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第4章
3.二人と三人(1)
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向田署の玄関は静まり返っていた。
「静かですね」
「今夜は別です」
有沢が微笑む。
「さっきかなりの数が出払ったはずなんで」
「ああ」
出掛けの連絡というのを思い出した。それもまた計算のうちなのだろう、と美並は有沢の横顔を見上げる。
いくら有沢がある種の権限を持っていたにせよ、一般人をフリーに捜査に関わるものに近づけたりすることはできないはずだ。今有沢がやろうとしていることは、一歩間違えれば法治国家を揺るがす権利侵害となりかねないのを、考えていないはずがない。
それでも余命三ヶ月、その刻限は有沢を追い立てている。
TVドラマで見るような仰々しい建物ではなかったが、どこかの企業ビルを思わせる無機質的な直線の連なりは、入る者を竦ませる。立ち番らしい警官もいないが、玄関に立った瞬間にまっすぐ進んだ短い廊下の奥からと、手前の階段から上がる二階ホールからの視線を感じた。見上げるとホール手前に二人の警官が軽く足を開いて立っており、奥には市民のためのスペースと言った開放感とは裏腹に、正面に背広の男性が一人、机についている。くるりと見回すとこれみよがしに防犯カメラが設置されている。
「大丈夫ですよ」
有沢が静かに美並を促した。
「犯罪に関わらなければ、警察を怖がる必要はありません」
お題目だと有沢もわかっているのだろう、唇の片端を上げて見せる。
その有沢の声に奥の男性が顔を上げてじっと美並を見つめた。すぐに再び机に視線を落としたが、意識が美並から離れていないことは感じ取れる。もう一度見上げると、ホールの警官二人もじっと美並と有沢を見下ろしている。
「こちらへ」
有沢は美並を階段の方へ誘った。
「太田さんの遺品を見て欲しいんです」
「……」
「……心配いりません」
美並の無言の問いに有沢は苦笑した。
「私のこだわりはみんなよく知っている。私が無謀なことをしないのも」
警官二人が有沢の視線に緊張した顔で姿勢を正して通路を開けた。
「余命三ヶ月の男が獲物を追ってるんですよ」
有沢の声が響くのに警官二人が視線を泳がせる。
「誰に止められるものでもないでしょう」
誰に聞かせているのだろう、と美並は思った。階下の男にしては遠すぎる、この二階のどこかで静かに有沢や美並の行動を録画しているビデオに向かってだろうか。
いずれにせよ、有沢は自分の命が短いことさえ武器にしているのは明らかだ。
そしてそれは、微妙な距離で黙認されている。
有沢の功績か、地位か、まさか哀れみなどではないだろうけど。
と、ふいに側の部屋の扉が開いて、有沢も美並も立ち止まった。特に有沢が訝しそうに体をひねって部屋を覗き込み、首を傾げる。
「姫野さん…?」
「あら」
出て来たのは初老の婦人だった。上品そうな薄紫のショールと薄紫のニットに白いブラウス、紺色のスカートに足下にはかっちりとした黒い革靴。腕にコートをかけて、どこから見ても上流階級の奥様のような気配の60歳すぎの女性。
「まさか」
「そのまさかですのよ」
女性は白い手を口元にあて、ころころと笑った。
「いや、しかし」
有沢がぎょっとした顔で背後を見やる。
「違いますよ」
女性の奥から出て来た男性が苦りきった顔で首を振った。
「今度は違います、有沢警部補」
「驚かさないで下さい」
「申し訳ございません」
婦人は静かに頭を下げた。半白の髪は豊かで耳元で押さえたピンもきちんとしている。
「今年はお手を煩わせずに年を越せそうですわ」
「頼みますよ」
でないと太田さんが泣きますから。
有沢が複雑な顔になっているのに、婦人は表情を改めた。
「ええ、その通りです……犯人はまだ捕まっていませんのね」
「はい」
「いいですか、連れていきますよ」
背後の男性が不愉快そうに促すのに、有沢が問いかける。
「何だったんだ?」
「痴漢ですよ」
「は?」
「私じゃございませんよ?」
「わかってます」
妙な相の手を入れる婦人に有沢が溜め息をつく。
「電車で女子高校生に仕掛けたやつがいたんですよ。すったもんだあって、そいつは逃げたんですがね」
「お財布を落とされたんですの」
婦人は微笑した。
「まあ大慌てで走っていかれましたからねえ」
「……中身は」
「札は一枚もなしです。免許証が入ってたし、会社の名刺もあるんで、すぐにどこの誰だかわかりますが、一応『拾って頂いた』ので事情をお尋ねしていたんですよ」
「………姫野さん」
「はい」
なんでしょう、と無邪気な顔で有沢を見上げる小柄な老女には悪意一つ見受けられない。
「次は、知りませんよ」
「こんな偶然はたびたびないと思いますわ」
微笑んだ相手は、ではごめんくださいませ、と頭を下げて去っていこうとする。
