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14.『恋慕を保つなかれ』(1)
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「お世話になりましたぁ」
カザルが荷物を抱えて機嫌よく挨拶にきて、オウライカは少しの間固まった。
朝日の中、念入りに身支度をしたのだろう、滑らかな頬に風呂上がりの清冽さを浮かべて、にこにこ笑っている。伸びた髪をきゅ、っと後ろで縛って簪を付けているが、ほつれた短い髪が耳たぶや首筋にかかっているのを、ついまじまじと眺めて、
「オウライカさん?」
「あ、ああ」
呼び掛けられて我に返った。
頭の隅を過った蒼銀の輪を急いで払いのけ、自分の煮詰まった発想に眉を寄せながら瞬きする。
「もう行くのか?」
「うん、ブライアンさん、送ってくれるって言うし」
「そうか」
今日のシャツは白でスラックスは淡い茶色だ。地味な色合いだが、興奮しているのかわずかに染まった頬や唇がいつもより色づいているのがよくわかる。
「無茶なことするなよ?」
「あんたこそ」
に、と不敵な笑みが広がった。
「俺以外に殺されるようなへましないでね。あんたは」
一瞬奇妙な顔でカザルはぴたりと口を閉じた。引きつったようにそのままごくん、と唾を呑み、掠れた声で呟く。
「あんたは、俺の標的、なんだから」
「気をつけよう」
くすりと笑って机から離れた。もっとも、君ほどの刺客には今まで会わなかったから大丈夫だろう、と請け負ってカザルの側に近寄ると、わずかに身を竦めたのがわかって立ち止まる。
「?」
「あの、さ」
「ん?」
「聞いていい? もう、こんな機会ないから」
「何を?」
「……シューラさんの………初音、って聞いたの?」
「は?」
何を言い出すのかと訝しく相手を見ると、大きな目を一杯に見開いてこちらを凝視している。
「や、だからさ、ほら、俺、『塔京』もんだし、よくわかんないし、ブライアンさんもはっきり言わなかったし」
「ああ」
それはブライアンも話せまい、と苦笑したのをどう取ったのか、カザルの顔色がわずかに白くなった。
「あの、あのさ、俺もあそこに住むんなら、それぐらい知っておかないとだめだし、俺、俺の初音をオウライカさんがどうこうってことはないけど、あの」
「ああ、それはないだろう」
オウライカは苦笑を深めた。
「君が聞かせてくれるとは思えない。というか、そもそも初音というのはありえないだろう、君の場合」
「あ…うん……」
さらっと流したとたんにぼうっとカザルが立ち竦んだ。
「カザル?」
「うん………ありえない……そっか………そだよね……ありえない…もんね……」
小さな声で呟きながらどんどん俯いていってしまう。
「俺……あんたが……初めて、じゃ……ないもんね……」
「は?」
オウライカは瞬きした。今何か妙なことを言わなかったか、こいつは、と眉を寄せて見つめると、視線に気づいたのだろう、はっとしたようにカザルが顔を上げる。
「っ」
その一瞬。
琥珀色の瞳を一杯にしていたのは、紛れもない涙で。
けれど次の一瞬、それが弾けるような笑いになった。
「あはははははっ」
「カザル?」
「や、じゃあ、あんたの癖なんだ、あれ」
「癖?」
「声を聞かせろってベッドで言うの。それとも仕事?」
「あのな、カザル」
あ、これは完全に勘違いしてやしないか、そう気づいて、オウライカは溜め息をついて手を伸ばした。だが、すっとその指先から身を引いて、さっきまで潤んですがるようだった瞳にはっきり殺意を漲らせた相手に思わず立ち止まる。
「…覚悟して」
「……」
「俺は離れた方が動きが早いよ」
「………わかった」
いつかの『塔京』の夜に見た、自らを傷つけながら闇に跳ねる獣の顔が戻っている。
そうだ、カザルは『塔京』の刺客だったのだな、とオウライカはほろ苦い思いでうなずいた。
任務に便利だったからオウライカの側で大人しくしていた。それがより効率的な方法を探しに離れていく、そういうことなのだ。
『華街』には『塔京』ものも頻繁に出入りする。誰と連絡を取るのも、ここにいるよりはうんと簡単だ。リヤンやフランシカがやすやすと許すとは思えないが、暗器のようなものを持ち込ませることだってできるだろう。
首輪をつけて手元に置いていた野性の獣を、今武器を与えて野に放つ、そういうことだと覚悟しろと言われているのだ。
「君の力を見くびったりはしない」
オウライカは微笑んだ。
「全力で来い。返り討ちに会いたくないならな」
「当然」
に、とカザルは笑った。抱えた荷物ごと、くるっと向きを変えて部屋を出て行こうとし、ふと立ち止まる。
「……オウライカさん」
「ん」
「……俺………ちょっとだけ、一瞬だけ」
背中を向けたまま呟いて、カザルは口を噤んだ。きらきらと蒼銀の簪が日を跳ねる。ああ、蝶が対で舞ってるな、と思ったオウライカの目の前で、何かを堪えるようにぎゅ、とカザルの体に力が入る。
やがて、低く微かな声でぽつんと、
「『斎京』に生まれたかったなって、思った」
頼りない響きに胸を掴まれた。芝居でもいい、この場で殺されてやってもいいから、肩を握って引き寄せて、そのまま胸に抱き込んでやろうとさえ思った。
だが。
だが。
「カザ…」
「次会う時はっ」
ためらったオウライカの声を遮って、ぐい、とカザルが顔を上げて肩越しに視線を投げてきた。
「あんたが、死ぬ時だから」
