『緑満ちる宇宙』

segakiyui

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第9章 星渡るオリヅル(2)

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 ふいに、サヨコは、自分の体がファルプに抱えられるようにして空間に止まっているのに気づいた。
 幻覚が消えたわけではなく、いまだ周囲は暗い宇宙空間、モリやタカダの死体や、暗闇に潜む悪夢が形を成しているが、それと平行して、自分の体がファルプの手で、何かに固定されつつあるのがわかった。
 サヨコの目に光が戻ったのに気づいたのだろうか、ファルプはまじまじとサヨコを覗き込んだ。にこやかな無邪気な微笑を浮かべて、静かに話しかけてくる。
「さあ、サヨコ、昔話は終わりにしよう。カナンは君の始末と引き換えに、身柄を保証してくれるそうだよ。幸いここには、緊急用の小型機が残っている。地球まで飛ぶには十分だし、私は操作を知っている。お別れだね。君が有能で残念だ、サヨコ」
 サヨコは必死に瞬きをして幻覚を追い払った。
 両手はいつの間にか後ろ手に縛られている。そのまま、中央ホールの端、エレベーターの通る筒の隅にある、訓練用の小さな留め金に縛りつけられたのを悟った。
 ファルプの手には宇宙服用らしいヘルメットがある。のろのろと顔を動かして逃げようとするサヨコに、ファルプは容赦なくヘルメットを被せ、首の回りでテープをきつく締めて固定した。
(こうして殺されたんだ)
 サヨコは体を震わせた。
 モリは眠り込んでいたから手を縛る必要もなかったはずだ。タカダの場合は一時的に固定したかもしれない。どちらもそんなに時間はかからない。様子を見て、ヘルメットを外しておけばいいのだ。フィクサーはモリが空間に固定されていたから自分の吐いた二酸化炭素で窒息したのだと思わせるための小道具、それこそ、名前の示す通りに偽りの設定として使われたのだ。
 みるみる呼吸が苦しくなってくる、サヨコは喘いだ。
 窒息するかもしれないという恐怖が拍車をかけているとわかっていたが、『草』が切れかけて自制心が吹き飛んでしまっている意識がコントロールできない。心臓が不規則に打ち始め、時折誰かに握りしめられるような痛みで締めつけられて呼吸が止まる。
 ファルプはヘルメットの向こうで、にこにこと笑って手を振り、ゆっくり移動した。ほどなく限られた視界の端で、エレベーターのドアが開き、吸い込まれるように消えていく。
 1人残されたサヨコの耳に、次第に荒く激しくなってくる自分の呼吸音だけが響いている。
(もう、だめ、なのかな)
 加熱していく頭に、その熱を奪い去るように諦めがひたひたと満ちてくる。
 スライもアイラもサヨコがここに閉じ込められ、殺されかけているとは気づかないだろう。
 ファルプが逃げ出したのがわかってから、ようやくサヨコの捜索を始めるだろう。
 だが、そのときには、サヨコは、モリやタカダの殺し方の種明かしとして、この空間で物言わぬ塊になって浮いているはずだ。
(息苦しいのは『草』が切れたせいかしら。それとも、このヘルメットのせいかしら)
 朦朧とする頭の隅に、シゲウラ博士や両親の顔がよぎっていく。
(精一杯やったはずよね)
 サヨコは震えながら思った。
 スライの前では強がったが、それほどの覚悟はできていないだろうと思ってはいた。それがこんな形で出てくるとは思わなかった。
 こんなふうに、たった1人で死んでいくことが、その証明になるとは。
(どこかでやっぱり甘えていたのかな)
 モリの死を追いかけていって、どれほど危険が迫ろうとも、どれほど人々から忌まれようとも、最後には努力が報われ、理解が得られ、無事に生きて地球に帰れるのではないか、と思っていたのに。
 だが、今、現実は、サヨコに死が突きつけられている。
 死ぬことこそが求められている。
 残り少ない空気を吸い込みながら、冷えて震えている体から力が抜けていくのを実感した。
(ごめんなさい……シゲウラ博士……ごめんなさい……モリ……わたしは……結局、何の役にも立たなかった……)
 悔しさからだろうか、悲しさからだろうか、涙が視界を歪ませた。見えている世界も、どんどん暗く狭まっていく。目の前に、気を失うときのようなちらちらとした光が舞い始める。
 ところが、その光が異様にはっきりと大きくなっていくのに、サヨコは気づいた。
(幻覚?)
 光はやがてくっきりとした形を取る。
(エレベーターが開いたんだ!)
 サヨコは首をねじ曲げた。
 視界に、開いたドアから体を乗り出したスライの姿が見えた。
 偶然だろうか、スライが中央ホールに現れたのだ。
(ひょっとしたら…ああ、でも!)
