『闇を闇から』

segakiyui

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第5章

6.ノーリミット(8)

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 赤来がにこやかに立っていた。
 如何にも大変な時に頑張っている部下を労うような振る舞いで。
 柔らかい声に、整った立ち姿に、今度ははっきりと読み取ることができた。
 あのトイレでの声。
 あのDVDでライトを点けるよう支持した腕の動き。
 阿倍野が体調を崩したそうだ。急病で休んだと言うことだが、流産したのだと噂が流れている。相手が誰か考えるなら、その流産も偶然ではないと察しがつく。
 まじまじと眺めた。
 この男が、そうなのか。
 もちろん、そうでしかない、この息詰まるような『赤』は、他の誰かではあり得ない。
 ようやく見つけた相手が、こんなに近くに立っている。多くの人を苦しめ躓かせ、人生を変えるほど叩きのめしておきながら、同僚とのささやかな情事を楽しむだけの、そこそこ評判のいい上司として、平穏無事に仕事を続けている。
「…はい」
 顔が熱くなった。
 まだだ、まだ攻撃できない。準備が足りない、今のままでは逃してしまう。
「お祝いしなくちゃね……何かおいしいものを奢ろうか」
「そんな」
「いいじゃないか、なんなら、真崎くんと一緒にどうかな?」
 片目をつぶって微笑まれ、気がついた。
 これはおかしい。
 桜木通販が『お祝い』できるような状況ではないことを『赤来課長』はわかっているはずだ。真崎が次期社長になることは告知された。美並が補佐に入ることも報告されたかもしれない。その二人が結ばれることになった、それでもこの状況では、諸手を挙げて喜べないとわかっているはずだ。
 なのに赤来は祝おうと言った。
 違う。
 これは『羽鳥』だ。
 目の前に居るのは、意識的か無意識的かは知らないが、赤来豊ではなく『羽折豊』なのだ。だから、赤来なら心配そうに振る舞いつつ話しかけるところが抜け落ちた。
 同時に理解する。
 『羽鳥』は自分の正体がまだ誰にも知られていないと思っている。ましてや、目の前に居る美並が『羽鳥』を見つけているはずがないと思っている。何の証拠も残さず、自分に繋がる道はことごとく切り捨てて来たはずなのだから。
 なのに美並に近づいてきた。
 理由は、なんだ?
「では…今度……課長に伝えておきますね」
「よろしく」
 嬉しそうに笑い返しながら、手元に用意していたものを準備する。
 もしそうならば。
「はい…楽しみにします、赤来課長」
 ぺこりと頭を下げた拍子に、ファイルを落とした。どこにでもあるクリアファイル、如何にも資料が紛れ込んでいたのが、たまたま落ちたという感じで。するりと滑って赤来の足元へ飛ぶ。
「あ」
「ん……」
 拾いかけた赤来がふいにぴたりと動きを止めた。手を伸ばしたまま動かなくなり、やがてすうっと目を上げる。一緒にかがんで手を伸ばそうとした美並を正面から見る。
「伊吹さん?」
「はい?」
 何でしょう。
 尋ねられたから返答した。そんな顔で赤来を見返す。
「このファイルさ」
「はい」
「何か入ってた?」
「いえ?」
 赤来が目を細める。
「新品か」
「はいそうですね?」
 訝しく首を傾げて見せる。
「それが何か?」
「……いや、知ってるのかな」
「何をでしょう」
 どきりと打った鼓動が痛いが想定内だ。
「ご入用ならもう一枚持ってますから、お分けしましょうか?」
 体を起こし、赤来が拾わなかったファイルを拾い、印刷機に振り向く。正体がバレていないと思っているなら、今ここで攻撃に出ることはない。落ち着いてもう一枚ファイルを抜き出し、少しの沈黙の後に続いたことばに確証を得た。
「……実はさ、そういうクリアファイル」
 背中から呼びかけて来る穏やかな声。
「指紋を取るのにちょうどいいんだ」
「はあ…そうですか」
 ああ、良かった。
 安堵と確信が広がる。
 この人は敵だ。
 この人が『羽鳥』だ。
 くるりと振り向き、本心から笑み綻んだ。
「はい、これも新品ですよ、どうぞ」
「…ありがとう」
 赤来が受け取る。きっとこのクリアファイルは家にしまいこまれるか、それともどこかに廃棄されるのだろう。
「仕事熱心だね、伊吹さん」
 じゃあまたね。
 唇の端を上げた赤来が離れていきながら、思いついたように振り返る。
「ほんと、付き合ってよ、『お祝い』」
「はい、是非」
「頼むよ」
 くすっと笑って、赤来は階段を降りて行った。
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