ちかりと光った目をオウライカが捉えた瞬間、表情をなくした顔を緩やかに戻して、カザルはまっすぐ歩み去っていった。
カザルが荷物を抱えて機嫌よく挨拶にきて、オウライカは少しの間固まった。
朝日の中、念入りに身支度をしたのだろう、滑らかな頬に風呂上がりの清冽さを浮かべて、にこにこ笑っている。伸びた髪をきゅ、っと後ろで縛って簪を付けているが、ほつれた短い髪が耳たぶや首筋にかかっているのを、ついまじまじと眺めて、
「オウライカさん?」
「あ、ああ」
呼び掛けられて我に返った。
頭の隅を過った蒼銀の輪を急いで払いのけ、自分の煮詰まった発想に眉を寄せながら瞬きする。
「もう行くのか?」
「うん、ブライアンさん、送ってくれるって言うし」
「そうか」
今日のシャツは白でスラックスは淡い茶色だ。地味な色合いだが、興奮しているのかわずかに染まった頬や唇がいつもより色づいているのがよくわかる。
「無茶なことするなよ?」
「あんたこそ」
に、と不敵な笑みが広がった。
「俺以外に殺されるようなへましないでね。あんたは」
一瞬奇妙な顔でカザルはぴたりと口を閉じた。引きつったようにそのままごくん、と唾を呑み、掠れた声で呟く。
「あんたは、俺の標的、なんだから」
「気をつけよう」
くすりと笑って机から離れた。もっとも、君ほどの刺客には今まで会わなかったから大丈夫だろう、と請け負ってカザルの側に近寄ると、わずかに身を竦めたのがわかって立ち止まる。
「?」
「あの、さ」
「ん?」
「聞いていい? もう、こんな機会ないから」
「何を?」
「……シューラさんの………初音、って聞いたの?」
「は?」
何を言い出すのかと訝しく相手を見ると、大きな目を一杯に見開いてこちらを凝視している。
「や、だからさ、ほら、俺、『塔京』もんだし、よくわかんないし、ブライアンさんもはっきり言わなかったし」
「ああ」
それはブライアンも話せまい、と苦笑したのをどう取ったのか、カザルの顔色がわずかに白くなった。
「あの、あのさ、俺もあそこに住むんなら、それぐらい知っておかないとだめだし、俺、俺の初音をオウライカさんがどうこうってことはないけど、あの」
「ああ、それはないだろう」
オウライカは苦笑を深めた。
「君が聞かせてくれるとは思えない。というか、そもそも初音というのはありえないだろう、君の場合」
「あ…うん……」
さらっと流したとたんにぼうっとカザルが立ち竦んだ。
「カザル?」
「うん………ありえない……そっか………そだよね……ありえない…もんね……」
小さな声で呟きながらどんどん俯いていってしまう。
「俺……あんたが……初めて、じゃ……ないもんね……」
「は?」
オウライカは瞬きした。今何か妙なことを言わなかったか、こいつは、と眉を寄せて見つめると、視線に気づいたのだろう、はっとしたようにカザルが顔を上げる。
「っ」
その一瞬。
琥珀色の瞳を一杯にしていたのは、紛れもない涙で。
けれど次の一瞬、それが弾けるような笑いになった。
「あはははははっ」
「カザル?」
「や、じゃあ、あんたの癖なんだ、あれ」
「癖?」
「声を聞かせろってベッドで言うの。それとも仕事?」
「あのな、カザル」
あ、これは完全に勘違いしてやしないか、そう気づいて、オウライカは溜め息をついて手を伸ばした。だが、すっとその指先から身を引いて、さっきまで潤んですがるようだった瞳にはっきり殺意を漲らせた相手に思わず立ち止まる。
「…覚悟して」
「……」
「俺は離れた方が動きが早いよ」
「………わかった」
いつかの『塔京』の夜に見た、自らを傷つけながら闇に跳ねる獣の顔が戻っている。
そうだ、カザルは『塔京』の刺客だったのだな、とオウライカはほろ苦い思いでうなずいた。
任務に便利だったからオウライカの側で大人しくしていた。それがより効率的な方法を探しに離れていく、そういうことなのだ。
『華街』には『塔京』ものも頻繁に出入りする。誰と連絡を取るのも、ここにいるよりはうんと簡単だ。リヤンやフランシカがやすやすと許すとは思えないが、暗器のようなものを持ち込ませることだってできるだろう。
首輪をつけて手元に置いていた野性の獣を、今武器を与えて野に放つ、そういうことだと覚悟しろと言われているのだ。
「君の力を見くびったりはしない」
オウライカは微笑んだ。
「全力で来い。返り討ちに会いたくないならな」
「当然」
に、とカザルは笑った。抱えた荷物ごと、くるっと向きを変えて部屋を出て行こうとし、ふと立ち止まる。
「……オウライカさん」
「ん」
「……俺………ちょっとだけ、一瞬だけ」
背中を向けたまま呟いて、カザルは口を噤んだ。きらきらと蒼銀の簪が日を跳ねる。ああ、蝶が対で舞ってるな、と思ったオウライカの目の前で、何かを堪えるようにぎゅ、とカザルの体に力が入る。
やがて、低く微かな声でぽつんと、
「『斎京』に生まれたかったなって、思った」
頼りない響きに胸を掴まれた。芝居でもいい、この場で殺されてやってもいいから、肩を握って引き寄せて、そのまま胸に抱き込んでやろうとさえ思った。
だが。
だが。
「カザ…」
「次会う時はっ」
ためらったオウライカの声を遮って、ぐい、とカザルが顔を上げて肩越しに視線を投げてきた。
「あんたが、死ぬ時だから」
ちかりと光った目をオウライカが捉えた瞬間、表情をなくした顔を緩やかに戻して、カザルはまっすぐ歩み去っていった。
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