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第3章
12.オープンエンディド(5)
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夕飯は食べていくでしょ、カレーにでもしようか。
ついに美並の実家を訪れたものの、すぐに出ていった真崎と父親を見送っていた美並に、母親が声をかけてきた。
「…うん」
「すぐ戻ってくるから、か」
「なに?」
「ううん」
母親は真崎のことばを繰り返し、そっと小さな溜め息をついた。
「形だけだわねえ」
「え?」
「結婚の許しをもらいにきた、って」
苦笑しながらダイニングキッチンに戻って、椅子の背にかけていたエプロンを首にかける。
「形だけって……いいかげんってこと?」
「そうじゃなくって」
尋ねる美並に、母親は洗いものの手を止めた。
「もうすっかり二人で暮らしていくつもりなんだなあって」
「……」
「お前と一緒に居るのが普通で当たり前のことなんだねえ、あの人にとっては」
「あ…」
そうか。
ふいに気付いて美並は顔が熱くなった。
すぐ戻ってくる。だから心配しないで待ってなさい。
真崎のことばはきっとそう続いている。
僕はちゃんと君のところに戻ってくる、君の場所が僕の場所。
ことばにされないけれど、当たり前のように示された約束。
「それをお前もあの人も意識してないんだねえ」
きっとまだ確かめあってはいないのだろうけど、それはもう暗黙の了解、考えるまでもなく必然なこと、お前達はそう考えてるんだ、と母親は穏やかに説明する。
「明はまだ七海ちゃんにおいで、とか、行くから、とか話してるよ」
それはまだ二人の場所が離れているという意味。
「……そうか」
だからいつかドレスを見立てたとき、七海があれほど美並との距離を気にしたのか。
することはして、もうすぐ結婚、そこまで話が進んでいても、熱が出た七海に無体をしかけたり、真崎をさっさと迎え入れようとしたのは、明なりの焦り。
「だから、あの人……京介さん、も玄関で済む、と言ったんだねえ」
じゃがいもの皮を剥きながら、母親はくすぐったそうに笑う。
「形だけだってわかってるんだよ」
でもその形を通そうとしてくれたのは、きっとおとうさんのことを考えてくれたんだね。
京介さん、と柔らかく呼ばれた名前に、何だか無性にほっとした。
家族というものに傷つけられることしか知らなかった真崎に、かなり遠くからではあるけど、優しい囲いができた気がする。また万が一真崎が壊れて飛び散りかけて、最悪美並が側に居ることができなくても、この遠い囲みが真崎の崩壊を守ってくれそうな気がする。
初めて感じる柔らかな安堵。
そうか。
家族って、そういうものでもあるんだ。
守るものだけじゃなく、支えるだけじゃなく、自分がどうしても足りなくて包みきれないところを、そっと静かに掌を添えてくれるような。
真崎を得ることで、ようやく気付いた一つの形。
「おとうさんが反対しても、私がためらっても」
母親は人参をゆっくり切りながらことばを継ぐ。
京介さんは平然とお前と暮らし始めるつもりなんだ。
嬉しそうな誇らしそうなその声は、今まで聞いたことがない。
「……ありがたいね…」
「おかあさん……」
ふいに母親が俯いて涙声になって戸惑った。
「血も繋がってないのに、これほどお前と居ることを望んでもらえるなんて」
きしるような呟きに、美並もことばを失う。
不思議な子、おかしな子、何か奇妙なものを見ている子。
気味悪がられた娘をどれほどの思いでじっと抱えてくれようとしたのか、それが溢れるように感じられて、思わず胸が詰まる。
ごめんね、ずっと。
でも、ありがとう、今まで。
手にしたタマネギの皮を急いで剥き始める美並に、母親が小さく笑った。
「大事にしてるんだね」
「うん」
「京介さんを見ればわかるよ」
あの人がお前をどれほど支えにしているか。
「そう、かな」
そうだといいな。
自分でも幼い口調になったのを美並は感じた。
りっ、りりりっ。
唐突に電話が鳴り、はっとする。
明は七海の様子を見に行ったし、真崎も父親もまだ戻らない。
「出るね」
「お願い」
「はい、伊吹、です」
いずれこの名前も変わるのだ、とふいに激しい気持ちになった次の一瞬、電話の向こうの声に固まった。
『あ…伊吹さん?』
この声は。
『こちらにおられたんだ……おひさしぶりです』
「あの」
沸き起こった不安に口を噤む。
『覚えておられないかな。有沢基継です。今年から向田署に戻ってきてるんです』
記憶にあるより大人びて掠れた声は成熟を感じさせる。したたかな気配は変わらずだが、何より安定感のある話し方は桜木元子に似た経験の厚みを思わせた。
その静かな、けれど人を圧倒する声で、
『あの事件のことを調べ直しているんですが』
