197 / 213
107.『化身』(2)
しおりを挟む
白くキラキラした空間にライヤーはカークを抱えて浮かんでいる。
「出口はどこだ?」
どこから聞こえたのだろう、オウライカの呼び声は。
カークの問いに目を凝らした。
自分の体が巨大化し、硬く巌のようにごつごつとした塊に変わっているのを感じる。両手に抱えたカークが今にも指の間で握り潰せそうでひやひやする。
「…あそこです、カークさん」
ようやく見つけた出口は、遥か彼方の空間に黒い染みとなって見えていた。
「行けるか?」
「もちろん」
速度を上げながら同時に怯む気持ちがみるみる広がった。
『この紅茶、美味しいね』
優しく笑う顔が脳裏に過る。
『オレンジ・ピールが入っているんだ。気に入ったならあげるけど』
『いや……いいかな。そらはあまり好きじゃないみたいだ』
『ふうん?』
そらが好きじゃないのは、オレンジ入りの紅茶じゃなくて、もりとと親しく話している自分じゃないかと思ったが黙ってななくは頷いた。
おおき・そらが滅亡と崩壊に進みつつある世界を憂えて、母親とは違う方向で解決しようとした『桜樹』プランは面白いとは思う。月基地『うさぎ』への移住で人類を存続させようと言う考えも間違ってはいないと感じる。
もちろん、人殺し兵器を開発した研究者の息子が、一体何を言ってるんだという輩もいるし、月基地『うさぎ』への移住で人類を存続させようと言う考えも優生思想だのエリートの差別意識だのと反感があるのも知っている。
そらやもりとのように人体からの正常出産で産まれた者と、ななくのように人工授精を基本として受胎ケースで生まれた者には、厳然とした社会的な格差があって、そらやもりとは意識したことがないだろうけれど、世界で戦争が絶えない底には、そう言う『意識されることもない違いへの認識不足』がある。
例えば、進路として『うさぎ』をあっさり選べる人間と、辿り着くための旅費から捻出しなければならない人間の差、のように。
大事で貴重な紅茶を『上げる』と伝える決心を、さらりと断ってしまえるぐらいの扱いにしてしまえるように。
「…」
ななくは大切に淹れた紅茶を丁寧に含む。
ほのかに甘くて酸味のあるこの紅茶を、特別な時にしか飲まないと教えたら、もりとはどんな顔をするだろう。
けれど伝える気はない、この先ずっと。
伝えられないまま、顔を見ているのが苦しいから『桜樹』に参加しないのだと言ったら、もりとはどんな顔をするだろう。
たぶん、困ったような、不安なような、優しい笑顔。
その時初めて、ななくが、本来ならば参加することも厳しい上級レベルのプロジェクトに、どれだけの決意と覚悟と努力で潜り込んだのかを理解するのだろう。
崩壊する未来ではない、今ここで倒れている仲間を支えたい。
ななくの願いはそこにしかなかった。
初めから一人でしかなかった。
だから終わりも一人で迎えるはずなのだろう。
けれど、あの時。
『……98%…?』
地球で死滅した人類のパーセンテージに頭が痺れるような感覚があった。
それでは足りない。
背筋を走り上がる恐怖と共に、この先に起こる出来事を正確に弾き出す思考を恨んだ。5%がぎりぎりで8%でようやく叶う、そんな数字だったはずだ。
なのに、残存個体数、しかも不完全なものを入れても2%しか残っていない人類が、どうやって種族を保存して行くのか、『SORA』に穿たれ荒れ果てた地上で。
『桜樹』は失敗する。
地上の人類の状況は『うさぎ』にも衝撃をもたらした。誰もが生き延びる気力を失った。自分達が最後の砦だと言う自負さえ圧力と脅迫にしかならなかった。
滅びて行く、滅びて行く。
人がこれほど心の傷みに脆いなんて誰が研究していただろう。
『うさぎ』の中でも自殺・自傷・発病・故意としか思えない怪我・互いへの攻撃が増えていった。
『脱出が必要だと思う』
もう地上には戻れない。『うさぎ』の結論は固まりつつあった。
『もう一度だけ、地上を確認したい』
地上に降りると言い出したななくを止める者はいなかった。
宙港はまともに機能していなかった。『桜樹』にはコードを打ち込んだときだけ開閉するヘリポートがあって、そこは生きていたからなんとか降りたが、着陸時に機体は損傷し、もう飛び立てないとわかった。
『うさぎ』に居る間に事故があって、体を半分機械化していたから無事だった。
少ない酸素でもやっていけるようになっていたし、食べ物も水も通常の1/3で維持できる。瓦礫を持ち上げ、狭い通路を破砕し、歪んだ扉を爆破して入り込むことも容易かった。
死臭と汚泥。
