『ドリーム・ウォーカー』

segakiyui

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12.グラン・ブルー(3)

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 あれは図形じゃなかった。
 黒い服を着て、胸にそれぞれの役割を描いた模様を光らせた、不気味な人形のような家族の姿だった。
 母さんの顔を張りつけた人形は赤い〇を胸に描いている。父さんは青い□、都おばあちゃんは黄色の△だ。それらが家族の顔をつけた首をきょときょとと振りながら、僕を追い詰め走ってくる。
 海底のような廊下で、僕は吐き気をこらえて目を閉じた。
 あれは夢、ただの夢。けれど、果てしなく繰り返される夢。
 では、この世界は?
 僕のこの奇妙な『俺の記憶』は?
 学者や医者なら、レム睡眠だの、意識の多層構造だの、好き勝手に説明をしてわかったつもりにさせてくれるだろう。
 けれど、僕にとってリアルなのは、たった一つの気持ちだけ。
 僕は同じことを繰り返している。そして、何度も春日を追い詰め殺してしまう。春日は何度も殺される。なのに春日はこういうんだ。
 一度も見捨てたことなどない、と。
 きりりりり。
 胸の奥底で、体の芯で、命の中で一番敏感な部分に鋭いものが差し込まれている。
 このままじゃ、きっとどこかでまた、僕は春日を殺すだろう。怖さのために。朗と同じように、怖くてたまらなくて。何に怯えているのかもわからないくせに。
 そしていつか、この痛みも恐怖も忘れ去って、夢で追いかけてきた家族のように、役割だけを演じ続ける抜け殻になる。
 何のリアルもない、形しかない、ただの物体に。
 どうすればいい。どうすれば、この見えない鎖を断ち切れる。
「夢」
 思いついた。
 春日は夢は現実と同じだと言った。ならば、夢を変えることで、現実を変える何かが手に入らないだろうか。
 けれど、あの夢は苦しくてつらい。一度試して壊れそうになったのを、僕はまだ忘れていない。今度失敗したら、僕はもうもたないかもしれない。
 あのとき側にいてくれた実はここにいない。現実世界の〇△□が、その役割どおりに僕を追い詰め支配しようとしている。そして、僕は死にかけている春日に何もできないで、闇のような空間に春日の血を握って座っている。
 どちらにせよ、もうどこへも行けない。
 僕は目を閉じ、夢をゆっくり丁寧に思い出し始めた。
 僕は闇の中を走っている。〇△□も走っている。追いかけっこは始まっている。
 ぱあん、ぱあん。花火が上がる。運動会だ。
 一番は誰だ。えへらえへらと〇△□が笑っている。どこまでいっても終わらないレース。
 でも、終わらせてやる。今日、今このとき、終わらせてやる。
 僕は立ち止まる。胸をきつくつかむ。
 春日の血。守り札だ。
 来い。
 僕を食うなり殺すなり、できるもんならやってみろ。
 〇△□が追いついて来た。えへらえへらえへら。追いついて来ても速度を緩めることがなかったので、とうとう僕にぶつかった。
 その瞬間、視界に白く、光が弾けた。

