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12.グラン・ブルー(2)
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朗を殴りつけた。
ナイフが飛んで陽をはねながらくるくる回って後ろへ消えた。こぶしに痛みが走り抜ける。吹っ飛ぶ朗の顔にも朱が散る。
その朱色が、僕の右こぶしからの血だと気づいたのはもっと後だ。
朗は後ろに倒れたまま、起きようともせず、ぼんやりと空を見上げている。
「春日! 春日!」
腹を抱えて倒れている春日に駆け寄り、のしかかるようにのぞき込んで、声の限り名前を呼ぶと、真っ青な顔に薄く唇が開いた。
「…すまない…」
消え入りそうな、ささやきが応じる。
「すまない…? 何が…」
尋ねかけて再び頭の中に『記憶』が過った。
そうだ、あのときも。
山門の僧を守ろうとしたが、俺は間に合わなかった。せめて盾にでもなろうとし、寸前、僧に腕をつかまれ引き寄せられた。旋回する渦に巻き込まれた気がして我を失った一瞬、身代わりに僧が刺されていた。僧の傷は深かった。その苦痛に耐えて、僧は俺を突き飛ばしたのだ、海へと向けて。
そうして。
そうして、俺は生き残った。よしのも僧も、生きている意味さえ見失って。
「だめだ、春日!」
春日の体の下に血溜まりが広がる。公園の土が吸い込むより早く流れる紅の色。
「だめだ!!」
肩を揺さぶろうとして、その体が異常なほどに冷えてきているのにぎょっとした。胸の中に今までとは比べものにならない暗闇があふれてくる。
突然僕は気がついた。春日が避けようとしていたのはこれだったんだ。
一度も見捨てたことなどないよ。
春日の声がよみがえった。
「ふ…う…」
春日がまつげを震わせてかすれた吐息を漏らした。パラ、と乱れた髪の毛が閉じたまぶたに、青い顔に流れ落ちる。うっとうしそうな状態にも春日は反応しない。食いしばっていた口が、ふわ、と頼りなく開いてぞっとした。
「春日!」
両肩をつかむ、春日は目を開けない。引き寄せる。顔を近づける。唇は白く、動かない。息の動きが感じられない。両手はだらりと落ちて血溜まりに浸かった。
「春日!!」
海が迫る、闇が迫る。僕の意識が飲み込まれていく。
それを引き留めようと、僕は春日を抱き締めた。
春日の中の封じられた記憶をこの手に取り戻したかった。
どうして同じことしか繰り返せない。
どうして同じ苦痛を味わうしかない。
春日が殺される。
何度も、何度も。
俺のせいで。
僕のせいで。
どうすればよかったんだ?
「春日ああっ!!」
身動きしない春日の耳元で叫ぶ、喉の奥に血の味がする。
遠くからサイレンの音が響いてきた。
病院の廊下は深い海の底のように暗くてひんやりしていた。
『手術中』の灯はまだ消えない。
もう三時間、春日の姿は扉の向こうに呑み込まれたままだ。
頼むから。
でも、誰に?
頼めない。引き起こしたのは僕だ。
「和樹、その服、着替えなさい」
左に座っていた母さんが命じた。
「すごい臭いだし…」
僕は制服の胸元を握り締めている。手の中に、ごわごわした塊がある。
春日の血だ。
「ね、着替えなさい、ここ病院よ、皆さんのご迷惑にもなるし」
僕はいよいよきつく服を握り締めた。
「着替えない」
答えてまっすぐ前を向いた。
「どうして? なぜ着替えないの」
「春日のだから」
僕は今この手の中にきっと、春日の命を握っている。手放したら最後、あの扉の向こうで春日は黙って遠くへ行ってしまうだろう。
今度こそ、二度と会えないほど遠くに。
「何言ってるのよ?」
「わかんないならいいよ」
突き放す。
「話さなくちゃ、わからないでしょ」
「話してもわからない」
「話し方が悪いのよ、わかるように話さなきゃ」
「着替えない」
僕は繰り返した。
「和樹、辛いんだよね、わかるよ」
都おばあちゃんが言った。
「友達のことだもの、心配なんだよ、今は無理だよ、かな子さん」
どこか得意そうにうなずいて続ける。
「人の気持ちってのは、そういうものさ、そういうところをわからないと」
「おばあちゃん」
僕は前を向いたまま、胸のこぶしを固く握った。
「帰ってていいよ」
都おばあちゃんが息を呑んで凍りついた。
「心配してくれているのに、なんて言い方だ」
警察からの連絡で会社から来た父さんは、何本目かのたばこを潰して捨てた。
僕は唇を引き締めた。
「和樹」
僕は父さんを見返した。いらいらと落ち着かなげに体を揺すっている中年男。
死にかけた春日の体に比べれば、怖くも何ともなかった。
「何もしてくれないんなら、黙ってろよ」
