『闇を闇から』

segakiyui

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第4章

2.ビハインド(5)

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「寒くないですか?」
 駅前に白い息を吐きながら駆けて来た有沢は子供のように笑いかけた。
「はい」
「待たせてしまってすみません」
 こっちです、と誘う額にはうっすら汗をかいている。
「汗」
「え?」
「急いで来て下さったんですね」
「ああ」
 有沢が少しうろたえた顔でぐい、とこぶしで顔を拭う。
「出掛けに別の連絡が入って」
 暗くなってくるし、こんなところで待たせているしと、気が気じゃなかった。
 苦笑しながら、先に立って路地を入っていく。
 優しい人なのだ、今も昔も。
 その優しい人が自分の体を食い破るほどの怒りと憎しみに身を任せている。
 美並は後をついていきながら、軽く目を閉じ、息をついてから目を開いて、じっと前の有沢の体を見た。
 歩きながら背中が時々強張る。一瞬丸まって、次に強がるように反らされるのは、痛みを感じていると知らせている。額に滲ませた汗は急いだからだろうか。あるいは傷みを堪えているせいだろうか。出掛けに入った連絡は本当だろうか、思いやりという名前の嘘だろうか。
 いずれにせよ、それはすぐにわかる、と美並は思った。
 そうだ、今回は意識して『見る』のだから。

「っらしゃ……」
 有沢がちょっと古めかしい感じのガラスの入った引き戸を開いて体を突っ込んだ店で、温かそうな湯気ともに溢れてきた声が途中で途切れた。
 年期の入った臙脂ののれんには『いろは』と白いひらがなが染め抜かれている。そこへ半身突っ込んだ有沢の向こうから冷ややかな声が響いた。
「…何しに来た」
「……」
 無言の有沢が動こうとしないので、隙間からそっと中を覗くと、カウンターの内側から睨みつけてくる太い眉の下の鋭い目とぶつかった。年の頃は50歳前後、薄くなってきた髪をぐるりと白い日本手拭いで巻いた顔が、美並を見つけて一瞬大きく目を見開く。
「……連れか」
「ああ」
「……」
 店主らしい相手は応えないまま、のっそりと背中を向けた。入るな、と拒む後ろ姿に気づかぬように、有沢は店の中へ足を踏み出す。
「ここは太田さんの持ち場で」
 低い声が静まり返った店の中ではっきり聞こえる。
「私をよく連れてきてくれたんですよ」
「…そのくせ逃げたんだよな」
 ぼそりと暗い声が店の隅から響いた。
 美並がそちらを見やると、カウンターの端でラーメンの鉢を抱えた男が顔を背けながらずるずると麺を啜る。
「太田さんの好きなのはメンマで、ここのメンマは特に旨いって私のラーメンからも持っていって」
 有沢は一瞬足を止めたが、まるで聞こえなかったように美並を導きながら、奥の席へ進んでいく。
「あんたはチャーシューもらってたろ」
 別の方向からまた苦しそうな声が聞こえた。振り返る美並の視線を避けるように、通路側に座っていた作業着姿の老人が舌打ちしながら席を離れていく。
「っ」
「有沢さん?」
「……大丈夫です」
 その老人にも気づかぬ顔で奥へ進んでいた有沢が一瞬体を強張らせて立ち止まった。引いた腰、庇った場所は寸分違わずさきほどの場所、けれど肩越しに笑った瞳は穏やかだ。
「口は悪いけど、みんないい人なんですよ」
 美並の問いの意味をわからなかったはずはない、それを有沢は巧みにすり替えてみせる、そんな手管など昔は知らなかったはずなのに。
「…奥は予約席だ」
 ぼそりと店主が唸った。
「……空いてますよね」
「空きはねえ」
「俺はいいから」
 彼女に食べさせてやってください。
 有沢が低い声で続けた。
「太田さんの無念を晴らしてくれる人なんだ」
「……」
 店主は振り返り、美並の凝視を真っ向から受け止める。
「奥は予約席だ」
 太田正道の特別席だ。
 店主が言い放って背中を向ける。
「そこに座れるもんなら座ってみろ」
「……」
 有沢が初めて立ちすくんだ。
「……お願い、です」
 囁くように呟く。
「それが駄目なら、力づくでも」
 ぐっと握ったこぶしを下に俯いて唸る。
「ちゃんと太田さんに会ってもらわなくちゃ、ならない」
 そうでなくちゃ追いかけられない。
 呻くような声に、この後どこへ連れていかれるのか察した。
 美並は今夜、太田正道の姿を見るのだ。その姿を手がかりに、この先の道を探せということなのだ。
 ならば。
「……伊吹さん…?」
 有沢の側をすり抜けて、まっすぐ一番奥まった席に向かう。ぎょっとしたように振り向く店主の視線を頼りに、奥の座敷席の壁際に入り込み、きちんと正座して店主を見返した。
「注文を聞いて頂けますか」
「あんた…」
「太田さんの一番好きだったものを下さい」
「……」
 店主は一瞬真っ赤になり、やがて真っ青になり、くるりと背中を向けた。断られるかと思ったが、しばらく待つうちに美並の前に、触れそうにないほどの熱を放った五目そばが置かれる。
「ありがとうございます」
「食うな」
 店主は仁王立ちになったまま、美並を見下ろす。
「それは、マサの食い物だ」
 ぎらぎらと昏い熱を放っている瞳は、有沢の体の奥にあるものと同じ怒りだ。
 理不尽な暴力にかけがえのないものを奪われた、理由もわからず謝罪もされず、ただただ失った日々を繰り返す自分の命を呪っている。
「あんたが何者か知らねえ」
 店主はまだ数人の客が居るのに物音一つしなくなった店を構うことなくことばを続ける。
「何様だか」
 吐き捨てることばの侮蔑の針。
「そこはマサの席で、それはマサの食い物だ、他の誰にもやれねえんだ」
 なぜ俺は。
 店主の胸の中で声が響くのを感じ取った。
 なぜ俺はあいつにこれを食わせていられることを喜ばなかった。
 あいつが生きて、ただこれを食いにくるその日々を、なぜもっと大事にしなかった。
 なぜ。
 なぜ、俺は。
 なぜ俺はあいつをこうも簡単に失ってしまうしかなかったんだ。
「太田さんは」
 美並は店主を見上げた。
「五目そばがお好きでしたか」
「ああ」
「よく食べに?」
「………あいつの注文で仕上げたもんだ」
 店主が呻くように応じて、有沢がはっとしたように顔を上げる。
「あいつが立ち番の警官の頃から、下っ端でこきつかわれて寒い中あったまる食い物が欲しいって言うから」
「……太田さんと昔から?」
「……………俺の、」
 ぐっと食いしばった歯はその先を告げるのを拒んだ。
「……あんたには何もできねえよ」
 あんたみたいな小娘に。
 あんたみたいに世間知らずに育った女に。
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