 サヨコは期待し、続いて新しい絶望に襲われた。
 換気は止まっていない。ホール照明は暗く、サヨコのいる場所には届かない。
 スライがやってきたのは何のためかはわからないが、もし、サヨコを探しに来たとしても、換気が止まっていなければ異常を感じないままに他のところを探しに行くだろう。
 ファルプはそこまで計算していたに違いなかった。
 サヨコは縛られ身動きできない。壁を蹴って合図したくとも、手足にその力がないし、壁まで足は届かない。
 スライはゆっくりホール内を見回しているが、サヨコのいる辺りをためらいなく見過ごした。やはり、暗くて見えないのだ。
(何か1つ、何か少しでも、合図を送ることができれば……)
 焼けついてくる胸、酸素不足でがんがんと鳴っている頭も、サヨコの焦りを煽った。身悶えして考え続け、じれったさに揺すった手が服のポケットに触れる。
 じっとり湿った手に、かさりと乾いた感触があって、サヨコの意識を瞬間晴れさせた。
(『オリヅル』)
 アイラのくれた『オリヅル』がある。
 スライは今にも行ってしまいそうだ。
 サヨコはもがいて、自分のものではないように痺れている手を擦りつけながらポケットに入れた。ひりつき、ますます苦しくなる息を整え、指先で『オリヅル』を挟む。
 1度は外れた。
 2度目は摘めたが、今度は汗で濡れた手がポケットから出ない。
 スライが首を振り、エレベーターに戻ろうとする。
「スライ!」
 たまらず、サヨコは叫んだ。一気に酸素を使い尽くして、胸が裂かれるような気がした。
 聞こえるはずはない。ヘルメットの気密性は抜群だ。
 二度三度、身をよじりながらサヨコは呼んだ。
「スライ! スライ!」
 動いたのが功を奏した。
 手がポケットから抜けた。
 ちぎれ飛びそうな意識をかき集め、指先で『オリヅル』を広げる。
(どうか、お願い!)
 体をねじって、スライの方へ、最後の力で『オリヅル』を押し出し、叫んだ。
「スライ!!」

 スライはカージュのところから、駆け戻るようにサヨコの部屋を尋ねた。
 サヨコは不在だった。
 もしやと思って、モリと親しかった仲間をあたり、サヨコと似たような情報をようやく手に入れた。
 トグのところを最後に、サヨコの足取りが途切れている。
 不安が広がった。
 医務室に駆け込むと、常時待機しているはずのファルプの姿がなかった。奥に寝かされていたクルドが、弱い声でスライを呼び、ファルプがサヨコを連れ込んだこと、サヨコを気絶させて出て行ったことを告げた。
 クルドは薬のせいで動けなかったのだ。
(サヨコ!)
 スライの不安は恐怖に変わった。
 こんな昼間、人目につかない場所といえば、中央ホールしかない。
 できるかぎりの速さで中央ホールにたどりついたが、ホール内に人の気配はなかった。
「おかしいな」
 昨日の使用時の設定のまま、宇宙を模した空間に目をこらしてみたが、どこにも人影らしいものはないし、争った様子もない。明かりを点けることも考えたが、操作するには一度ホールから出なくてはならない。
 第一、モリやタカダのときと違って、今度は換気がされていた。
 万が一サヨコが囚われていたとしても、すぐに窒息することはない。一度ホールから出て、明かりを点けようとしたスライを、何かが引き止めた。
 サヨコは、モリやタカダの死に関して、何か言っていたはずだ。
(一晩かけて殺したのではない……何か別の方法で窒息させて……)
 そのことばが、ふいにスライの意識に引っ掛かった。
 もう1度、とホールの中を丹念に見回したスライの目に、奇妙なものが映った。
「何だ?」
 暗い宇宙を何か光るものが飛んでいる。
 とても小さな頼りなげなもの……ファイバーの光に輝きながら、星の海を渡ってくる。
 小さな、金色の『オリヅル』。
「サヨコ!」
 瞬時にスライは理解した。エレベーターの出口を蹴り、壁を跳ねるようにしながらホールの中を巡っていく。
「サヨコ!!」
 スライがほとんど意識を失っているサヨコを見つけたのは、数秒後、ひきむしるようにヘルメットを外すと涙で汚れて真っ青になったサヨコの顔が現れた。黒髪が死体のそれのようにうわあっとスライを広がり包む。
 一瞬スライの体を恐怖が走った。
 暴動のとき襲いかかられた黒髪の人間。無力なまま叩きのめされ、全てを失った瞬間の傷み。
「う……!」
「スラ……イ」
 悲鳴を上げてサヨコを放り出しそうになった瞬間、微かな声が耳に届いて瞬時に我に返った。
「サヨコ! サヨコ!!」
 顔を近づけて呼んだが、顔も唇も青く、胸が動いていない。
(呼吸が止まってる)
 縛られている体勢のままだったが、すぐに顔を両手で包み、鼻を押さえてサヨコの口に深く唇をあてて息を吹き込む。ゆっくりとサヨコの薄い胸が膨らみ、萎む。だが、反応しない。もう1回。まだだ。さらにもう1回。触れた首の血管にはわずかに拍動があった。消え失せないうちに何とか呼吸を回復させたい。
(サヨコ、サヨコ!)
