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第4章
3.二人と三人(6)
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「行きましょうか?」
ここからならタクシーを飛ばせる。
『今……夜中だよ? ……終電、終わったよ?』
声がしっとりと艶を帯びた。
甘える頼りない声、鼻を鳴らしてすり寄る怯えた子犬を思わせる。
「お仕事、たくさんあったの?」
そうではないだろう、こんな時間まで真崎京介がかからなくてはならないような動きは、少なくとも美並の帰るまでには起こっていなかった。それに仕事だったのなら、声にもっと覇気がある。
『……も……終わった…』
声が一層甘くなった。
真崎京介は仕事を中途半端に終わらせない。終わらせた時には明日からの手立てを組み終えている。こんなあやふやな物言いにはならないし、たとえ予定に不安があったとしても、それならなおさら美並に気づかれるようなことはしない。
それをするのは、真崎が防御一つできなくなっている時だけだ。
美並は身を翻してホームを戻り、改札を抜けた。
「じゃあ、眠っても大丈夫ですね?」
促すように確認すると、くしゃみで応じる。
くしゃみ?
思わず空を見上げたのは冷えきった同じ空の下に居るのかと錯覚したからだ。
そうじゃない、声の響きは室内だ、なのにくしゃみをする、それほど冷え切った部屋に居る、そういうことだ。
「お部屋、温かくしてる?」
『ううん』
ぽかりと虚ろな否定にぞくりとした。
子どもに呼びかけるような美並の問いにいつもならば別の甘えをしてくるだろうに、なぜ平然と応じてくるのか、そっちの想像が怖い。
「じゃあ、暖房、つけて」
うん、と声が応じて、くしゅん、とくしゃみが続いた。がたがたと動く音、テーブルか何かにぶつかったのか? 何度もくしゃん、と派手な音を響かせているのに、嫌な想像をした。
「あったかい格好してる?」
まさかとは思うけれど、服を着てないのか?
『ううん…』
語尾が怒られるかなと身を竦める子どもの響きになった。
「じゃあ、もう一枚、着た方がいいですね」
もう一枚、と言ったものの、ひょっとして全裸だったりするんだろうか。全裸でこんな夜中に冷え切った部屋で携帯にも出ずに何をしていたのだろう。
「…って、考える私の方が煮詰まってるとか」
『……あったかくなった』
ぼやいた矢先に、完全に子ども返りしてしまったような声が応じて、何となく赤面した。自分一人薄汚い大人の発想に振り回されている気がする。もやりと動きかけた衝動を押さえつける。
「風邪引いちゃだめですよ」
「京介が苦しいと私も苦しいから」
「あったかいもの、飲んで」
「あったかくして眠って下さいね?」
立て続けの説教じみた自分のことばに溜め息をつく。うん、うん、と間に頷く京介の鼻声が可愛くて愛しくて、できることならこのままタクシーを飛ばしてマンションに駆けつけてしまいたいと、深夜の客待ちのタクシーを睨んだ。
危ない危ない。
今夜の自分は何をするかわからない。
無力が堪えてるから、京介の受容をいいことに、とんでもないことまでしてしまいそうだ。
ほう、と吐息を零しつつ、タクシーから目を逸らせると、それを煽るように舌足らずな声が響いた。
『……みなみも』
てんねんだ。
てんねんのおんなたらしだ。
ここでこういう声でそんなことを囁くか?
もっと甘い声を聞きたいと、煽られない恋人がいるか?
