『緑満ちる宇宙』

segakiyui

文字の大きさ
上 下
8 / 22

第4章 サヨコ・J・ミツカワ(3)

しおりを挟む
 こんこん。
 唐突に響いたノックに、サヨコは我に返った。ぎくりと体を震わせたせいで、アクリルケースから『草』がこぼれて床に散る。
「あ…!」
「サヨコ? どうした? 入るぞ、いいね?」
 あわててしゃがみこみ、『草』を集めにかかるサヨコの後ろで声がして、ドアが開いた。
「どうした?」
 クルドだ。急ぎ足に近づいてくる。
 とっさにどう言い繕ったものかわからなくなって、サヨコは振り返らずに、
「あ…あの……わたし…『草』をこぼして…」
「『草』を? それはまずい」
 クルドの声は一気に緊張した。すぐにサヨコの隣にしゃがみこみ、必死に床にこぼれた青い粒を追い始めた。
「きちんと見つけないと。1粒でも足りなかったら大変なことになるんだろう? あんたが苦しい思いをするんだからな」
 不安そうに呟きながら、懸命に探してくれる。その姿を奇跡に出くわしたような思いで、サヨコは呆然と見た。
(心配してくれている? 『CN』なのに? 自分は関係ないことなのに?)
「大丈夫か? 揃っているか?」
「あ、は、はい」
 尋ねられて我に返り、サヨコも慌てて『草』を集めた。十数分かけてようよう12個、何とか探し出し、サヨコは吐息をついて立ち上がった。
 丁寧にアクリルケースの蓋を閉めて鞄に片づけていると、同じように溜め息をついて立ち上がったクルドが、静かに尋ねてきた。
「今ごろ『草』を飲むのかい?」
「いいえ……もう今日の分は飲んでるんですけど……つい、きれいだな、って見ていたんです……誰か来るなんて思わなかったから驚いて…」
 立ち上がりながら考えた言い訳を口にして振り返ると、こちらをひたと見つめているクルドに気がついた。軽く腕を組んだ姿勢、納得しかねて警戒の表情を浮かべている。
(だめね、この人はごまかせない)
 サヨコはそっと笑った。
「ちょっと…ショックで……『GN』なのはわかっていたけど……これほど脆いとは思わなく…」
 ことばが途切れた。震える口元をとっさに押さえたのに、指に熱いものが流れてきて混乱する。こんなところでなぜ急に泣き出してしまったのかわからない。戸惑いながら、サヨコはクルドから目を逸らせて急いで背中を向けた。
「わかるよ」
 クルドは優しい声で応じた。
「『GN』だと知っているのと、そうだ、とわかるのは別のものだ」
 意外なことばに、目元を拭いながら振り返ったサヨコは、クルドが腕を解き、後ろ手にドアを閉めながら微笑むのを見た。
「スライを許してやってくれ。あいつは悪い人間じゃない…ただ、昔のことが…忘れられないんだ。…人はそういうものだが」
 わずかに首を傾げて目を瞬かせる。
「昔の…こと?」
 サヨコの脳裏にスライの暗い緑の目がよみがえった。
「そう…ずいぶん、昔のこと……あいつが10歳のときのことだ。今はもう、あいつには身内がいない」
 サヨコはびくっとした。揺れかけた心をクルドの話に集中することで抑える。
「だが、本当なら、両親と妹がいる。10歳のとき、あいつの住んでいた地方で暴動があって、家族も家もなくしたんだ。そのとき、襲ってきたのが、日本人を先頭とする集団、だったそうだ」
「日本人…」
 サヨコはことばを失った。
 スライの冷ややかな態度が、サヨコの何を責めていたのかがようやくわかった気がした。
 あの目は、サヨコが『GN』だからというだけではない、家族を奪った日本人という血を受け継いでいる、と責めていたのだ。
(でも、わたし、じゃないのに……わたしに流れている血をわたしが選んだわけじゃないのに)
 サヨコが衝撃を受け止め視線を戻すのを待っていたように、クルドは穏やかに言った。
「あんたのせいじゃないのはわかっている。けれども、理由なく人を憎む奴じゃないんだ」
(でも……わたしだって……)
 サヨコもまた、身内はいない。1人で……たった1人でこの世界にいる。誰にも守られず、誰にも庇われず、そしてまた、来たくなかったこの宇宙で、スライの激情に晒されている。
 けれど、全てを奪った影を背負ったものが否応なく自分の領域に入り込んでくる、その苦痛もまたサヨコにはわかる。
(でも……でも……)
 納得しかねているサヨコの気持ちを十分に読んだように、クルドは続けた。
「座ってもいいかね?」
「あ、はい、どうぞ」
 サヨコはソファベッドの端に座った。隣にクルドはどっしりと腰を下ろし、やや広げた両方の膝に肘をついた。その姿勢で指を組み、前方どこか遠くを見ながら、
「見てのとおり、俺は黒人、と呼ばれた人種の血を受け継いでいる。人類は宇宙へ出るようにはなったが、今でも、肌の色をとやかく言う人間はいる。長い間の偏見や差別、もちろん俺自身に加えられたものもある、それを忘れるわけじゃない。だが……それだけでは、何も進まない」
 深く重い声音だった。
