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『その男』(7)
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神や超常現象などは信じていない。けれど、よくない符号というのは気になる。先天的に備わった勘というべきか。それで今まで危ない橋を切り抜けてきた。
大輔の始末と飯島の始末。どこでどうする。
考えながら大学を出てゆっくり裏手にある土手の方へ歩いていく。
過ったのは孝。
あれもまた、いずれ不要な駒になる。うまく重ね合わせて噛み合わせ、パズルのように搦めて始末するか。
昼を過ぎて少ししかたっていないのに、日差しが急に弱々しくなってきたように感じるのは、この土手の上に広がる開けた空のせいか。広範囲すぎて、天の光は届ききらない、そんな感じのする脆い晴天。
「ふ」
臆病になっている、と気づいて苦笑した。
何を警戒しているのだろう。誰が気づいているというのだろう。誰も知らない、誰にも追えない、何の痕跡も残してきていない。
たとえ大輔が、飯島が、力の限り無実を訴えようと、清廉潔白ではないやつらのことばには真実の強さが欠ける。有沢がひっかかったのも、その後ろめたさを嗅ぎ付けたんだろう。
証拠はない。もし自分が記憶を失ってしまえば、それこそ事件そのものさえどこにも残らない。
後ろめたさなど感じない。人非人? いや、犯罪だと認識していないと言った方がいいんだろう。手は汚していない。思考も汚していない。欲望に操られてもいない。
「ちがう!」
鋭い叫びが響いて、思わず足下を見た。
土手のやや下に小さな男の子が座って、必死に画用紙に色を塗っていた。
「ちがう!」
叫んで切り取り、次の紙に塗りたくる水色、青、紺、緑、灰色、黒。
「ちがうちがう!」
悔しげに吐き捨てるその横には、目を射るような紅とオレンジが入り交じった色が塗られた画用紙がびりびりに引き裂かれて落ちている。
その引き裂かれた画用紙に目を奪われた。
「あかだ!」
「!」
子供が叫んで一瞬、ほんの一瞬、ぞっとした。
その動きに気づいたように、子供が振り返る。
黒い瞳、猛々しく怒りを帯びて、人を貫く炎の視線。
その目がいきなり見開かれる。
「あかだ」
「……」
何を、見ている。
「あかだ!」
いきなり塗り出した色は血の色を思わせる深紅、それが画面一杯を満たしていくのに、初めて血の気が引くのを感じた。
その色を知っている。
体の中にある色だ、妹の頭の下に、押し倒された女の股間に、心の底に溢れ返りむせ返るほどの濃厚な赤。
「そらは、あかい!」
「っ!」
そのとき、どうしてそんな行動を取ったのか。
土手を駆け下り、その手から奪った画用紙を引き裂いた。
「空は、青いじゃないか」
「…」
泣きもせずに見上げてくる漆黒の瞳の糾弾に繰り返す。
「見ろ、空は青いんだ」
「あかい」
たじろぎもしない目で相手は繰り返し、ぐい、と天空を指差した。
「そらは、あかい!」
「っ」
その指の示す先を見上げ、息を呑む。
真っ赤な空。
妹の屍体から溢れた血が土下座した頭に被って、悲鳴を上げて見上げた空そのままに、赤い空。
瞬きしてすぐに幻覚だとわかる、空はどこまでも澄み渡る青、白く刷毛で描いた雲が軽く淡い色彩を広げて、無邪気に甘く。
「………赤くなんかないよ」
深呼吸して子供を見下ろした。
「空は赤くなんかない」
何を怯えている。
「間違ってる」
見えるものをちゃんと描け。
ぐ、と唇を噛みしめた相手が、両手のこぶしを握ってくるりと背中を向け、ぐいと空を見上げる。まるで、そこに自分の描いた色を見つけ出そうとするように。
「諦めろ」
いつまでたっても、そんな色なんて見えやしない。
「主客転倒って言うんだ、それを」
見たいものを見るんじゃなくて、見えてるものを認めろ。
応えがないのに苦笑して歩き出す。大人げなかったと思うが、どうも変わった子のようだし、周囲がまともに彼の言うことを取り上げるとは思えない。へたに関わらないほうがいい。
そうだ。
人は見えてるものしか認識しない。
見えないものを追ったりはしない。