くそぉ。
溜め息まじりに空を仰いだ。
「京介が居ないから………私はちょっと寒いです」
抱き締めたい。甘え声の京介を、すり寄せてくる髪にキスして、一つのベッドに温まりたい。
「……煮詰まってんなあ……」
携帯を少し外して呟くと、何か京介が応じて慌てて携帯を引き寄せる。
『僕、湯たんぽみたいだね』
湯たんぽ。思わず微笑んでしまった。まさにその通り。
「あったかくて、気持ちいい湯たんぽですね」
滑らかで肌の奥に尽きない熱をたたえていて。
ああ、欲しいな。
『湯たんぽはみんなそうじゃないの?』
ちょっと拗ねた声がする。
湯たんぽは抱き締めてくれないから、と応じると、しばらくして、
『僕も、美並が居なくて、寒くて、辛い……』
掠れた声が応じてくれて、胸が詰まる。
「一緒ですね」
その瞬間、胸に広がった幸福感は。
一緒。
そうか、一緒なのか、こうして離れていても。
「京介、私と一緒に居て下さい」
願うなら、この先美並が京介の望まない真実を暴いたとしても。
孝の死の真相を、京介の大事な親友を死に追いやったのが美並だという真実しかなかったとしても。
それはどれほど儚い祈りだろう。
有沢が一人で居たいと望んだように、京介が美並を拒まないと信じる確証など何もない。
空は暗い。
こんなに夜が更けたのに、街の灯も消えたのに、星の光がまだ弱い。
本当に正しいのか、美並が今しようとすることは。
本当に意味があるのか、美並が今揮おうとする力は。
『…美並…僕』
「はい」
思い詰めた声をじっと待つ。
さよならだろうか。
今ここで終わりだろうか。
それならその声の隅々を、記憶の底まで染み渡らせたい、命の終わりに取り出せるように。
『…死に、そう…』
同じ、想いだ。
『寂しいよ』
まるで美並の決意を詰るように。
京介、私は。
溢れ出したのは今まで流す事ができなかった涙。
私は、あなたを。
「死なないで」
どれほど欲しがっているだろう。
掠れてしまっていないだろうか、ちゃんとはっきり告げているだろうか。
あなたに側に居て欲しい。
あなたに笑っていて欲しい。
あなたに幸福になって欲しい。
けれど、何よりも、どんな願いよりも強く思う。
あなたに生きていて欲しい。
だから、そのための真実をきっと探し出してみせる。
「…だって」
あなたが居ないこの世界はきっと、私が傷つき続ける世界よりうんと。
「寂しいから」
微かに漏れる寝息ごと、美並は携帯を抱え込むようにして泣いた。
ここからならタクシーを飛ばせる。
『今……夜中だよ? ……終電、終わったよ?』
声がしっとりと艶を帯びた。
甘える頼りない声、鼻を鳴らしてすり寄る怯えた子犬を思わせる。
「お仕事、たくさんあったの?」
そうではないだろう、こんな時間まで真崎京介がかからなくてはならないような動きは、少なくとも美並の帰るまでには起こっていなかった。それに仕事だったのなら、声にもっと覇気がある。
『……も……終わった…』
声が一層甘くなった。
真崎京介は仕事を中途半端に終わらせない。終わらせた時には明日からの手立てを組み終えている。こんなあやふやな物言いにはならないし、たとえ予定に不安があったとしても、それならなおさら美並に気づかれるようなことはしない。
それをするのは、真崎が防御一つできなくなっている時だけだ。
美並は身を翻してホームを戻り、改札を抜けた。
「じゃあ、眠っても大丈夫ですね?」
促すように確認すると、くしゃみで応じる。
くしゃみ?
思わず空を見上げたのは冷えきった同じ空の下に居るのかと錯覚したからだ。
そうじゃない、声の響きは室内だ、なのにくしゃみをする、それほど冷え切った部屋に居る、そういうことだ。
「お部屋、温かくしてる?」
『ううん』
ぽかりと虚ろな否定にぞくりとした。
子どもに呼びかけるような美並の問いにいつもならば別の甘えをしてくるだろうに、なぜ平然と応じてくるのか、そっちの想像が怖い。
「じゃあ、暖房、つけて」
うん、と声が応じて、くしゅん、とくしゃみが続いた。がたがたと動く音、テーブルか何かにぶつかったのか? 何度もくしゃん、と派手な音を響かせているのに、嫌な想像をした。
「あったかい格好してる?」
まさかとは思うけれど、服を着てないのか?