「あの」
美並は思わず呼び止めた。
「太田さんをご存知なんですね?」
「静かですね」
「今夜は別です」
有沢が微笑む。
「さっきかなりの数が出払ったはずなんで」
「ああ」
出掛けの連絡というのを思い出した。それもまた計算のうちなのだろう、と美並は有沢の横顔を見上げる。
いくら有沢がある種の権限を持っていたにせよ、一般人をフリーに捜査に関わるものに近づけたりすることはできないはずだ。今有沢がやろうとしていることは、一歩間違えれば法治国家を揺るがす権利侵害となりかねないのを、考えていないはずがない。
それでも余命三ヶ月、その刻限は有沢を追い立てている。
TVドラマで見るような仰々しい建物ではなかったが、どこかの企業ビルを思わせる無機質的な直線の連なりは、入る者を竦ませる。立ち番らしい警官もいないが、玄関に立った瞬間にまっすぐ進んだ短い廊下の奥からと、手前の階段から上がる二階ホールからの視線を感じた。見上げるとホール手前に二人の警官が軽く足を開いて立っており、奥には市民のためのスペースと言った開放感とは裏腹に、正面に背広の男性が一人、机についている。くるりと見回すとこれみよがしに防犯カメラが設置されている。
「大丈夫ですよ」
有沢が静かに美並を促した。
「犯罪に関わらなければ、警察を怖がる必要はありません」
お題目だと有沢もわかっているのだろう、唇の片端を上げて見せる。
その有沢の声に奥の男性が顔を上げてじっと美並を見つめた。すぐに再び机に視線を落としたが、意識が美並から離れていないことは感じ取れる。もう一度見上げると、ホールの警官二人もじっと美並と有沢を見下ろしている。
「こちらへ」
有沢は美並を階段の方へ誘った。
「太田さんの遺品を見て欲しいんです」
「……」
「……心配いりません」
美並の無言の問いに有沢は苦笑した。
「私のこだわりはみんなよく知っている。私が無謀なことをしないのも」
警官二人が有沢の視線に緊張した顔で姿勢を正して通路を開けた。
「余命三ヶ月の男が獲物を追ってるんですよ」
有沢の声が響くのに警官二人が視線を泳がせる。
「誰に止められるものでもないでしょう」
誰に聞かせているのだろう、と美並は思った。階下の男にしては遠すぎる、この二階のどこかで静かに有沢や美並の行動を録画しているビデオに向かってだろうか。
いずれにせよ、有沢は自分の命が短いことさえ武器にしているのは明らかだ。
そしてそれは、微妙な距離で黙認されている。
有沢の功績か、地位か、まさか哀れみなどではないだろうけど。
と、ふいに側の部屋の扉が開いて、有沢も美並も立ち止まった。特に有沢が訝しそうに体をひねって部屋を覗き込み、首を傾げる。
「姫野さん…?」
「あら」
出て来たのは初老の婦人だった。上品そうな薄紫のショールと薄紫のニットに白いブラウス、紺色のスカートに足下にはかっちりとした黒い革靴。腕にコートをかけて、どこから見ても上流階級の奥様のような気配の60歳すぎの女性。
「まさか」
「そのまさかですのよ」
女性は白い手を口元にあて、ころころと笑った。
「いや、しかし」
有沢がぎょっとした顔で背後を見やる。
「違いますよ」
女性の奥から出て来た男性が苦りきった顔で首を振った。
「今度は違います、有沢警部補」
「驚かさないで下さい」
「申し訳ございません」
婦人は静かに頭を下げた。半白の髪は豊かで耳元で押さえたピンもきちんとしている。
「今年はお手を煩わせずに年を越せそうですわ」
「頼みますよ」
でないと太田さんが泣きますから。
有沢が複雑な顔になっているのに、婦人は表情を改めた。
「ええ、その通りです……犯人はまだ捕まっていませんのね」
「はい」
「いいですか、連れていきますよ」
背後の男性が不愉快そうに促すのに、有沢が問いかける。
「何だったんだ?」
「痴漢ですよ」
「は?」
「私じゃございませんよ?」
「わかってます」
妙な相の手を入れる婦人に有沢が溜め息をつく。
「電車で女子高校生に仕掛けたやつがいたんですよ。すったもんだあって、そいつは逃げたんですがね」
「お財布を落とされたんですの」
婦人は微笑した。
「まあ大慌てで走っていかれましたからねえ」
「……中身は」
「札は一枚もなしです。免許証が入ってたし、会社の名刺もあるんで、すぐにどこの誰だかわかりますが、一応『拾って頂いた』ので事情をお尋ねしていたんですよ」
「………姫野さん」
「はい」
なんでしょう、と無邪気な顔で有沢を見上げる小柄な老女には悪意一つ見受けられない。
「次は、知りませんよ」
「こんな偶然はたびたびないと思いますわ」
微笑んだ相手は、ではごめんくださいませ、と頭を下げて去っていこうとする。
「あの」
美並は思わず呼び止めた。
「太田さんをご存知なんですね?」
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