『緑満ちる宇宙』

segakiyui

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第4章 サヨコ・J・ミツカワ(1)

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 歓迎されてはいないだろう、とサヨコもどこかで思っていた。
 『CN』の中に『GN』が、それも、連邦からの調査官として入るのだから。
 だが、これほど明確な拒否反応を、それも責任者であるスライ、サヨコが唯一きちんと話を通さなくてはならない相手から示されるとは、思ってもいなかった。
 くせのある黒い髪が首元あたりでカールしている。瞳は暗くて深い緑だ。整った東洋系の目鼻立ちに、不愉快そうな険しい表情を刻んで、スライはこちらを見つめている。
 開いたドアを境に、2人の男とサヨコの間には奇妙な沈黙が横たわったままだ。
 それを、どう乗り越えたものか、サヨコは途方に暮れた。
 きっかけを作ったのはファルプだった。
「……ああ、もう大丈夫かね?」
 丸い鼻、丸い顔、やや赤みがかったピンク色の肌、赤い髪に青い瞳。それらが白衣を着た丸い体の上に乗っている姿には、誰でも警戒心を解くだろう。ファルプはその容貌の適切な生かし方を心得ていると見えた。にこりとサヨコに笑って見せ、スライを振り返る。
「その通り、この男がスライ・L・ターン。口の悪い切れ者だよ。私はファルプ。ファルプ・A・B・C・コントラ。ステーションの医師を務めている」
「A・B・C? 本名、ですか?」
 サヨコはファルプの心遣いに感謝して話題に乗った。
「本名だとも。母親が特徴のある名前を欲しがってね。おやじが夜も寝ずに考えた。結果がアルト・ビスタス・セルジ。コントラ、でなくてデニトル、ならAからFまでそろったんだが……もっとも、ドクター、になったから、そっちで間に合わせたよ」
 ファルプはウィンクして見せた。
「……ああ…」
 ぼんやりしていた頭にようやくファルプのジョークがしみてきて、サヨコはかすかに笑った。相変わらずむっつりしていたスライが唐突に口を挟む。
「それで? あんたはもう働けるのか?」
「スライ…」
 ファルプが眉を寄せた。
 遠回しなファルプのたしなめにも構わず、スライはサヨコを凝視している。暗いグリーンの目が、サヨコの心の奥を覗き込もうとでもするようだ。
(緑は、何だか、こわい)
 サヨコはカナンの酷薄な目を思い出した。鋭くて冷ややかな視線。それと同じ視線が何百も何千も、壁という壁から、視界いっぱいに存在して彼女を覗き込んでいる、そんな気配に一瞬目眩を覚える。
 それはよく知った気配だ。サヨコの内の内側まで検分し探る、実験動物を見る視線だ。
 サヨコは脳裏に広がりかけた記憶を必死に切り離した。瞬きをし、ゆっくりと呼吸し、答える。
「はい。もう…大丈夫です」
「それはよかった」
 サヨコのためらった口調を、スライはきっぱり切った。
「このステーションは、病人を預かる場所じゃないからな。部屋を用意させている。案内しよう」
「あ、はい」
(有無をいわさないやり方も似てる)
 サヨコはあわてて身支度を整えた。まだ少し、頭の中心がぼうっと過熱していて、動くとくらくらする。だが、ここでもう少し休みたいと言えば、日本人嫌いだというスライは、ますます冷たい対応になるだろう。
 心配そうなファルプの目にそっと笑み返して鞄を持ち、スライに向き直った。ゆっくり頭を下げる。
「あの…よろしくお願いします」
「こっちだ」
 スライはサヨコと会話しているつもりがないように答えた。向きを変えて、1人でさっさと医務室から外に出て行く。サヨコはファルプにも頭を下げて、あわててスライの後を追った。
 廊下を先にたって急ぎ足に歩くスライの動作は軽い。
(宇宙に慣れているんだ)
 胸の奥から、スライに対する羨望の気持ちがゆっくり沸き上がってくるのを感じた。
 もし、サヨコがスライのように、宇宙で暮らせたならば。
 月基地へ移民する父母について行けたならば。
 サヨコは、父母の顔をはっきり覚えていない。発作のショックからかもしれない、と言われたことがある。シゲウラ博士が1度写真で父母の姿を教えてくれたことがある。だが、それは、どこかよそよそしく、他人のようで血のつながりは感じられなかった。
 博士にそう話すと、「そうかもしれない。これは、君が生まれる前……ご両親の結婚直後の写真だからね」と応じてくれた。柔らかな声に混じった憐れみの響きを、サヨコは今も忘れられない。
 月基地『神有月』は、移民基地としてはまだまだ未熟で、サヨコの父母も日々を夢中で働いているのだろうか、彼女に直接連絡をよこしたことはなかった。
(でも、本当は、おとうさんもおかあさんも、わたしが『GN』だから、自分達の子どもだと考えていないのかもしれない)
 それなら、まだいい。
(自分達の子どもでも『GN』ならば切り捨てる、そういうことでないほうが)
 微かな呟きが感情を伴って溢れ出す前に封じ込める。
