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『その男』(12)
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「ああ……もうやんなっちゃう」
会社の入り口で栗色の髪を揺らした後ろ姿が空を見上げて地団駄を踏んでいる。
「どうして今日降るかなあ」
「どうしたの?」
「あ…っ」
さりげなく近寄って声をかけてみると、相手はぎくりとした顔で振り返った。
「困りごとかい?」
「あ、いえ、その」
経理の阿倍野淳子はこの間正式採用されたばかりだ。もっともそれまで高卒から2年、アルバイトとして入っていたから全くの新人でもない。
「急に雨が降ってきて」
りほが保育園で熱を出したって連絡があったんです。
「りほちゃん?」
「昔っから弱くてぇ」
阿倍野がちらっと甘えた目になる。
「不安になると熱を出すんですけどぉ」
「何か心配事があるのかな」
微笑むと、阿倍野は視線を揺らせた。
「パパがまたバイト辞めちゃって」
「ああ…」
阿倍野は同級生の男とできちゃった婚で家庭を持っている。経理に移動して2年、結果的にそこに居着いて、そのあたりの事情はかなり呑み込んできた、阿倍野が課長の緑川とそれなりの関係を持っていることも。
できちゃった婚の『パパ』は阿倍野と同年齢、男としては遊びたい盛りだ。打ち込める仕事も見つからないままに持ってしまった家庭は重荷になる一方で、家に帰ってこないことも増えたと聞いた。
お互いに予定外だった妊娠は、淳子にとっては意外に良かったらしく、一人娘のりほを可愛がっていて、最近は緑川とも疎遠になり、ついでに頼りがいも資本力もない『パパ』もあっさり眼中になくなってしまったらしい。
そのターゲットがどこへ向かってきているかと言えば。
「大変だね、いろいろと」
「はい」
しおらしく項垂れてみせる瞳が何を浮かべているのか、十分わかっている。
「はい、傘」
にっこり笑って差し出すと、男物の折りたたみを嬉しそうに受け取った。
「すみません、いつも」
あれこれ気遣ってもらって。
「うんと大人だなあって感じます」
「7歳も違えば、多少はね。彼と比較しちゃ駄目だよ、可哀想だし」
阿倍野がほ、と小さく溜め息をついた。
「早まっちゃったなあって……いろいろと」
別れちゃおうかなあ。
子どもの迎えはどうなったんだと突っ込みたいところだが、見上げた相手の視線の先に誰が映っているのかは想像がつく。存在希薄の幼い夫ではなく、きっと。
「いろいろ、あるでしょう?」
そっと囁くとびくりと体を揺らせて振り向いた。
「仕事がらみもあるからね」
「……あの」
まさか知ってるんですか、とそこはさすがに応じなかったが、うろたえた顔をして傘を広げ始めた。
「大丈夫だから。話さないよ」
素知らぬ顔で並んで空を見上げてみせる。
「誰だっていろんなことがあるものだし」
「……最初は、そんなつもりじゃなくて」
「うん」
「りほに少しいい服を買ってやれればなあって」
「うん」
「……でも」
ぱんっ、と阿倍野は傘を広げた。
「もういい加減にしなくちゃいけませんね」
広げた傘で顔は見えない。
「そうだね」
ちゃんと話せばわかってくれるんじゃないかな。
「子どもも大きくなってくるし、とか」
「そう、ですよね」
「うん」
おかしな話してすみません、と阿倍野は慌てたように雨の中へ出て、少しためらった。
「あの」
「うん?」
「私、頑張りますから」
これからも一緒にお仕事させて頂けたら嬉しいです。
会社の入り口で栗色の髪を揺らした後ろ姿が空を見上げて地団駄を踏んでいる。
「どうして今日降るかなあ」
「どうしたの?」
「あ…っ」
さりげなく近寄って声をかけてみると、相手はぎくりとした顔で振り返った。
「困りごとかい?」
「あ、いえ、その」
経理の阿倍野淳子はこの間正式採用されたばかりだ。もっともそれまで高卒から2年、アルバイトとして入っていたから全くの新人でもない。
「急に雨が降ってきて」
りほが保育園で熱を出したって連絡があったんです。
「りほちゃん?」
「昔っから弱くてぇ」
阿倍野がちらっと甘えた目になる。
「不安になると熱を出すんですけどぉ」
「何か心配事があるのかな」
微笑むと、阿倍野は視線を揺らせた。
「パパがまたバイト辞めちゃって」
「ああ…」
阿倍野は同級生の男とできちゃった婚で家庭を持っている。経理に移動して2年、結果的にそこに居着いて、そのあたりの事情はかなり呑み込んできた、阿倍野が課長の緑川とそれなりの関係を持っていることも。
できちゃった婚の『パパ』は阿倍野と同年齢、男としては遊びたい盛りだ。打ち込める仕事も見つからないままに持ってしまった家庭は重荷になる一方で、家に帰ってこないことも増えたと聞いた。
お互いに予定外だった妊娠は、淳子にとっては意外に良かったらしく、一人娘のりほを可愛がっていて、最近は緑川とも疎遠になり、ついでに頼りがいも資本力もない『パパ』もあっさり眼中になくなってしまったらしい。
そのターゲットがどこへ向かってきているかと言えば。
「大変だね、いろいろと」
「はい」
しおらしく項垂れてみせる瞳が何を浮かべているのか、十分わかっている。
「はい、傘」
にっこり笑って差し出すと、男物の折りたたみを嬉しそうに受け取った。
「すみません、いつも」
あれこれ気遣ってもらって。
「うんと大人だなあって感じます」
「7歳も違えば、多少はね。彼と比較しちゃ駄目だよ、可哀想だし」
阿倍野がほ、と小さく溜め息をついた。
「早まっちゃったなあって……いろいろと」
別れちゃおうかなあ。
子どもの迎えはどうなったんだと突っ込みたいところだが、見上げた相手の視線の先に誰が映っているのかは想像がつく。存在希薄の幼い夫ではなく、きっと。
「いろいろ、あるでしょう?」
そっと囁くとびくりと体を揺らせて振り向いた。
「仕事がらみもあるからね」
「……あの」
まさか知ってるんですか、とそこはさすがに応じなかったが、うろたえた顔をして傘を広げ始めた。
「大丈夫だから。話さないよ」
素知らぬ顔で並んで空を見上げてみせる。
「誰だっていろんなことがあるものだし」
「……最初は、そんなつもりじゃなくて」
「うん」
「りほに少しいい服を買ってやれればなあって」
「うん」
「……でも」
ぱんっ、と阿倍野は傘を広げた。
「もういい加減にしなくちゃいけませんね」
広げた傘で顔は見えない。
「そうだね」
ちゃんと話せばわかってくれるんじゃないかな。
「子どもも大きくなってくるし、とか」
「そう、ですよね」
「うん」
おかしな話してすみません、と阿倍野は慌てたように雨の中へ出て、少しためらった。
「あの」
「うん?」
「私、頑張りますから」
これからも一緒にお仕事させて頂けたら嬉しいです。
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