『緑満ちる宇宙』

segakiyui

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第1章『アース・コロニー』の少女(2)

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 サヨコはカフェテリアに座って、冷えたアールグレイをストローで吸い上げた。
 口の中に紅茶の芳香が広がる。コーヒーのようにきつくはない、けれども、はっきりとした薫り。存在感を与える薫りが苦手だという人も多いが、サヨコは好きだ。
 日差しは午後に近づいてまばゆかった。くっきりと影を落とした木々に囲まれ、そこここに憩いを楽しむ人々が、木目をそのまま生かしたシンプルな木のテーブルについている。
 人々の間を擦り抜けるようにして、風がゆっくりと渡っていく。カフェテリアの周囲にある花壇の花の匂いが風に運ばれ送られてくる。
 医療セクションには、この手の屋外カフェテリアが多い。
 雨風にテーブルや椅子が傷むこと、周囲をうずめる花壇や木々の手入れに費用がかかることなどを理由に、何度か屋内に移すことも検討されているが、いつも話は進まない。
 それは、医療セクションの機能に関係しているかもしれない、とサヨコは思う。
 医療セクションは、この『アース・コロニー』と宇宙空間の地球連邦管理下に置かれている部署で働く人間全てのために設けられている。
 人種が入り乱れるここでは、さまざまな価値観とそれらに対するストレスを感じながら生活していかなくてはならない場所でもある。
 この十数年で、精神的な問題を抱えて医療セクションを訪れる人間は、約20倍に増えた。精神的なトラブルは遠からず身体的な症状となって現れてくる。宇宙を相手に働く者は、わずかのミスが死に直結していることからか、地上に住む人々に比べて、医療セクションの受診率が高くなっている。
 『アース・コロニー』の医療セクションは、そういった人々の苦痛と不安を取り除くために存在する。だが、それはまた、医療セクションに従事するものに多大なストレスを与える。
 勤務時間以外は、問題を抱えた人間達とそれに関わることから離れて、木々や草花や鳥や虫、水の流れや日の光といった自然物に自分を委ねて溶け込もうとするのは、無理もないことかもしれない。
 しばらく日差しの方向を探るように顔を上げていたサヨコは、風の流れと花の香りを十分に楽しんでから、満足した溜め息をついた。
 再びストローをくわえようとして、カフェテリアに入ってきたカップルに気づく。
 友人のエリカと恋人のルシアだ。
 サヨコが彼女達に気づくや否や、エリカもサヨコに気がついた。青い目が快活な笑いを浮かべる。軽く手を振り、続いてすぐに近づいてこようとして、エリカは動きを止めた。
 そばに付き添っていたルシアが金髪の頭を振ってエリカの腕を抱き、何か言い聞かせている。ルシアはエリカより3歳ほど上の女性だが、きっとしてルシアを見たエリカの方が数歳年上に見えるような弱々しさがある。
「いいかげんにしなさい、ルシア!」
 はっきりしたエリカの声が響いた。苛立たしげな口調が昼時で人が増えてきたカフェテリアの温かな空気を切った。
「サヨコが日本人だろうと、『GN』だろうと、あの子に何の責任もないことでしょ? いつになったら、あなたのその薄っぺらいプライドは大人になるの?」
 対するルシアの声は低くて聞き取れない。だが、その顔に浮かんだ嫌悪の表情に、サヨコは見てはならないものをみたように慌てて目を伏せた。
 両手で包むように持っていたグラスの中を覗き、薄い茶色の氷が揺れる透明な世界に逃げ込む。
「わかったわ、じゃあ、今日はここでお別れ。また、明日会いましょ。あたしはサヨコに話があるの」
 エリカがあっさりと応じた。
 自分の名前が聞こえたのについ目を上げたサヨコの前で、エリカはルシアの唇に軽くキスして離れた。ルシアが恨めしそうな顔でサヨコを見る。だが、サヨコと目があった一瞬、皮肉っぽく唇をゆがめてルシアは呟いた。
『GN』。
 サヨコはまた俯いてしまった。
「まったく、近ごろの子は何考えてんだか」
 ぼやきながら、エリカはサヨコのテーブルに近づいてきた。テーブルのすぐ側まで来てぴたりと立ち止まり、しばらく黙った後、歯切れのいい口調で命じた。
「顔を上げなさい、サヨコ。あなたが気にすることじゃないのよ」
 そろそろとサヨコは顔を上げた。
 正面ににこにこしているエリカの顔がある。黒髪を後ろでひとまとめにしているのが溌剌として元気そうだった。