「たとえ、世界中の人間が、俺と同じ肌の色になっても、たとえ、俺と、俺を差別する奴の立場が入れ替わっても、何も…解決したことにはならないんだ。人間が、人間を見ずに、相手の姿や環境や文化を口にする限り……俺はそう思っている」
 クルドは少しことばを切って、ちらり、とサヨコを見た。
「今ここにこうやって隣同士に座っていても、俺とあんたはお互いに独りぼっちだ」
 柔らかな視線がそっとサヨコの視線を受け止めた。
「俺が『CN』で、あんたが『GN』で居続けるなら。俺がクルドで、あんたがサヨコでないかぎりは」
 悲しそうに笑った。
「だから、俺はクルドでいたいし、あんたにはサヨコでいてほしい。同じようにスライにもスライでいさせてやってほしいんだ……難しいか?」
 サヨコは少し考えた。フィスやカナンやルシアのことを、そして、自分が宙港でタカダが一緒だと安心したことを考えた。
(タカダがどんな人かわからないのに、連邦警察だ、『GN』だと、わたしは安心した)
 そして、それとは逆に、このステーションにいるのは『CN』ばかりだと、緊張し不安になり身構えてやってきたのだ、まだ誰とも会わないうちから。
 もう1度クルドの目を見つめ返す。
 温かな目だった。『草』を落としたサヨコの行動を疑いもせずに、慌てて拾い集めてくれたことが蘇ってくる。その目にふわりと包まれて、何だかステーションへ来て初めて呼吸ができたような気がした。
「そう…難しいわ……とても」
 クルドは少し驚いたように眉を上げた。ほぐれたような笑顔になる。
「あんたは、だてにカナンに選ばれてきたわけじゃないんだな。ちょっと人権問題に首を突っ込んでる奴なら、このあたりで、もっともらしく頷いているよ。だが、結局わかってやしないのはすぐばれる。自分の身内が差別されている奴と一緒にいようものなら、大騒ぎするからな。そういう奴の方が、表立って差別するような奴よりたちが悪い……自分は絶対差別なんてしないと思い込んで差別している」
 サヨコはエリカとルシアのことを改めて思い出した。
 エリカがサヨコを『GN』だとして差別している、とは思わなかった。エリカ自身もそう思っていないだろう。だが、エリカのせいで、ときおり気まずい思いをすることがあるのは事実だ。出発前、エリカが人が一杯のカフェテリアで、『GN』に『CN』の治療ができるのか、と尋ねたときのように。
 もし、サヨコがエリカに好意を持ち、恋人として付き合ってくれと言ったとしたら、果たしてエリカは、自分の気持ちをそのまま伝えてくれただろうか。『GN』だからとか、『CN』だからとかなんて考えないでサヨコが好きか嫌いかということだけで考えてくれただろうか。
「スライは俺をここへ寄越した。あんたのことをスライなりに心配したのだと、俺は思っている」
(スライが?)
 サヨコはきょとんとした。クルドはサヨコの戸惑いに気づかなかったようだった。
「差別をする側もされる側も、お互いをよく知らないし、知ろうとしない。それでは何も始まらない…俺はそう思っている。スライが日本人を嫌っていることだけではなく、日本人を嫌う理由についても、あんたに知ってほしかったんだ」
 丁寧に言い終えて、サヨコを見る。
 サヨコはその目に宿る真剣な光にうなずいた。
「スライが…好きなのね」
 クルドは一瞬不思議そうな顔になった。思いもかけないことばを聞いた、という顔だ。やがて、気恥ずかしそうな微笑を浮かべて、
「そう、だな。俺はスライが気に入っている……ここで働けて幸せだと思っている。だから、あんたが気になるんだ……あんたがここで、スライのせいで傷つくのが……ああ、そうだ、きっと」
 長い間迷っていた場所から、ふいに開けたところへ来て、おまけに地図でも見つけたような、晴れ晴れとした声でクルドは呟いた。
「そうだ、あんたが俺に見えるんだ……受け継いだだけの『血』とやらのせいで、わけもわからず振り回されていたときの俺に……ふうん」
 クルドはうなった。ゆっくりと確かめるようにことばを継ぐ。
「俺は……自分がこんなことを考えてるなんて思いもつかなかったよ、サヨコ。あんたは不思議な人間だな」
 クルドはサヨコに手を差し出した。
「いや、たいした人間、というべきかな」
「クルド」
 誘われるように出したサヨコの小さな手を、しっかりと握り締める。
 クルドの手は温かく大きかった。
「これから1週間がなんだか楽しみになってきたよ。ときどき、こうして話しに来てもいいかな」
「あの、でも、実は…」
 サヨコが、スライには先程地球へ帰れと命じられたのだ、と言いかけたのを、いきなり響いた声が遮った。
『クルド! 手伝ってくれ! 客の1人が「宇宙不適応症候群」を起こした!』
 客室係のトグの声だ。乗務員用の回線がこの部屋にも通じているらしい。顔色を変えて立ち上がったクルドが、無意識にか、サヨコを振り返った。ためらったのは一瞬、サヨコはすぐに答えて立ち上がっていた。
「行きます! 案内してください!」
「こっちだ!」
 走り出すクルドに続いて、サヨコは部屋から駆け出した。

