『闇を闇から』

segakiyui

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第4章

6.コーリング・ステーション(8)

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「手?」
「て…?」
 大輔がぎくりとしたように力を緩めて、腕に力が戻り、指先に洗面台が触れた。
 手を突く。
 捉えた平面に掌を付ける。
「そのまま一気に突き放す! 後ろに頭を振り上げる!」
「っん!」
「がっ!」
 命じられたことばのまま、思い切り手をついて体を反らすと、がんっ、と後の大輔に後頭部がぶつかった。思わぬ反撃に悲鳴を上げた大輔が吹っ飛び、一緒に崩れかけたのを途中で食い止められる。
「あ」
「ぐあ!」
 同時に足下で重いうめきが響く。
 京介を支えながら覗き込んだ相手がひょいと視線を下に逸らせ、ああすまん、脚を踏んだか悪かったな、と白々しい口調で謝るのを瞬きながら見返して、何がなんだかわからないまま、ずきずきする後頭部に手をやった。
「いた…」
「き、さま…っ」
「おやこれは」
 京介の体を支えた相手が不思議そうに大輔を見やる。
「真崎大輔さん」
「う」
「で、この人は真崎京介さん」
 とぼけた口調でいいながら、じろじろと遠慮ない視線で大輔を見ているのは、源内だ。
「トイレで兄弟喧嘩ですか」
「…ちっ」
「一体何が原因なんです、仲が悪いですねえ」
 『ハイウィンド・リール』でも妙なやりとりされてたような?
 源内が薄笑いをするのに、大輔が訝しげに顔をしかめ、やがて狼狽した表情になった。
「覚えておられない? お会いしましたよね」
 それとも、弟さんと話をすることで頭が一杯で、その他のことは忘れておられるのかな。
「あの時……いつから…居た」
 大輔が顔色を無くしながら問いかける。
「何のことですかねえ」
 源内が人の悪い笑顔を広げる。
「ただ……今『ニット・キャンパス』に妨害としか思えないような噂があるんですが、あの発生源ってのも」
 なんとなくわかるような気がしてきました。
「…御大は、このこと、ご存知ですか?」
「く…っ」
 大輔が慌てたように汚れたスラックスを気にしながら立ち上がる。
「ご存知じゃない? でしょうね、あの人、醜聞は嫌いですからねえ」
 源内が吐き捨てるように続ける。
「個人的な事情はともかく、俺はこのイベントに人生かけてんだよ」
 これ以上余計な振る舞いしてくれるなら、こっちもややこしい手を使わしてもらうぜ、おっさん。
「妙な誤解をするな」
 大輔が必死に平静を装うように手を洗い、不愉快そうに顔を歪めて京介の側をすり抜けながら唸る。
「誘ったのはそいつだ」
「へえ?」
 誘ったのに、あれだけ抵抗されてんなら。
「あんたよっぽど嫌われてるんだよ」
「…ちっ」
 嘲笑う源内に大輔はきつい視線を返すとそそくさとトイレを出て行く。
「…大丈夫か?」
「……ええ」
 京介は頷いて床に落ちた眼鏡を拾い上げ、のろのろと洗面台で水洗いしてハンカチで拭いた。
「……傷害罪で訴えることができるぜ」
 くい、としゃくられて教えられたのに鏡の中を覗き込むと、右の頬に薄くかすり傷がついている。
「脅迫罪でもいける」
「……大丈夫」
 そんなことをしたら、『ニット・キャンパス』が動かせなくなってくるでしょう?
 眼鏡をかけて鏡の中から微笑むと、源内が複雑な顔になった。
「仮にも大きな要の一つ、社会連絡協議会の青年部部長がこともあろうに、その会議打ち合わせ中に、なんて?」
 あなたの管理責任、コーディネーターの責任が問われてしまう。
「…何を脅されてる?」
「……」
「だんまりか」
「……」
「あんたもハル系か」
 ああ、だからあの女にはまるんだな、きっと。
 溜め息まじりに呟いた源内が頭を掻きながら、仕方ないなったく、と本来の用向きにかかった。
「……ありがとう」
「ん?」
「助けてくれて」
 手をゆっくり洗いながら吐息をつき、京介は指輪を眺めた。
 本当に。
「僕また伊吹さんをうんと悲しませるところだった」
 呟くと、小用を終えた源内が隣に並ぶ。しばらく黙っていたが、小さく溜め息をついて吐き捨てた。
「無防備なんだよ、あんたは」
「……うん」
「何かやったことないのか?」
「え?」
 京介が瞬いて鏡の中から見返すと、源内が考え込んだ顔で見つめ返す。
「武道とか、護身術とか」
「ないね」
「……教えようか」
「は?」
「俺は多少合気道をやる」
 複雑な顔になって源内は肩を竦め、苦笑した。
 さっきみたいなことがたびたびあるんなら。
「あんたは自分で自分を守れなくちゃいけないんじゃないか」
「自分で,自分を」
 ぱしん、と額の中央が割れたような気がして京介は瞬いた。
「それは」
 考えたことがなかった。
 応えて、そういうことを考えつかなかった自分に愕然とした。
 そりゃそうだよね? 
 駅のことだって、マフラーは仕方ないにしても、ただ大輔に貪られるのを受け入れる必要はなかったはずだ。
「今のなんか、ちょっと喧嘩慣れしてりゃ、すぐに逃げられる」
 なのに大人しく押さえつけられてるから、相手も頭に乗るんだ。
「見てたら……なんか抵抗しちゃいけないって考えてるみたいな感じだからさ」
「う…ん…」
 刷り込まれた恐怖と植え付けられた手順を重ねられると、身動きすることさえ罪のような気がして、京介は自分を傷つけることしか考えられなくなる。
「抵抗しなくちゃいけない、戦わなくちゃいけないってのが苦手でもさ」
 合気道は型、だから。
「型を体に入れておけば、危険に勝手に反応してくれる」
「そういうもの?」
「そういうもんだから、型って言うんだ」
 源内は苦笑した。
「それに、あんたはあんただけのためじゃなくて、その指輪のためにも戦わなくちゃいけないんじゃないか」
「え…」
 ハルならそう言うと思うけど。
「大切な人を悲しませるようなことをするのも、相手を傷つけるのとおんなじだって」
「僕が、傷つける?」
 京介が傷つくことで、伊吹を傷つける?
『幸せになってやってください』
「あ…ああ」
 そういう、ことか。
 伊吹の父親のことばの意味が、ようやくきちんとわかった気がした。
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