 サヨコはそっと、肩に垂らしたままの自分の髪を探った。その仕草をすばやく見て取ったエリカが、サヨコの前の席に腰を下ろしながら、
「まあた」
 どこか呆れた溜め息まじりの声だった。
「いいの、あなたはそれで」
 確信に満ちた表情で、サヨコに頷いて見せる。
「人に合わせなくていいの。『GN』だって、日本人だって、あなたが選んで生まれてきたんじゃないのよ。無理に適応しようとしないこと。でなきゃ、ここでは暮らせないわ」
「うん…」
 サヨコは曖昧に笑った。
「そうは思うのよ。でも……わたしがいることが不快なら、何とかしたいって、いつも思ってしまって…」
 エリカが発してくる強烈な圧迫感に押し流されそうになりながら答える。
 相手はどこか哀れむような目の色になって、サヨコを見た。
「それって、心理療法士の仕事からくるものなの? あなた、必ず、『自分がまずい』っていう発想で話すでしょ?」
「え…? 違うと思うわ」
 サヨコは首を傾げた。自分の胸の内からことばを丁寧に選び出す。
「自分の感覚や、生きることを肯定的に見ていないと、治療を始めても巻き込まれて身動き取れなくなることの方が多いのよ。一方的に自分を責める発想では、結局患者の力にはなれないの。でも、変えられるのは、他の誰かではなくて、自分自身でしかないから…」
「そうよね…あなたって、有能な心理療法士だったんだわ」
 エリカはいまさらながら気づいたという顔で立ち上がった。コーヒーを取って戻ってくると、何事か思い出しているようにことばを続ける。
「確か先月だったわね。宇宙飛行士で、急に宙港で適応不全を起こした男の人を回復させたの。あれ、どうしたの?」
「うん…」
 サヨコはことばを濁した。
 心理療法士には守秘義務というものがある。患者の治療や状態について、第三者に話すことはできないのだ。それをエリカが忘れているとは思えないが、相手は応えてくれるのが当然という表情を崩さない。
 しばらく迷ってから、
「パウラー教授の心理テストは完全なものじゃないの。『GN』でも『CN』と診断されることもある。特に、長年宇宙で働いてきて、そこで過剰適応していた場合は見分けにくいと報告されているわ。けれど、そんな無理な適応形態はどこかで爆発することがあるの」
「ああ、少し知ってるわ」
 エリカが頷いた。
「彼、宇宙が好きで宇宙で死にたいっていってたそうじゃない。それが、組織の再編に伴う心理テストで引っ掛かりそうになった。何とかクリアしたと思ったら、その実、心は限界を越えていて、とうとうあそこでちぎれてしまったってことね。自分の内側でもう1人の自分を殺して、結果的にこの世界から関わりのないところへいってしまったというわけでしょう?」
 エリカの口調は、あくまで明るい。
(そう、エリカにとってはひとごと、だもの)
 サヨコの胸の奥深くで、言ってはならない一言が響く。
「そうまでして宇宙にこだわらなくても、ねえ。地上でいくらでも働けたでしょうに」
 エリカの不思議そうな声音に、サヨコは気弱に笑うしかできなかった。そうまでして、なぜ、宇宙に行きたいと思うのか。それはサヨコにも答えられない、けれど、サヨコにはよくわかる問いだったからだ。
「あなたを指名したのは、フィスなの?」
「ううん、それが、もっと上の方からだったみたい」
「カナン・D・ウラブロフ? まさかね」
 エリカが茶目っけたっぷりに肩をすくめて見せ、思わずサヨコも笑い出した。
「まさか」
(確かに、突然の指名にはびっくりしたけど)
 カナンだなんてあり得ない、とサヨコは思った。
 彼女の名前は既に伝説になりつつある。 『GN』でありながら、数々のチェックとテストをクリアし、なおかつ華々しい手柄を重ねることで、もっぱら『CN』しか採用されることのなかった地球連邦中央部への昇進を果たした女性。今や、カナンの名前は、『GN』であるということさえ、高い能力の要因であったかのようにさえ思わせている存在なのだから。
「カナンは連邦の総合人事部の部長よ。そんな人がわたしを知っているかどうかさえ」
「そうかしら」
 エリカはきらきらした真っ青な目でサヨコを射貫いた。
「少なくとも、先月の活躍は耳に届いていると思うわ。彼女はとても切れ者だし、必要な情報を集めるのも上手だと聞いているし。よかったわね、サヨコ。新しい未来が見えてくるかもしれないじゃない、この地球で」
「そうね…」
 サヨコはぼんやりと視線を紅茶に戻した。
 宙港で意識を失って、自ら生きることを拒み、周囲との接触を切ろうとした男の、絶望的なうつろな眼差しがよみがえってくる。
 ぽかりと白い精神の空間を思わせる、ほうけたように開いた口。
