暗闇に崩れていく脆い橋のような未来が、伊吹が現れて少しずつ光が差し込み、透明な風が吹き込み、揺らぐ足元を明らかにされ、対岸の景色を見せられた。
 緑鮮やかな、色とりどりの果物が実り、花の溢れる美しい世界。
 今にも千切れそうなこの橋は、一歩ずつ進んでさえ行けば、その世界に辿り着けるのだと教えられた、信じられた。
「…美並」
『はい』
「…君を得たのは、奇跡だった」
『え?』
「そう、社長と話していた」
 もし、伊吹が桜木通販に来なければ。
 もし、流通管理課に配属されなければ。
 もし、あのシュレッダー前で声をかけなければ。
 京介は今、生きていただろうか。
 大輔に抵抗しながらも応じ続け、恵子の誘いに堕ち続け、自分を砕き続け壊し続けて今頃は、本性の牙を剥いた赤来に提供される道具となっていたかも知れない。
「僕は大石に感謝してるよ」
『…』
「君を愛してくれて、大事にしてくれて、そうして君の人生から消えてくれた」
 どれ一つ欠けても、伊吹は京介の前に居なかったかも知れない。
「君の人生の、今まで起こったこと、何一つ欠けても………ううん、美並が苦しくて辛かったのはわかってる、そうでなかったほうがいい、けれど、もし美並が今までうんと幸せだったなら」
 苦く笑った。
「君は、僕の人生に関わってくれなかった、よね?」
 ひどい男だと詰っていいよ、美並。
「君は、僕がこの命で得た、たった一つのかけがえないものだ」
『………』
 伊吹の沈黙は長かった。
 やがて、
『…ひどいです』
 掠れて潤んだ声が返って来た。
『そんなことを先に言われたら、私は何を言えるんですか』
「…さみしいって言って」
 京介は甘えた。
「僕が側に居ないからさみしいって」
『…寂しくないです』
「えっ」
 何、この流れで何のツンデレ、と引きつった京介の耳に、優しい声が届く。
『離れていても、私には京介が見えてます』
 隅々まで。
 ぞくりと疼いた腰に京介は顔が熱くなる。
「…ベッドに行く?」
『……明日ね』
「…明後日の着替えも持って来て」
 ねだった。
「ぎりぎりまでずっと一緒に居たいから」
『わかりました』
 耳の奥で切れた声に、京介はしばらく携帯を手放さないまま握りしめていた。
 
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