『ううん…』
語尾が怒られるかなと身を竦める子どもの響きになった。
「じゃあ、もう一枚、着た方がいいですね」
もう一枚、と言ったものの、ひょっとして全裸だったりするんだろうか。全裸でこんな夜中に冷え切った部屋で携帯にも出ずに何をしていたのだろう。
「…って、考える私の方が煮詰まってるとか」
『……あったかくなった』
ぼやいた矢先に、完全に子ども返りしてしまったような声が応じて、何となく赤面した。自分一人薄汚い大人の発想に振り回されている気がする。もやりと動きかけた衝動を押さえつける。
「風邪引いちゃだめですよ」
「京介が苦しいと私も苦しいから」
「あったかいもの、飲んで」
「あったかくして眠って下さいね?」
立て続けの説教じみた自分のことばに溜め息をつく。うん、うん、と間に頷く京介の鼻声が可愛くて愛しくて、できることならこのままタクシーを飛ばしてマンションに駆けつけてしまいたいと、深夜の客待ちのタクシーを睨んだ。
危ない危ない。
今夜の自分は何をするかわからない。
無力が堪えてるから、京介の受容をいいことに、とんでもないことまでしてしまいそうだ。
ほう、と吐息を零しつつ、タクシーから目を逸らせると、それを煽るように舌足らずな声が響いた。
『……みなみも』
てんねんだ。
てんねんのおんなたらしだ。
ここでこういう声でそんなことを囁くか?
もっと甘い声を聞きたいと、煽られない恋人がいるか?
くそぉ。
溜め息まじりに空を仰いだ。
「京介が居ないから………私はちょっと寒いです」
抱き締めたい。甘え声の京介を、すり寄せてくる髪にキスして、一つのベッドに温まりたい。
「……煮詰まってんなあ……」
携帯を少し外して呟くと、何か京介が応じて慌てて携帯を引き寄せる。
『僕、湯たんぽみたいだね』
湯たんぽ。思わず微笑んでしまった。まさにその通り。
「あったかくて、気持ちいい湯たんぽですね」
滑らかで肌の奥に尽きない熱をたたえていて。
ああ、欲しいな。
『湯たんぽはみんなそうじゃないの?』
ちょっと拗ねた声がする。
湯たんぽは抱き締めてくれないから、と応じると、しばらくして、
『僕も、美並が居なくて、寒くて、辛い……』
掠れた声が応じてくれて、胸が詰まる。
「一緒ですね」
その瞬間、胸に広がった幸福感は。
一緒。
そうか、一緒なのか、こうして離れていても。
「京介、私と一緒に居て下さい」
願うなら、この先美並が京介の望まない真実を暴いたとしても。
孝の死の真相を、京介の大事な親友を死に追いやったのが美並だという真実しかなかったとしても。
それはどれほど儚い祈りだろう。
有沢が一人で居たいと望んだように、京介が美並を拒まないと信じる確証など何もない。
空は暗い。
こんなに夜が更けたのに、街の灯も消えたのに、星の光がまだ弱い。
本当に正しいのか、美並が今しようとすることは。
本当に意味があるのか、美並が今揮おうとする力は。
『…美並…僕』
「はい」
思い詰めた声をじっと待つ。
さよならだろうか。
今ここで終わりだろうか。
それならその声の隅々を、記憶の底まで染み渡らせたい、命の終わりに取り出せるように。
『…死に、そう…』
同じ、想いだ。
『寂しいよ』
まるで美並の決意を詰るように。
京介、私は。
溢れ出したのは今まで流す事ができなかった涙。
私は、あなたを。
「死なないで」
どれほど欲しがっているだろう。
掠れてしまっていないだろうか、ちゃんとはっきり告げているだろうか。
あなたに側に居て欲しい。
あなたに笑っていて欲しい。
あなたに幸福になって欲しい。
けれど、何よりも、どんな願いよりも強く思う。
あなたに生きていて欲しい。
だから、そのための真実をきっと探し出してみせる。
「…だって」
あなたが居ないこの世界はきっと、私が傷つき続ける世界よりうんと。
「寂しいから」
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