 スライが、ステーションでの『宇宙不適応症候群』発生を知ったのは、管理室で苛々とカナンとの連絡がつくのを待っているときだった。
 総合人事部が忙しいのはわかっているが、今は『アース・コロニー』も夜、勤務は終わっているはずだ。だいたい、スライのカナンへの連絡は待たされることが多いのだ。それでも、ようやく回線がつながった瞬間、クルドが部屋に飛び込んできて、『宇宙不適応症候群』の患者が発生した、と告げた。
「何?」
 スライの頭にサヨコが倒れている姿がまず浮かんだ。そのとたん、なぜか激しい不安が襲った。黒い長い髪に絡みつかれるようにサヨコが床に倒れている。瞳は閉じられ、手足は凍りついていく。誰からも顧みられないまま人生を生きてきた娘が、スライのステーションで最後の望みを断たれて死ぬのだ。
「つっ」
 いきなり胸が突かれたような痛みを感じて、スライは困惑した。とっさに胸に手を当てる。だが、それは一瞬のことだった。意識を向けるとどこにも傷みの箇所がない。
(疲れてるな)
 つなぎかけたオペレーターに乱暴に通話中止を告げ、クルドについて慌ただしく部屋から出て行く。
 スライが来るまでじっとしていられなかったのか、廊下で彼をいらいらと待っていた部下に尋ねた。
「サヨコか?」
「いや、客の1人、カージュという女だ。サヨコは治療にあたっている」
「サヨコが?」
 声が変に上ずって、自分でも驚いた。ごまかすように足を速めるが、不審と不安が広がるばかりだ。
(あの幼い娘に患者が見られるのか? クルドはどうしてサヨコなんかに頼ったんだ?)
 考えれば考えるほど苛立たしさが増してきて、スライは速度を上げながら尋ねた。
「ファルプは何をしてるんだ」
「ファルプはもう自分の出る幕ではない、とさ。スライ、サヨコは心理療法士として確かに有能だよ」
(そんなはずはない)
 スライは胸の中で否定した。
(さっきまで、あんなに不安定で、あんなに弱々しくて、あんなに脆そうだったじゃないか)
 だが、その思いは、医務室に入ったとたんに打ち消されてしまった。
「ああ、スライ」
「あれは……サヨコ、か?」
 出迎えたファルプに、スライは半ば上の空で尋ねた。
 医務室の奥、ついさっきまでサヨコ自身が横になっていたベッドに、1人の女性が横たわっている。青白くなっていた顔が徐々に血色を取り戻しているようだが、まだなお、心を襲った錯乱から完全に回復したわけではないらしく、ひっきりなしに何事かを呟いている。ひどく聞き取りにくい、うわ言のように脈絡のないことばの羅列だ。
 その横で、サヨコが椅子に座って、じっと耳を傾けていた。
 ぼんやりと灯された枕元のあかりはオレンジがかった柔らかな光だ。その光に照らされて、サヨコの黒い髪がより一層黒々と見える。同じ色の、けれどもより深い黒の瞳が、今、静かな落ち着きをたたえてカージュを見つめている。唇はほとんど動かない。身動きもしない。まるで、カージュのことばの1つ1つに、この世界の謎のすべてが解き明かされていくのだとでも言いたげな様子で、サヨコはじっと話を聞いている。
 ときおり、カージュは強く何かの同意をサヨコに求めた。常識からすれば、とてもわけのわからない理屈や洞察を認めよ、と迫っている。
 サヨコは決して安易には同意しなかった。だが、カージュのことばを否定するわけではない。
「そう、そうなの。今そういう気持ちなのね…そう思えて仕方ないのね」
 低い優しい声で囁いている。
 その声は遠い日の母親のことばに似ていた。赤ん坊が自分の回りにあるものに対して様々に叫ぶ、その声を受け止め抱き寄せほおずりして返してくれる、豊かな愛情の声、無条件にすべてを肯定してくれる声だ。
 そして、カージュはそのサヨコのことばにのみ反応しているように見えた。