 呼び掛ける、もういやだ、もう失うのは嫌だ、誰か誰か、俺に力を貸してくれ。
 繰り返すスライの頭の中で10歳のときに失って、とうとう取り戻せなかった人の笑顔が走り去っていく。
(サヨコ! サヨコ!!)
 助けたかったのだ、と激しい気持ちがスライの中に沸き起こった。
(俺はずっと助けたかった、俺自身の手で、俺自身の家族を)
 何より腹立たしく悔しく怒りの対象であったのは、無力であった自分自身。何もできずに破壊と崩壊をそのままに見ていたスライ自身だったのだ。
(耐えられなかった、あまりにも怒りが激しくて)
 もちろん、そうだ、10歳の子どもに、複雑な社会情勢に疲弊しねじ曲がってしまった人の心を扱う術も、嵐のような暴動をおさめる力もありはしない。そんなことは頭で何度もわかっていた。けれども、スライの心は怒りに震えたまま、どこへそれをぶつけるべきかもわからず、ただ時の流れに重い錨となって沈められ、表面上は消え失せていただけなのだ。
 だからこそ、『日系人』や『GN』などのキーワードであっさりと浮かび上がって水面を乱し、流れを妨げ荒れ狂う。岸を削り岩を侵食し、気づかないままより深く昏い淵となって澱み、いつしか自分でも扱いあぐねるほどの腐臭を放っていたのだ。
「くっ……ごほっ!」
「サヨコ!」
 繰り返す人工呼吸で自分もまた朦朧としてきつつあったスライの感覚が、ふいに掌の中で動いた顔に焦点が戻った。
「は……ふっ」
 はあはあと浅い呼吸を繰り返すサヨコの顔が次第に温もりを帯びてくるようだ。あとは急いで医務室に連れ込み、酸素吸入をさせなくてはならない。
(それより『草』は? 『草』の濃度は大丈夫なのか?)
 竦みそうになる体を奮い立たせて、震える指でサヨコのいましめを解きにかかる。回りをまとわりつき漂う髪ももう苦痛には感じない。
「待ってろよ、今、手を解いて……」
「スライ……?」
「ああ、遅くなってすまん、もっと早く来れば…………!」
 次の瞬間、スライはことばを失った。
 サヨコが自由になった両腕を広げた羽根を回すように、スライの首にしがみついてきたのだ。少し遅れた黒髪が甘い匂いでスライを包む。
「……りがとう……」
「え? 何……?」
「助けて……くれると思…てた……」
「サヨ……コ……」
 時が戻った。
 10歳のあの悲劇に重なりあうように、腕の中に抱えた温もりが確かにスライを呼び、スライに伝えた。
 ありがとう。
 助けてくれると、思っていたよ。
 死んだはずの家族、転がったモノと化していた家族の幻がホールの闇に微笑んでいるのが見える。
(助けた…………俺は、助けたんだ……)
 スライは滲んだ視界を閉じた。涙がまつげの先に次々と溜まり、ぎゅっとサヨコを抱き締めたせいで、サヨコの髪にするすると吸い寄せられ、光る玉となって点々と真珠のように散っていく。
(今度こそ、助けた)
 スライは嗚咽をこぼすまいときつく唇を噛んだ。
 そっと、サヨコの髪に唇を寄せると、自分の涙が冷たく苦みを帯びた塩味となって口に広がった。それは、遥か昔、海で家族と一緒に泳いだときに唇を浸した味だった。
 寄せる波に溺れかけた幼いスライを抱えあげた父親の腕、母親の笑顔。
 光が砕ける地球の浜辺の、なんと眩く美しかったこと。
 腕の中のサヨコの体の温もりを感じ取る。確かに脈打つその柔らかな体を強く深く抱き締める。記憶の中に打ち寄せる波と、サヨコの胸から響く鼓動は同じリズムで重なっている。
 その波はスライの奥深くに囁きかける。
 私達はお前の努力を、後悔を、哀しみを、いつだって同じぐらいに辛い思いで見つめてきた。
 もう、自由になりなさい。
 宇宙空間を模した暗いホールに浮かびながら、今光の海が蘇る。
「サヨコ……」
(今度こそ)
 闇で笑う家族に弱く微かに笑い返し、スライは体を捻って近くの壁を蹴った。サヨコを確実に助けるべく、急いでホールの出口に向かっていった。
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