『ドリーム・ウォーカー』

segakiyui

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8.パンドラの箱(2)

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 逃げられない、わかってる、逃げられないんだ、最後だ、最後。
 涙がぼろぼろこぼれる目を閉じると、まぶたの裏に青い海が広がった。
 海に落ちると、俺は確実に死ぬ。だって、俺は泳げないから。右手も痛む。追っ手に切られたのだ。
 追っ手?
 それとも、朗?
 ああ、もう何がなんだかわからない。
 目の前の海に波が立つ。
 迫る、迫る。
 息を吸う、少しでも生きていたくて。
 でも、怖くて。
 あまりにも、怖くて。
 僕の口がゆがんだ。次の瞬間、
「きゃあああああっ!!」
 突き刺すような悲鳴が僕の口を衝いた。胸にためた空気をみるみる使い切って、叫びながら目を開いた。
 朗が目を剥き出し、真っ白な顔で硬直していた。
 ほんの一瞬だったに違いない。
 ほんの一瞬の、その中のまたほんの一瞬。
 僕は跳ね上がって朗に向かって走りだした。大きく口を開け、空気が続く限りに悲鳴を上げながら。
 朗が呆けている。その顔が見る見る近づいたかと思うと、一瞬に流れて背後へ去る。
 朗より、側の二人の方が早く反応した。
「うらあっ!」
「待てっ!」
 すぐに背中を殴られそうな気配が迫った。と、
「火事だーっ!!」
 叫び続けてかすれ始めた僕の声に、いきなり別の声が重なった。
「火事だぞーっ!!」
「わ、ああああああっ!」
 僕はその声に助けられるように叫び直した。
 お守りのように。
「わあっ! わあっ! わあっ!」
 昔話にある、山姥に小僧がお札を投げるように、繰り返して立て続けに叫んだ。がくがくする足がからんで転びそうになりながら、傷つけられた右手をかたく胸に抱いて、叫び続け走り続けた。
 背後の気配が消えた気がした。目の前の人間が驚いた顔で避ける。走って走って、走って走って。激しく誰かにぶつかって、ついに転がった。てっきり先回りされたと思ってなおも叫ぼうとした僕の口を、手が塞ぐ。
「妹尾!」
「うぐっうっ」
「妹尾!! 落ち着けって!」
 入り乱れていた視界に、ふいにぽかっと青空が見えた。その空を背景に僕をのぞき込む、コットンハットの陰のどこかあいまいな笑顔。
「実…」
「うん、大丈夫だよ」
 実はそっと笑って、片目をつぶって見せた。
「あいつら、逃げてった」

 近くのコンビニで、実は自分と僕の分のジュースとサンドイッチを買った。
 追っ手を避けて、公園の隅に隠れるように座り込んで、二人で食べる。
「お金、今度返すよ」
「うん」
 実は、やっぱりコンビニで買ったバンドエイドと包帯で、器用に右手の傷の手当をしてくれた。さすがに血は止まっているけど、水道で洗った傷はぐちゃぐちゃでひどく痛む。
「家に帰ったら、大丈夫と思っても消毒して、できたら医者に診てもらいな。そういう傷って、長引くとつらいから」
 実は淡々と指示した。
「慣れてるな」
「ずっとやってたから」
 その返事が僕の頭におさまるまでに、少し時間がかかってしまった。
「ああ…そう、なんだ」
 僕は口ごもった。
「そうだ。大人はやってくんないからな」
 実はあっさり言って、バンドエイドをポケットに突っ込んだ。
 僕達が足を投げ出してへたり込んでいる向こうを、どやどやと明るい色のスーツを来たおばさん達が、ちらちらこちらを見ながら通り過ぎていく。そのうちの何人かは、何か言いたげな顔でにらみ、別の数人はこれみよがしに目を逸らせた。
 無気力でだらしない、十代の若者。
 そんなふうに分析され、体の構造だの心の在り方だのが検討され、社会の問題として取り上げるかのようにポーズが取られ、そしてなし崩しに消えていく、僕達。
 痛んでも、傷ついても、身動きできなくても、震えてても、それはすべて、僕達の責任だということで。
 僕が手の甲に傷をつけられ泣きわめくはめになったのは、朗についていったせいだということでおさまるように。
「ああいうときはさ、火事だって叫ぶといいんだ」
 実がぽつんと言った。
「え?」
「逃げられないときにはわめく。大声を出す。火事だって叫ぶ。そうした方が助かるチャンスが少しでも増える。外国ではそう教えてる」
 新しいサンドイッチのビニール包みを破りながら、実が続けた。
「じゃあ、さっきの…」
「うん、ボクが叫んだ」
 実はぱくん、とパンに噛みついた。
 見てたのか。なのに、助けてくれなかったのか。
 危うくそう言いかけて、僕は口をつぐんだ。
 僕だって、助けなかった。
 ずっと、実を助けなかったんだ。
「ごめんな」
 情けなさや腹立たしさや、朗の目の前で感じた怖さや何かが急にごっちゃになって、僕は泣き出しそうになった。食べているパンの味が、胸が苦しくてわからなくなった。
「ごめんな、怖かったんだ」
「うん」
 実は、今のことではなくて、ずうっと前、今まで全部を僕が謝ったのに気づいているようにうなずいて、ジュースを飲み干した。
「わかってる」
 片手を上げてスナップをきかせ、空き缶を金網のゴミかごに向けて投げつける。缶はきれいな弧を描いて、がしゃん、と入った。
「できないことは、できない」
 実は肩をすくめて、僕を見た。
「だから、ボクは叫ぶんだ。火事だって。物陰から、隠れて。スーパーマンじゃないし」
 ちょっとことばを切ってから、
「でも、見つかって、バコバコにやられるかもしれないから、叫ぶときにはすごく緊張する。怖いよ」
 実は大きなため息をついた。
「けど、見捨てたら、ボクが死ぬことになる」
「死ぬ?」
「小学校のボク」
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