「……でだ?」
「え…はい?」
 自分の考えに入り込んでいたサヨコは、唐突に聞こえた声に顔を上げた。ぶつかりそうな近さで立ち止まっているスライがいて、思わず身を引く。こちらを見ていたスライが不愉快そうに眉をしかめた。
「人の話を聞いていないのか?」
「あ…すみません……考え事をしてて…」
 サヨコの答えに、スライはますます険のある目つきになった。
「ここでは止めるんだな。慣れていない『GN』には、宇宙は命取りになる」
「はい…」
 サヨコは起こした発作をからかわれたと感じて、頬が熱くなった。必死にスライの問いかけに意識を戻す。
「あの……何をお尋ねだったんですか?」
「改まったことばを使わないでいい。俺はあんたの上司じゃないし、どちらかというと、あんたの査定を受ける側の人間だからな」
 スライの緑の目が陰険な皮肉をひらめかせた。が、すぐに、気を取り直したように、
「いや、何でもないことだ。なぜ、立体写真を嫌うのか、と思って尋ねたんだが」
「ああ…」
 サヨコはかすかに微笑んだ。
(聞かれると思ってた)
 少しためらって、ことばを選んで答える。
「自分を晒しているみたいで……嫌なんです」
「写真はそういうものだろう」
 こともなげにスライが応じる。
「ええ……でも…」
 サヨコの脳裏に、4歳の学会報告にあたって何度も様々なポーズで撮られた立体写真のことがよみがえる。
 15歳を過ぎて、症例の1つとして自分の報告書を調べたとき、添えられていた立体写真が、惨いほど彼女の無防備さや恐怖、絶望といったものを捉えているのに、サヨコは大きなショックを受けた。
 実際に、周囲の人間が彼女に対して行ったのは、無力な子どもの心を踏みにじるようなことばかりだった。シゲウラ博士がいなければ、サヨコはとっくの昔に自己崩壊していただろう。
 立体写真はその危うさを見事に掴み取っていた。それ以来、サヨコは立体写真に撮られたくない。撮られることがそのまま、過去の中に幽閉されるような気持ちを引き起こす。
 それをどのように話せばいいだろうか。
 黙り込んだサヨコに、スライは唇を軽く歪めた。
「でも、で終わりか」
 サヨコははっとして目を上げた。
 スライが冷ややかに続ける。
「日本人って奴はいつもそうだな。きちんとした主張をしないくせに、自分の思うとおりになって欲しいという願望は人一倍強いんだ」
 苦々しい吐き捨てるような口調だ。
「隠すつもりはないね。俺は、日本人は嫌いだ」
 独り合点にいらだちはしたものの、スライの中の激しい感情に魅かれて、サヨコはスライを見つめた。
 暗い色の瞳には確かに敵意が満ちている。けれども、悪意は感じられない。
(この人の敵意には理由があるんだ)
 それはサヨコにはわからない。けれど、その敵意に対する応じ方は経験から知っていた。
 サヨコはそっと微笑んだ。スライの心の奥底、サヨコに悪意を感じていない部分に向かって。
「そうでしょうね」
 それから、自分の内側へ意識を向ける。スライが指摘したものが、自分の中にどのような形で沈んでいるのか確認して、ことばを続ける。
「きっと、何度も、願いが叶わないことばかり経験してきたから……自分の願いをはっきり言ったことで叶わなかったときのことを、つい考えてしまうんでしょう。そう…どこかで……ひょっとすると、話さなければ、願いが叶ったかもしれないって、そう思って、ことばが止まるのかもしれない」
 スライが戸惑った顔になった。サヨコの顔をじっと見つめているのに、今の今まで気づかなかったように、ふいに瞬きをしてうろたえたようにことばを返した。
「変わってる、な」
 緑の目が一瞬明るく不思議そうにサヨコの顔を掠めた。それに気づいて視線を合わせようとした矢先、飛び退るように目線が泳いで、スライは唐突に話題を変えた。
「ああ、ところで……あんたには身内は居なかったはずだが…地球には」
 サヨコはびく、と体を強ばらせた。スライが何を言おうとしているのか、突然わからなくなって、入れ替わりに妙などす黒い不安が胸一杯に広がった。
(いない……地球には……誰も)
 サヨコの中を、離れてしまった両親や、『草』を使っても発作を起こした自分や、ルシアの嫌悪に満ちた表情が通り過ぎる。カナンの、ものを見るような冷ややかな視線や、フィスの恩着せがましい弁明、エリカの無意識だろうけどひっかかる、かすかな優越感も。
(そうだ……わたしには……帰るとこなんてない)
 どこにも、行けないのに、どこへ行こうというのか。
 誰にも、すがれないのに、誰を求めているのか。
 苦しそうな呟きが、呪文のようにどろどろとサヨコの胸の中でうなった。押し殺そうとすると、体の中に巣喰っていた得体の知れないものが、目を覚ましてしまったように見る見るサヨコの感覚を遠く彼方へ奪い去り始める。揺らめいていく視界に必死に瞬きをする、それがサヨコにできた精一杯の抵抗だった。
 自分の意志ではないのに、唇が開いて、凍った淡々とした声を紡ぐのが聞こえた。