 確かに彼はサヨコの働きで、何とか現実に戻ってきた。だが、彼を待っていた現実は、もう2度と宇宙へは上がれないということなのだ。たとえ、他の能力が認められたとしても、その現実の前で、彼は昼まずに生きていけるだろうか。
 それは遠い過去、サヨコを襲った嵐そのものだった。
 耳を塞いでも聞こえてくる、記憶の中に深く刻印された悲鳴が、サヨコの体の内側を引き裂いていく。
『いやああああ……おとうさああん……おかあさああ…ん……あたしも……つれていってえ……おいていかないでええええ……』

 人類が宇宙に進出するにあたって、1つの問題が見つかった。
 宇宙に出る回数が増えるに従い、どれほど事前に訓練を積んでも、宇宙へ出たときに原因不明の症状を起こす一群が居るということがわかり始めたのだ。
 『宇宙不適応症候群』、そう呼称される。
 また、それとは別にほとんど訓練を積まなくても、全く何の問題も起こさないタイプがいた。
 重ねられた研究の中で、この両者には遺伝素因が絡んでいること、心理的な問題が大きいこと、『草』を使用する以外に前者が宇宙で安定した作業ができないことが確認された。
 現在では、一般的に前者を『GN』、ガイア・ネイション、後者を『CN』、コズミック・ネイションと呼んでいる。
 4歳まで、サヨコは自分を『CN』だと信じていた。父母も周囲もサヨコが『CN』であることを疑わなかった。それまで、『CN』は遺伝するとする説がほとんどで、片親だけが『CN』でも、子供は『CN』であることが多く、優性的に遺伝すると考えられていた。
 やがては『CN』が人類の大半を占めるようになるだろう、つまりは『CN』こそが人類の進化した姿だろうという理論はここから来ている。
 『CN』であるということは、一種のステータス・シンボルになりつつもあった。
 だから、サヨコが初めての宇宙旅行に出るときも、両親が『CN』である彼女は形式だけのチェックでスペースプレーンに乗船できた。
 今でも鮮やかに覚えている。
 暗い夜空を背景に、真っ白なスペースプレーンは、今まさに空へ飛び立つ大きな白鳥のように見えた。きれいね、というと、父も母も笑顔を見せて、宇宙はもっときれいだよ、と答えてくれた。サヨコ自身も、自分がこの白い大きな鳥に抱えられて輝く星の流れの中を飛んで行くのだと思うと、胸がわくわくしていた。
 何の不安もなかった。何の恐怖もなかった。客席に座り、スペースプレーンが加速しても、サヨコはこれから広がる未知の体験を思って微笑んでいた。
 だが。
 乗り込んだスペースプレーンが地球から離れ、軽いGがかかり出すと、わけのわからぬ不安が、まるで紙を透かしてにじんでくる汚れた水のように広がってくるのを感じた。今までに感じたことのない不快感だった。
 どうしたの、と母親が尋ねるのに、首を振った。緊張してるんだよ、と父親が解説するのに頷いた。
(だいじょうぶ、だいじょうぶ。おとうさんもおかあさんもいる。なにもこわくない)
 そう何度自分に言い聞かせたことだろう。なのに、現実には目の前が次第に暗くなり、頭の上から冷たい水のような寒気が這い降りてくる。
(なにか、へんだ、なにかが、とても。でも、なぜ?)
 そう思ったのがサヨコの最後の感覚だった。
 宇宙ステーションにつく直前にサヨコは『暴発』した。悲鳴、錯乱、嘔吐、失禁、麻痺、意識消失、血圧低下。『宇宙不適応症候群』に上げられる症状の全てを網羅するほどの激しい発作だった、らしい。
 サヨコは緊急医療室に運び込まれ、『草』を投与された。生死の間をさまよい、体力が回復する数日間を利用して、シゲウラ博士がサヨコの心理の管理にあたったという。
 サヨコは『GN』。
 心理テストはわかりきったことを確認したようなものだった。
 シゲウラ博士は、サヨコのケースを父母の了解の元に学会発表した。その見返りとして彼はサヨコの地球での保護者となることに同意した。サヨコの父母は、旅行直後に月基地『神有月』に移住することになっていたのだ。
 シゲウラ博士は、サヨコがその特殊性から不必要に疎外されることなく生きられるように配慮することを、サヨコの父母に約束したと聞かされた。
『いっしょにいられないの? わたしが「GN」だから? わたしが「CN」でなかったから、おとうさんもおかあさんも、わたしはいらないといったの?』
 サヨコのことばに、シゲウラ博士は一瞬絶句した。それから、首を振り、低い声で、
『そんなことはない。子どもの能力に親の心は遮られないよ』
 そう慰めてくれた。
 だが、サヨコにはわからなかった。ただ、自分は宇宙を飛べず、そのために父母とは居られず、そして、誰からも見捨てられて当然な子どもなのだ、と感じた。