僕は静かに答えた。相手が目を逸らすまで見てから、目を前に戻した。
夢がよみがえってきている。
〇△□の夢。
ナイフが飛んで陽をはねながらくるくる回って後ろへ消えた。こぶしに痛みが走り抜ける。吹っ飛ぶ朗の顔にも朱が散る。
その朱色が、僕の右こぶしからの血だと気づいたのはもっと後だ。
朗は後ろに倒れたまま、起きようともせず、ぼんやりと空を見上げている。
「春日! 春日!」
腹を抱えて倒れている春日に駆け寄り、のしかかるようにのぞき込んで、声の限り名前を呼ぶと、真っ青な顔に薄く唇が開いた。
「…すまない…」
消え入りそうな、ささやきが応じる。
「すまない…? 何が…」
尋ねかけて再び頭の中に『記憶』が過った。
そうだ、あのときも。
山門の僧を守ろうとしたが、俺は間に合わなかった。せめて盾にでもなろうとし、寸前、僧に腕をつかまれ引き寄せられた。旋回する渦に巻き込まれた気がして我を失った一瞬、身代わりに僧が刺されていた。僧の傷は深かった。その苦痛に耐えて、僧は俺を突き飛ばしたのだ、海へと向けて。
そうして。
そうして、俺は生き残った。よしのも僧も、生きている意味さえ見失って。
「だめだ、春日!」
春日の体の下に血溜まりが広がる。公園の土が吸い込むより早く流れる紅の色。
「だめだ!!」
肩を揺さぶろうとして、その体が異常なほどに冷えてきているのにぎょっとした。胸の中に今までとは比べものにならない暗闇があふれてくる。
突然僕は気がついた。春日が避けようとしていたのはこれだったんだ。
一度も見捨てたことなどないよ。
春日の声がよみがえった。
「ふ…う…」
春日がまつげを震わせてかすれた吐息を漏らした。パラ、と乱れた髪の毛が閉じたまぶたに、青い顔に流れ落ちる。うっとうしそうな状態にも春日は反応しない。食いしばっていた口が、ふわ、と頼りなく開いてぞっとした。
「春日!」
両肩をつかむ、春日は目を開けない。引き寄せる。顔を近づける。唇は白く、動かない。息の動きが感じられない。両手はだらりと落ちて血溜まりに浸かった。
「春日!!」
海が迫る、闇が迫る。僕の意識が飲み込まれていく。
それを引き留めようと、僕は春日を抱き締めた。
春日の中の封じられた記憶をこの手に取り戻したかった。
どうして同じことしか繰り返せない。
どうして同じ苦痛を味わうしかない。
春日が殺される。
何度も、何度も。
俺のせいで。
僕のせいで。
どうすればよかったんだ?
「春日ああっ!!」
身動きしない春日の耳元で叫ぶ、喉の奥に血の味がする。
遠くからサイレンの音が響いてきた。
病院の廊下は深い海の底のように暗くてひんやりしていた。
『手術中』の灯はまだ消えない。
もう三時間、春日の姿は扉の向こうに呑み込まれたままだ。
頼むから。
でも、誰に?
頼めない。引き起こしたのは僕だ。
「和樹、その服、着替えなさい」
左に座っていた母さんが命じた。
「すごい臭いだし…」
僕は制服の胸元を握り締めている。手の中に、ごわごわした塊がある。
春日の血だ。
「ね、着替えなさい、ここ病院よ、皆さんのご迷惑にもなるし」
僕はいよいよきつく服を握り締めた。
「着替えない」
答えてまっすぐ前を向いた。
「どうして? なぜ着替えないの」
「春日のだから」
僕は今この手の中にきっと、春日の命を握っている。手放したら最後、あの扉の向こうで春日は黙って遠くへ行ってしまうだろう。
今度こそ、二度と会えないほど遠くに。
「何言ってるのよ?」
「わかんないならいいよ」
突き放す。
「話さなくちゃ、わからないでしょ」
「話してもわからない」
「話し方が悪いのよ、わかるように話さなきゃ」
「着替えない」
僕は繰り返した。
「和樹、辛いんだよね、わかるよ」
都おばあちゃんが言った。
「友達のことだもの、心配なんだよ、今は無理だよ、かな子さん」
どこか得意そうにうなずいて続ける。
「人の気持ちってのは、そういうものさ、そういうところをわからないと」
「おばあちゃん」
僕は前を向いたまま、胸のこぶしを固く握った。
「帰ってていいよ」
都おばあちゃんが息を呑んで凍りついた。
「心配してくれているのに、なんて言い方だ」
警察からの連絡で会社から来た父さんは、何本目かのたばこを潰して捨てた。
僕は唇を引き締めた。
「和樹」
僕は父さんを見返した。いらいらと落ち着かなげに体を揺すっている中年男。
死にかけた春日の体に比べれば、怖くも何ともなかった。
「何もしてくれないんなら、黙ってろよ」
僕は静かに答えた。相手が目を逸らすまで見てから、目を前に戻した。
夢がよみがえってきている。
〇△□の夢。
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