「そうです。月基地『神有月』に両親がいますが、もうずいぶん会っていません。シゲウラ博士が保護者がわりでした。そのシゲウラ博士も、もう亡くなりました。わたしには、肉親は、もう、近くには、おりません」
 スライがぎょっとした顔でサヨコを見ているのを感じた。だが、口は止まらない。
「わたしに、関しての情報は、シゲウラ博士の学会報告をお読み下さい。4歳のときに、初めての発作を起こしました。両親が『CN』だったため、非常に難しいケースとして、報告されて、おります。以後の経過は、シゲウラ博士の著書、もしくは、連邦の人事部に資料が保管、されております」
「サヨコ・J・ミツカワ?」
 スライが同じぐらい凍りついた声でサヨコを呼んだ。
「もっと、詳しい情報は、ここでも滞在期間に得られる、はずですが、研究に対する、拒否権を、わたしは、もって、おりません」
「もういい、よくわかった」
 スライは大きく開いた目から嘲りを消していた。何かとてつもなく深い穴に潜んだ、正体不明のものを見ているような、不安と苛立たしさと微かな恐怖を浮かべている。サヨコのことばを遮るように言ったが、サヨコは黙らなかった。
「わたしの、身柄は、連邦の、総合人事部にあり、わたしに関するすべての権限は…」
「サヨコ・J・ミツカワ! サヨコ! もういい!」
 スライがこわばった顔で叫び、サヨコは唐突に我に返って狼狽した。
 『それ』は、幼いころに、サヨコに植えつけられた対応の1つだった。まさか、今まで残っているとは思っていなかった自動的な反応。とっくに解決していたと思っていた闇の部分。
 非常に特殊な学会報告ケースになってしまったサヨコは、多くの人間の好奇の目に晒されることになった。彼女を人間的に扱ったのは、シゲウラ博士1人といっても過言ではなく、サヨコを護ろうとしたシゲウラ博士の努力にもかかわらず、サヨコは来る日も来る日も、研究対象としてのみ扱われることが多かった。
 サヨコの自我は崩壊する前に、自分を外界より隔離して閉じ込めてしまうことを学んだ。彼女を保護するものがいない、という認識が起こったときに、マニュアルのように自分についての情報を説明することで、無用なストレスから自分を切り離す方法を取るようになったのだ。
 心理学的に言えば、この現実から閉じこもる方法は、解離と呼ばれる。
 その自分の防衛反応を、サヨコはもう乗り切ったつもりだった。なのに、少し心が揺さぶられただけで、亡霊のように甦った『それ』はあっさり彼女を支配してしまったのだ。
(どういうことなの…?)
 まるで、その彼女の思考を読んだように、スライが低い声で言った。
「以前に心理操作か、それに似たことを経験しているか? 例えば……自分を保てなくなるようなこと、だ」
 サヨコは目を上げた。ついさっきまで、サヨコを嘲けるように見ていたスライの目が、暗さを増して、不可思議な哀れみを宿しているようだ。その目をサヨコは覚えていた。シゲウラ博士がときおり彼女に向けていた目と同じものだ。
 その記憶がサヨコの唇をほぐした。
「……たぶん……学会報告の前後に……わたし…ひどく不安定になったんです……何か…自分が…人間扱いされなくなって……それが耐えられなくて…」
 スライの目はますます深く暗くなった。サヨコを覗き込んでいた視線を逸らせて体を起こす。
 サヨコはそこで初めて、自分が壁にもたれてようやく立っていたのだと気がついた。よろめきながら体を起こし、視線を逸らせたまま彼女の前に立っているスライに声をかける。
「あの……スライ……船長…」
「スライ、でいい」
 スライはぽつりと言った。すぐに思い直したようにことばを続ける。
「サヨコ・J・ミツカワ。これは言っておいた方がいいと思う」
 スライはようやく振り向いたが、その瞳は元の通りに冷ややかに凍っている。
「宇宙は、君が想像している以上に人間に変化をもたらす。大きな変化は心理的なものだ。ここでは、どんな心理的な問題も、解決されていない限り、増幅されて再度甦ってくることが確認されている。その変化は、『CN』より『GN』の方がはるかに大きい」
 先に続くスライのことばを予想して、サヨコは体を固くした。
「そして、時には、この変化を『草』でさえも止められない。『GN』が『草』を使っても『宇宙不適応症候群』を再発する、というのは、そのためだ」
 スライはことばを切った。少し息を吐く。それから、静かな口調で、
「サヨコ・J・ミツカワ。君は、『GN』であるだけでなく、大きな心理的問題を抱えている。君がここにいることは、君自身を取り返しのつかない危機に陥れることが予想される。……カナンがそれを気づかなかったとは思えないが……それを考えると、今回のモリのケースを調査する以前に、我々は君への対処に手を取られるだろう」
 サヨコは無意識に目を閉じた。聞きたくなかった最後のことばが、容赦なくサヨコに耳に流れ込んでくる。
「…我々が必要としているのは、君ではない」
 サヨコの手から、鞄が落ちた。
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