「あなただけよ、あなただけがわたしのことをとてもよくわかってくれている」
 呟きを繰り返し、呟くごとに微笑み直し、カージュは次第に気持ちを落ち着けていくようだ。
(何だろう、これは)
 スライは魅入られたように立ち竦んでいた。
(時が、止まっているみたいだ)
 いや、サヨコが時を止めているみたいに見える。
 忙しく回り続ける時間の波に溺れそうになっているカージュを、拾い上げ掬い上げ、カージュが望む速度で流れる時の中へゆっくりと放っているようだ。
 そして、その隣で、サヨコもカージュの速度で生きている。
 焦りもせず、苛立ちもせず、まるでカージュがどこへ流れ着くのかすべて知りながら、それでもカージュの速さで泳ぐと決めているように。
 そのサヨコには、スライの前で見せた怯えは一切見られなかった。限りなく自然に、カージュの位置に自分を置いて、ひどく不安定な場所だろうに怯む気配一つない。
 じっと見つめていると、サヨコが次第に輝いてくるような気がした。まぶしくはない、けれども、決して弱まりもしなければ消えることもない時の海に建つ灯台、人間の苦痛と迷いの中でもかき消されない、永遠の真理の炎のように。
 何を聴いたのだろう、サヨコがふいに嬉しそうに瞳を細めた。頷き、またにっこりと微笑む。
 瞬間、スライはその微笑に、自分の心の奥底に沈んでいた、凍った檻が砕かれたような衝撃を覚えた。
 それは、幼いころ教会で見た聖母マリアの笑みとも見えた。だが、それより遥かに近く、遥かに強く、スライの胸の深い部分を鷲掴みにするようなものだった。
(サヨコは、本当はあんなふうに……笑うんだ)
 愛おしげに、優しげに。今にもカージュを抱き締めそうに。唇が柔らかそうだ、と思った。すべらかそうな頬に触れてみたい、と思った。波打つ髪を引き寄せたい、と思った。
(俺は……何を……)
 スライは混乱した。自分が考えたことが信じられなくて無理やりサヨコから目を離した。聞きたくないことばを無視しようと、側で同じように魅入られているらしいクルドを越えて、満足気なファルプに声をかけた。
「ファルプ……どうなったんだ?」
 自分の声がひどく掠れているのを感じた。唇が乾き、こめかみが拍動に波打っている。胸が轟いている。息が苦しい。
 視線をファルプに固定しているのが苦痛だった。この瞬間にも、サヨコはあの微笑みを浮かべているに違いない、なのに、スライはそれを見逃してしまう。体が無意識にサヨコに向き直りそうになる。サヨコの側に近寄って、その笑顔を覗き込みたくなる。その瞳に自分だけを映したくなる。
(俺は……どうしたんだ?……いったい、何を考えている?)
 自分の思考にスライは戸惑い、制御できない危うさに不安を覚えた。首を振る。視界まで揺らいできたような気がしたからだが、その自分の動きのぎこちなさにかえって衝撃を受ける。
「『草』が合わなかったのか、それとも何かのショックを受けたのか」
 ファルプはスライの動揺に気づいていないようだ。
「とにかく、軽い錯乱を起こしたんだ。身体的に問題を起こすほどじゃなかったが、自力回復できなくてね、サヨコに頼んだ」
 ファルプは赤い髪を少しかき回し、肩をすくめた。
「たいしたもんだ、どんどん落ち着いていく。明日には回復できるかも知れないよ」
 少しためらってから、ことばを継ぐ。
「スライ。もちろん、サヨコは問題を抱えているし、これから新たに引き起こす可能性もある。だが、これほど見事な腕を見せられると、もう少し力を借りたくなるな。あの患者も、完全に落ち着くのに、2、3日かかるかも知れないし、再発作を起こさないとも言えない。サヨコはいい助手になってくれると思うがね? どうだろう、サヨコには、わたしができるだけの配慮をしよう、だから…」