 続く数年は、サヨコのその思いを確信にまで高める辛い日々だった。サヨコは識者の間で、『CN』遺伝説を否定する特殊ケースとして注目された。繰り返される心理テストといろんな学者とのやりとり。それでも、シゲウラ博士は、サヨコを自分の下で心理療法士として訓練し学ばせることで、彼女が地球で生きて行けるように計らってくれた。
 シゲウラ博士の試みは、見事にサヨコのある才能を開花させる。
 共感能力。
 サヨコのそれは、テレパシーやエンパシーと呼ばれる、他者の感覚をそのまま感じる能力ではなかった。
 サヨコは患者の話をひたすら聴く。何度も同じ話が繰り返されても、何度も同じ話を聴き続ける。そして、自分のあらゆる感覚を総動員させて、患者の感じたものを、患者の感覚と同じように感じようとする。
 言わば、患者の意識のすぐ隣に、自分の意識の窓を開くようなやり方だ。
 確かに、超感覚としての共感能力の方が、患者自身の感覚を捕らえやすい。だが、往々にして、彼らは相手の感情に飲み込まれてしまう。相手と一体化し、その能力の精密さゆえに、相手が混乱していれば同じように混乱し、ひどいときには問題が何であるかさえわからなくなってしまう。
 だが、サヨコは踏みとどまる。混乱している相手の側にずっと佇み、相手と一緒に悩みながらも、巻き込まれることなく、問題を見失うこともなく、患者と一緒に切り抜けていこうとする。
 サヨコといるとき、患者は1人で自分の混乱と戦うのではない。サヨコという、事情をよく知ってくれていて、なおかつ違う視点をもち続けている個性、もう1人の、別な姿の自分と一緒に、問題に立ち向かい、混乱を切り抜ける方法を考えられるのだ。
『これは、すばらしい能力だよ』
 シゲウラ博士は深い感嘆とともにいったものだ。
『君は決して先走らない。自分の意識も感覚も相手の中に投げ入れて、それでも自分を見失わないで、相手の動きを待っていられるなんて』
 それは、共感能力が高いというのではなく、共感しようとする能力が高いのだ、とシゲウラ博士は続けた。
『それこそ、心理療法士が何よりももち続けていなければならない資質だ。君は誰の側にも佇むことができる。じっとただ、回復することさえ強制せずに待つことができる。サヨコ、これは神の力だよ』
 シゲウラ博士の熱心な働きかけで、サヨコは地球連邦の医療セクションに配属された。そこでまじめに働くことが、父母さえも見捨てた自分を育ててくれた博士に対する恩返しだ、そうサヨコは考えている。
 そのシゲウラ博士も、数年前のスペースプレーンの事故で亡くなった。 整備不良というお粗末な原因は当時かなり騒がれたが、今ではもう過去のものになりつつある。

「でも、不思議よねえ」
 ふいに、耳にことばが飛び込んできて、サヨコはびくりと体を強ばらせた。いつのまにかすっかり思い出の中に入り込んでいたらしい。エリカが居るのを忘れていた。
 サヨコは瞬きして、コーヒーのカップを傾けるエリカの顔を見た。日差しが少し陰ったせいか、青い目がいつもより濃く重いものを含んでいるように見えた。
「サヨコは『GN』でしょ? 『GN』として、『CN』の心理治療ってできるの? 宇宙空間で長く暮らすと、感覚が変わってくるって言うし」
 あっけらかんとしたエリカの口調に悪意はない。けれども、なぜ、いきなりそんな話の展開になったのかがわからなくて、サヨコは瞬きを繰り返した。聞き違いではないかと疑いながら、そっと尋ねてみる。
「え……わたしが、エリカを治療するの?」
「やあだ」
 エリカはちょいと桃色の舌を出して見せて、くすくす笑った。
「冗談でしょ。でも、ここへ来る前に、心理療法室で噂されてたわよ。宇宙ステーション、『新・紅』にサヨコが派遣されるって」
 サヨコはきょとんとした。
「さっきって……いつごろ?」
「えーとね。昼休みに入ったころ。何でも、フィスがぼやいてたんだって、カナンが何を考えているのかわからない、とか何とか。いつもの派手なアクションでね…サヨコ?」
「そんな…」
 サヨコは思わず立ち上がった。膝が当たってがたんとテーブルが揺れ、その痛みで我に返る。うろたえて呟いた。
「わたし……宇宙へなんて……いけない……いけないわ」
「サヨコ」
 サヨコのあまりのうろたえぶりに、エリカの方が驚いた顔になっている。
「…フィスにもう1度、話してくる!」
 エリカをテーブルに残して身を翻し、サヨコは人事部へ駆け戻っていった。
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