 小学校の運動会の日だった。
 花火が上がり、天気は快晴。けれど、僕は、前日の天気予報で雨の可能性も聞いていた。
 傘を持っていきたいんだけど。
 そう母さんに言った。
 こんなに晴れてるなら大丈夫よ。
 でも、天気予報は雨だって言ってた。
 僕の反論に母さんはいらだった。
 天気予報は外れるものよ。それに、せっかく、おばあちゃんが傘を洗ってくれたのよ。
 うん、だから?
 今日、いきなり汚すなんて。砂まみれになるじゃない。
 かな子さん、あたしのせいにしないでおくれよ。
 都おばあちゃんが割って入る。
 でも、お義母さん、汚し続けるのは困る、あんたのしつけがなってないっておっしゃってたじゃありませんか。
 まあ、あたしが悪いってのかい?
 僕はこっそり二人の間から抜け出た。
 それでもどうにも心配だったから、父さんの黒いこうもり傘を持って出掛けた。
 運動会はうまくいった。けれど終わりごろには天気が崩れて雨が降りだし、僕はうれしくなって黒いこうもり傘を広げた。帰る仲間をいれてやって、皆に喜ばれて、自分が正しかったと得意だった。
 家へ帰ると騒ぎが持ち上がっていた。
 持っていった傘は、前日から泊まりに来ていたおじさんのもので、それも思い入れのある大事なものだった。
 人の物を黙って持って行くなんてどういう子なんだね。
 おじさんは唇を曲げて父さんを睨んだ。
 こいつはできそこないでして。父さんは平謝りした。
 しつけが足りませんで。都おばあちゃんも頭を下げた。
 そんなことをしていたなんて気づきませんでした、申し訳ありません。母さんがまとめて、おじさんは不機嫌そうに帰って行った。
 おじさんが帰った後、父さんは母さんを、母さんは都おばあちゃんを、都おばあちゃんはおじさんの傘を皆のものと一緒につっこんだ父さんを責めた。
 おじさんの前では、みんな自分も悪かったと謝ったのに、言い始めるとぐるぐる回り出した苛立ちは、結局すべて一つにまとまった。
 和樹が悪い、何もかも。和樹さえ、あんなことをしなけりゃよかったんだ。
 オレが恥をかいたのはおまえのせいだと父さんは言った。
 人の好意を感謝しない、自分勝手な子だから、あたしの努力が反故にされたと都おばあちゃん。
 そんなふうに育てた覚えはないのにねえ、と母さん。
 僕は混乱し、わけがわからなくなった。
 僕はおじさんの傘が入っているとは知らなかった。それが大事な物だとも知らされていなかった。雨が降りそうなのに、傘を持って行くなと言われた理由もわからなかった。
 僕は尋ねた。
 何がだめだったの?
 僕は、雨に濡れた方がよかったってこと?
 三人の大人はいきなり怒ったりわめいたり泣いたりした。
 それは、僕を怖がらせた。
 人がそんなふうにわけのわからないことで爆発するなんて思っていなかった。
 気をつけなきゃいけないんだ、と思った。いつ何が起こるか、わかんないんだ、と。自分一人で何かすると、とんでもないことになってしまうんだ、と。

 目を開けた。
 そのとたん、涙がこぼれた。
 小学生のころの僕の戸惑いと恐怖がわかった。
 〇△□が果てしなく追いかけてくる、その意味が、初めてわかった。
 そんなことはまずいのよ、と〇が言う。
 わかってない、わからないのさ、と△が言う。
 決められたコースだけ走るんだ、と□が言う。
 そのルールを破ると世界は爆発するんだと、僕はずっと思っていた。それは刷り込まれたものだったのに。
 苦くてしょっぱい涙だった。
 もっと早く気づいていたら。もっと早くこれがわかっていたら。春日をこんな目に合わせることはなかっただろう。
 『手術中』の灯が消えた。
 僕は立ち上がった。扉が大きく開かれて、いろいろな器具をつけたままの春日が、ベッドに寝かされたまま運ばれてくる。
 そのすぐ近くに、警察から戻ってきたらしい実と道斗さんがいた。
 二人を従えるように、春日のベッドが前を通る。
 緑の帽子を被った白い顔。閉じたまぶたは青かったが、呼吸は静かで穏やかだった。その穏やかさに胸がつらくて涙が出た。
「何とか、もったよ」
 実が側にきて教えてくれた。
 道斗さんは、立ち上がってあれこれ言い始めた僕の家族をあしらってくれている。
「次はおまえだって」
 実が顎をしゃくると、廊下の向こうに背広の上着を腕に掛けた二人の男が立っているのがわかった。事情を聞きたいといっていた警察だった。
「一緒に行こうか?」
 実が心配そうに聞いてくれる。
「ううん」
 僕は二人を見据えたまま、首を振った。
「春日、みてやって」
「わかった」
 病室へ運ばれる春日を少し見送って、僕は向きを変えた。
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