勘には証拠がない。
絶対の安全圏。
立ち去る寸前、ふいに強い風が背後から吹き寄せてきて、小さな呟きを運んできた。
「みえてるから、かいてる」
大輔の始末と飯島の始末。どこでどうする。
考えながら大学を出てゆっくり裏手にある土手の方へ歩いていく。
過ったのは孝。
あれもまた、いずれ不要な駒になる。うまく重ね合わせて噛み合わせ、パズルのように搦めて始末するか。
昼を過ぎて少ししかたっていないのに、日差しが急に弱々しくなってきたように感じるのは、この土手の上に広がる開けた空のせいか。広範囲すぎて、天の光は届ききらない、そんな感じのする脆い晴天。
「ふ」
臆病になっている、と気づいて苦笑した。
何を警戒しているのだろう。誰が気づいているというのだろう。誰も知らない、誰にも追えない、何の痕跡も残してきていない。
たとえ大輔が、飯島が、力の限り無実を訴えようと、清廉潔白ではないやつらのことばには真実の強さが欠ける。有沢がひっかかったのも、その後ろめたさを嗅ぎ付けたんだろう。
証拠はない。もし自分が記憶を失ってしまえば、それこそ事件そのものさえどこにも残らない。
後ろめたさなど感じない。人非人? いや、犯罪だと認識していないと言った方がいいんだろう。手は汚していない。思考も汚していない。欲望に操られてもいない。
「ちがう!」
鋭い叫びが響いて、思わず足下を見た。
土手のやや下に小さな男の子が座って、必死に画用紙に色を塗っていた。
「ちがう!」
叫んで切り取り、次の紙に塗りたくる水色、青、紺、緑、灰色、黒。
「ちがうちがう!」
悔しげに吐き捨てるその横には、目を射るような紅とオレンジが入り交じった色が塗られた画用紙がびりびりに引き裂かれて落ちている。
その引き裂かれた画用紙に目を奪われた。
「あかだ!」
「!」
子供が叫んで一瞬、ほんの一瞬、ぞっとした。
その動きに気づいたように、子供が振り返る。
黒い瞳、猛々しく怒りを帯びて、人を貫く炎の視線。
その目がいきなり見開かれる。
「あかだ」
「……」
何を、見ている。
「あかだ!」
いきなり塗り出した色は血の色を思わせる深紅、それが画面一杯を満たしていくのに、初めて血の気が引くのを感じた。
その色を知っている。
体の中にある色だ、妹の頭の下に、押し倒された女の股間に、心の底に溢れ返りむせ返るほどの濃厚な赤。
「そらは、あかい!」
「っ!」
そのとき、どうしてそんな行動を取ったのか。
土手を駆け下り、その手から奪った画用紙を引き裂いた。
「空は、青いじゃないか」
「…」
泣きもせずに見上げてくる漆黒の瞳の糾弾に繰り返す。
「見ろ、空は青いんだ」
「あかい」
たじろぎもしない目で相手は繰り返し、ぐい、と天空を指差した。
「そらは、あかい!」
「っ」
その指の示す先を見上げ、息を呑む。
真っ赤な空。
妹の屍体から溢れた血が土下座した頭に被って、悲鳴を上げて見上げた空そのままに、赤い空。
瞬きしてすぐに幻覚だとわかる、空はどこまでも澄み渡る青、白く刷毛で描いた雲が軽く淡い色彩を広げて、無邪気に甘く。
「………赤くなんかないよ」
深呼吸して子供を見下ろした。
「空は赤くなんかない」
何を怯えている。
「間違ってる」
見えるものをちゃんと描け。
ぐ、と唇を噛みしめた相手が、両手のこぶしを握ってくるりと背中を向け、ぐいと空を見上げる。まるで、そこに自分の描いた色を見つけ出そうとするように。
「諦めろ」
いつまでたっても、そんな色なんて見えやしない。
「主客転倒って言うんだ、それを」
見たいものを見るんじゃなくて、見えてるものを認めろ。
応えがないのに苦笑して歩き出す。大人げなかったと思うが、どうも変わった子のようだし、周囲がまともに彼の言うことを取り上げるとは思えない。へたに関わらないほうがいい。
そうだ。
人は見えてるものしか認識しない。
見えないものを追ったりはしない。
勘には証拠がない。
絶対の安全圏。
立ち去る寸前、ふいに強い風が背後から吹き寄せてきて、小さな呟きを運んできた。
「みえてるから、かいてる」
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