有沢は淡々と続けた、まるでそれが必然でもあるかのように。
一度御会いできませんか。
ついに美並の実家を訪れたものの、すぐに出ていった真崎と父親を見送っていた美並に、母親が声をかけてきた。
「…うん」
「すぐ戻ってくるから、か」
「なに?」
「ううん」
母親は真崎のことばを繰り返し、そっと小さな溜め息をついた。
「形だけだわねえ」
「え?」
「結婚の許しをもらいにきた、って」
苦笑しながらダイニングキッチンに戻って、椅子の背にかけていたエプロンを首にかける。
「形だけって……いいかげんってこと?」
「そうじゃなくって」
尋ねる美並に、母親は洗いものの手を止めた。
「もうすっかり二人で暮らしていくつもりなんだなあって」
「……」
「お前と一緒に居るのが普通で当たり前のことなんだねえ、あの人にとっては」
「あ…」
そうか。
ふいに気付いて美並は顔が熱くなった。
すぐ戻ってくる。だから心配しないで待ってなさい。
真崎のことばはきっとそう続いている。
僕はちゃんと君のところに戻ってくる、君の場所が僕の場所。
ことばにされないけれど、当たり前のように示された約束。
「それをお前もあの人も意識してないんだねえ」
きっとまだ確かめあってはいないのだろうけど、それはもう暗黙の了解、考えるまでもなく必然なこと、お前達はそう考えてるんだ、と母親は穏やかに説明する。
「明はまだ七海ちゃんにおいで、とか、行くから、とか話してるよ」
それはまだ二人の場所が離れているという意味。
「……そうか」
だからいつかドレスを見立てたとき、七海があれほど美並との距離を気にしたのか。
することはして、もうすぐ結婚、そこまで話が進んでいても、熱が出た七海に無体をしかけたり、真崎をさっさと迎え入れようとしたのは、明なりの焦り。
「だから、あの人……京介さん、も玄関で済む、と言ったんだねえ」
じゃがいもの皮を剥きながら、母親はくすぐったそうに笑う。
「形だけだってわかってるんだよ」
でもその形を通そうとしてくれたのは、きっとおとうさんのことを考えてくれたんだね。
京介さん、と柔らかく呼ばれた名前に、何だか無性にほっとした。
家族というものに傷つけられることしか知らなかった真崎に、かなり遠くからではあるけど、優しい囲いができた気がする。また万が一真崎が壊れて飛び散りかけて、最悪美並が側に居ることができなくても、この遠い囲みが真崎の崩壊を守ってくれそうな気がする。
初めて感じる柔らかな安堵。
そうか。
家族って、そういうものでもあるんだ。
守るものだけじゃなく、支えるだけじゃなく、自分がどうしても足りなくて包みきれないところを、そっと静かに掌を添えてくれるような。
真崎を得ることで、ようやく気付いた一つの形。
「おとうさんが反対しても、私がためらっても」
母親は人参をゆっくり切りながらことばを継ぐ。
京介さんは平然とお前と暮らし始めるつもりなんだ。
嬉しそうな誇らしそうなその声は、今まで聞いたことがない。
「……ありがたいね…」
「おかあさん……」
ふいに母親が俯いて涙声になって戸惑った。
「血も繋がってないのに、これほどお前と居ることを望んでもらえるなんて」
きしるような呟きに、美並もことばを失う。
不思議な子、おかしな子、何か奇妙なものを見ている子。
気味悪がられた娘をどれほどの思いでじっと抱えてくれようとしたのか、それが溢れるように感じられて、思わず胸が詰まる。
ごめんね、ずっと。
でも、ありがとう、今まで。
手にしたタマネギの皮を急いで剥き始める美並に、母親が小さく笑った。
「大事にしてるんだね」
「うん」
「京介さんを見ればわかるよ」
あの人がお前をどれほど支えにしているか。
「そう、かな」
そうだといいな。
自分でも幼い口調になったのを美並は感じた。
りっ、りりりっ。
唐突に電話が鳴り、はっとする。
明は七海の様子を見に行ったし、真崎も父親もまだ戻らない。
「出るね」
「お願い」
「はい、伊吹、です」
いずれこの名前も変わるのだ、とふいに激しい気持ちになった次の一瞬、電話の向こうの声に固まった。
『あ…伊吹さん?』
この声は。
『こちらにおられたんだ……おひさしぶりです』
「あの」
沸き起こった不安に口を噤む。
『覚えておられないかな。有沢基継です。今年から向田署に戻ってきてるんです』
記憶にあるより大人びて掠れた声は成熟を感じさせる。したたかな気配は変わらずだが、何より安定感のある話し方は桜木元子に似た経験の厚みを思わせた。
その静かな、けれど人を圧倒する声で、
『あの事件のことを調べ直しているんですが』
有沢は淡々と続けた、まるでそれが必然でもあるかのように。
一度御会いできませんか。
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