『闇を闇から』

segakiyui

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第4章

9.五人と六人(5)

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 伊吹に嫌われたんだ。
 一晩中考えて、京介はそう結論した。
「伊吹さんに、嫌われたんだ」
 部屋に差し込むまばゆい朝の光に、夜中繰り返したことばをもう一度呟く。
「どこでへましたのかなあ……」
 きっと致命的なミスだったんだ。
 恵子のことではない、と思った。恵子のことで怒っているなら、もっと伊吹は直接にぶつかってくる。
「でも理由なんて…どうでもいいよね?」
 自分が伊吹に疎まれた、抱きたくないと言われるほど嫌われた、それだけで十分だ。
 立ち上がり、シャワーを浴び、出勤の用意をし、コップに水を一杯、それで部屋を出る。
 自分が自動人形になったような気がする。
「嫌われた」
 改札を通るときに指輪に気づいた。
「はめてていいのかな」
 外さなくちゃいけないのかな。
「でも」
 外した瞬間に、京介は生きていくことができなくなる。
「も…すこし」
 甘えさせて、伊吹さん。
 こぶしを握り締めて、零れ落ちていくものを必死に掴む。

「おはようございまーす!」
 会社の受付で笑った。
「おはようございます、機嫌いいですね」
 いいことでもあったんですか。
「僕はいつも結構元気だと思うよ?」
 尋ねてきた守衛ににこにこしながら笑い返すと、
「そうそう、ご婚約されたそうですね、おめでとうございます」
「え? 知ってるの?」
「そりゃもう。真崎さんが婚約したって社内で噂になってますから」
「へえ、僕って人気者なんだなあ」
「またまた」
 かなわないなあ、と苦笑する相手に手を振って勢いよく階段を駆け上がる。眠っていない体がみしみしきしむ気がするが、エレベーターでまた婚約についてあれこれ言われるのは今耐えきれないし、何よりどこかでエネルギーを使い切ってしまわないと、とんでもないことをしそうだ。
「ハードな状況だよね」
 あれだけそっけなくされた相手と一緒に部署で働くなんてさ。
 乱れた呼吸を整えつつ、開発管理課の前で気合いを入れ直す。
「さ、いく…」
「おはようございます」
「!」
 とたんに背後から響いた声がまともに腰まで落ちて凍った。
「課長?」
「あ…うん、おはよう、伊吹さん」
 必死に笑顔を保って振り返り、
「もうメール便? 早いね」
「そろそろ『ニット・キャンパス』関係で動いてますから」
 高崎さんからも早めに見て来てね、と言われてるんです。
「ふぅん?」
 両手にフォルダやファイルや封筒を抱えた相手が通るためにドアを押さえていて、それに気づいた。
「あ、れ、伊吹さん、それ」
「高崎さん! 見てきましたよ」
「わー。ありがとう、あ、こっちの連絡来たな!」
 部屋に入った伊吹に早速高崎が駆け寄ってきて、その後を続けることができずにぼんやりする。
「今の」
 確かに伊吹の指に紫の石が光っていた。
「指輪?」
 なんで?
「職場ではしないって」
 石が傷むから。
「課長、鳴海さんからお電話です!」
「あ、回して!」
 石塚に呼ばれて慌てて電話に向かう。
「おはようございます、真崎です」
 電話の向こうの声は生き生きとしていた。『Brechen』に連れていかれていた従業員が一部戻されて、予定していたニット帽も期日より早めに仕上げられるかもしれないという内容だった。
「それはよかった」
『あんたが裏で動いてくれたんだってな?』
 鳴海がどこか照れたような声で続けた。
『戻ってきたやつらが言ってた、あっちでの仕事に配置換えがあって急に予定が変更になったんだと』
「僕は何もしてませんよ」
 曖昧に微笑む。
 昨日の会議の応対を見ると、大石はほとんど手配を終えたのだろう。予定より早く切り上がってきたのは、色を限定されたから、別バージョンを設定したのを取りやめた可能性はあるが、京介の働きかけというより『Brechen』自体の方針変更だ。
『いや、本当ならぎりぎりまで戻れなかったそうなんだ、それが昨日の夜、急に連絡されたらしくってな』
「ああ…なるほど」
 源内の煽り方がうまかったせいもある。大石が自分の統率力を誇示したくなったのかもしれない。
『正直、あんたのところのがどこまで揃うかってところだったんだが』
 おいおい。
「それはよかった」
 狸だな、この人も。
 それはこちらに知らせてなかったあたり、さすがに伊達や酔狂で厳しい業界で生き抜いてきたわけではないということか。
 頷いていると、ひょいと視界にメモを差し出されて目を上げると、高崎が片手を立てて拝みながら中身を指差している。ざっと読み下して、ちらりと相手を上目遣いにみやると、にやっと片目をつぶってきた。
「それじゃ……ちょっと甘えていいですか」
 じつはお願いしていた分よりもう少し流通させたいんですよ。
「ライン、動かせます?」
 京介の提示した量に一瞬口をつぐんだ鳴海は、苦笑いの口調で応じた。
『できないとは言えねえな、わかった、間に合わせる』
「ありがとうございます」
 にっこり笑って高崎に頷くと、相手はやった、と無言でガッツポーズを作り、跳ねるような動きで離れていったが。
「伊吹さん、行けるって」
「よかったですね」
「サンキュ、思い切らせてくれて」
 やっぱやるだけやってみるもんだよなあ。
 にこやかに笑う高崎に伊吹がどういたしまして、と微笑するのを京介は凝視した。
 とすると、高崎にしてはえらく周到なやり方は伊吹仕込みらしい。
 じり、と焼け付いた胸に唇を噛んで、京介は予定を確認し、上着と鞄をもう一度手にした。
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