「……もう少しステーションに置いてくれ、か?」
 スライは一瞬ことばが返せなかった。
(サヨコがもう少しここにいる)
 体が熱くなり、鼓動がなお速度を増した。それを無視するように、ことさら冷たく言い放ってみる。
「だが、モリのケースは彼女には無理だ」
「無理かどうかやらせてみよう……実際に、他に手はないだろ?」
 スライはサヨコに目を戻した。
 カージュが囁く。サヨコが頷き微笑む。今度の微笑は温かで優しい。さっきのように光を放つものではない。けれど、胸を寛がせ体の緊張を解くような柔らかさだ。まるで……微笑に抱かれるような安堵感がスライの体をも温める。
(あんな微笑も……ある……のか)
 スライは胸の中でぼんやり呟いた。
(もっといろんな顔を持ってる……? もっと……?)
 それらの顔を全て見てみたい。サヨコの持つ顔の全てを。そして何より、あの黒く濡れた瞳でスライをまっすぐに見つめて微笑むところを。スライにだけ、微笑むところを。
 次の瞬間、スライは凍りついた。
(黒い、瞳、だって?)
 頭上から冷水を浴びせられたような気がした。
(俺は何をしてる?)
 あれは、日本人だ。
 あれは『GN』だ。
 スライはきつく唇を引き締めた。
(忘れたのか? あの夜のことを? もう忘れてしまったのか?)
 いや、忘れられるはずがない。
 だが、サヨコの微笑みにつ掴まれた、胸の奥から響く声が優しく強くスライをなだめた。
(ここは客が集まるステーションで、客の安全を守るのは責任者の役目だろう?)
 カージュは眠りについたらしい。サヨコが疲れた顔になって立ち上がった。
 本当にきつく苦しい仕事だったのだろう。いきなりサヨコの体が小さく萎んでしまい、影さえ薄く、今にもそのまま空気に溶け入り消えてしまいそうになっていた。よろめくように椅子から離れる、それがひどく痛々しくて、スライは目を逸らせた。サヨコに背中を向けて出て行きながら、ファルプに、
「言ったことの責任は取ってもらうぞ」
「じゃあ?」
 ファルプがサヨコがこちらに来るのを知りながら、これみよがしに確認する。
 サヨコはそれまでスライが居たのに気づかなかったらしい。こちらを見たとたん、固い表情になって立ち竦んだ。さっきまで温かな微笑に満ちてカージュに注がれていた瞳が、はっきりと怯えてスライを見つめる。
(笑わない…サヨコは俺には……笑わない、んだ)
「サヨコ・J・ミツカワは、本日づけでステーションに勤務する。期間は未定だ」
 腹立たしさと悔しさと困惑……ふいに胸に沸き上がった泣き出したくなるような感情をどう扱えばいいのかわからなくなって、スライは吐き捨てた。すぐに背中を向けて部屋を出ようとする。
 出て行く瞬間、ふと、周囲の空気が軽く甘くなった気がして、思わずスライは肩越しに後ろを振り返った。
 いつのまに親しくなったのだろう、ファルプばかりか、クルドまでサヨコを囲んで笑っていた。白くなっていたサヨコの顔はわずかに紅潮して、さっきスライに向けた強ばった顔とは違う、華やいだような明るい笑顔で2人を見つめてことばを交わしている。
(オレニハ?)
 閃光のように胸を貫いたことばに、スライはぎょっとして、唇を噛んで急いで背中を向けた。このままここにいると、サヨコの肩を掴んで、俺のためにも笑ってくれと叫びそうな気がして、怒りと不安に襲われた。
(オレダッテ、ホシインダ)
 何が?
 スライは目を閉じてドアを閉め、急ぎ足に廊下を歩いた。
 自分の中のものが、何もかも崩れていくような怖さを感じた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【R18】もう一度セックスに溺れて

ちゅー
恋愛
-------------------------------------- 「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」 過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。 -------------------------------------- 結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

壁穴奴隷No.19 麻袋の男

猫丸
BL
壁穴奴隷シリーズ・第二弾、壁穴奴隷No.19の男の話。 麻袋で顔を隠して働いていた壁穴奴隷19番、レオが誘拐されてしまった。彼の正体は、実は新王国の第二王子。変態的な性癖を持つ王子を連れ去った犯人の目的は? シンプルにドS(攻)✕ドM(受※ちょっとビッチ気味)の組合せ。 前編・後編+後日談の全3話 SM系で鞭多めです。ハッピーエンド。 ※壁穴奴隷シリーズのNo.18で使えなかった特殊性癖を含む内容です。地雷のある方はキーワードを確認してからお読みください。 ※No.18の話と世界観(設定)は一緒で、一部にNo.18の登場人物がでてきますが、No.19からお読みいただいても問題ありません。

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

完結【R―18】様々な情事 短編集

秋刀魚妹子
恋愛
 本作品は、過度な性的描写が有ります。 というか、性的描写しか有りません。  タイトルのお品書きにて、シチュエーションとジャンルが分かります。  好みで無いシチュエーションやジャンルを踏まないようご注意下さい。  基本的に、短編集なので登場人物やストーリーは繋がっておりません。  同じ名前、同じ容姿でも関係無い場合があります。  ※ このキャラの情事が読みたいと要望の感想を頂いた場合は、同じキャラが登場する可能性があります。  ※ 更新は不定期です。  それでは、楽しんで頂けたら幸いです。

エロ・ファンタジー

フルーツパフェ
大衆娯楽
 物事は上手くいかない。  それは異世界でも同じこと。  夢と好奇心に溢れる異世界の少女達は、恥辱に塗れた現実を味わうことになる。

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

処理中です...