『桜樹』には人と呼べるものなどいなかった。
『……もりと……?』
一つの部屋に入り込んで、壁に寄りかかった白骨化した死骸があった部屋に、見覚えのあるカップがあった。
『桜樹』と『うさぎ』に道を分かった日、それとは知らせずお揃いにしたカップだった。今は彼方の『うさぎ』の一室で、うまく働かなくなった古いUSBが放り込んである、そのカップと色違いのものだった。
部屋を見渡し、もりとが持っていた幾つもの手回り品を確認した。
皮肉なことに電源は生きていた。
何度も確認し確実にバックアップを残せるように、最悪を考えて最善のものを整えた施設の設備は生きていた。
データを確認し、施設内を調べ、ななくは理解した、何があったのかを。
『……もりと……そら……あかね……』
施設の外には幾つかの生物のコロニーがあった。そのどこかにあかねが居るのかも知れないが、正気ではないだろうし、生きてもいないのだろう。
自分は終焉を見届けに来たのだ。
ななくは亡霊のように歩き回り、一人の子どもが溶液に浮かんでいるのを見つけた。
『……もりと…と……あかね……の…?』
遺伝子情報は二人のDNAを含んだ個体であること、しかも、それが全てをチェックしても健全な個体であることを示している。
『僕がきたのは、このため…なのか』
ラズ・ルーン。枯れた泉。
懐かしく響く、母国のことば。
たとえ受胎ケースのセンターであっても、彼を育てようとして差し伸べられた手を思い出す。
『……蘇らせてみせる』
戦乱で残された、この傷んだ世界を、命の雫で潤すのだ。
連絡のために通信機のスイッチを入れた。
「出口はどこだ?」
どこから聞こえたのだろう、オウライカの呼び声は。
カークの問いに目を凝らした。
自分の体が巨大化し、硬く巌のようにごつごつとした塊に変わっているのを感じる。両手に抱えたカークが今にも指の間で握り潰せそうでひやひやする。
「…あそこです、カークさん」
ようやく見つけた出口は、遥か彼方の空間に黒い染みとなって見えていた。
「行けるか?」
「もちろん」
速度を上げながら同時に怯む気持ちがみるみる広がった。
『この紅茶、美味しいね』
優しく笑う顔が脳裏に過る。
『オレンジ・ピールが入っているんだ。気に入ったならあげるけど』
『いや……いいかな。そらはあまり好きじゃないみたいだ』
『ふうん?』
そらが好きじゃないのは、オレンジ入りの紅茶じゃなくて、もりとと親しく話している自分じゃないかと思ったが黙ってななくは頷いた。
おおき・そらが滅亡と崩壊に進みつつある世界を憂えて、母親とは違う方向で解決しようとした『桜樹』プランは面白いとは思う。月基地『うさぎ』への移住で人類を存続させようと言う考えも間違ってはいないと感じる。
もちろん、人殺し兵器を開発した研究者の息子が、一体何を言ってるんだという輩もいるし、月基地『うさぎ』への移住で人類を存続させようと言う考えも優生思想だのエリートの差別意識だのと反感があるのも知っている。
そらやもりとのように人体からの正常出産で産まれた者と、ななくのように人工授精を基本として受胎ケースで生まれた者には、厳然とした社会的な格差があって、そらやもりとは意識したことがないだろうけれど、世界で戦争が絶えない底には、そう言う『意識されることもない違いへの認識不足』がある。
例えば、進路として『うさぎ』をあっさり選べる人間と、辿り着くための旅費から捻出しなければならない人間の差、のように。
大事で貴重な紅茶を『上げる』と伝える決心を、さらりと断ってしまえるぐらいの扱いにしてしまえるように。
「…」
ななくは大切に淹れた紅茶を丁寧に含む。
ほのかに甘くて酸味のあるこの紅茶を、特別な時にしか飲まないと教えたら、もりとはどんな顔をするだろう。
けれど伝える気はない、この先ずっと。
伝えられないまま、顔を見ているのが苦しいから『桜樹』に参加しないのだと言ったら、もりとはどんな顔をするだろう。
たぶん、困ったような、不安なような、優しい笑顔。
その時初めて、ななくが、本来ならば参加することも厳しい上級レベルのプロジェクトに、どれだけの決意と覚悟と努力で潜り込んだのかを理解するのだろう。
崩壊する未来ではない、今ここで倒れている仲間を支えたい。
ななくの願いはそこにしかなかった。
初めから一人でしかなかった。
だから終わりも一人で迎えるはずなのだろう。
けれど、あの時。
『……98%…?』
地球で死滅した人類のパーセンテージに頭が痺れるような感覚があった。
それでは足りない。
背筋を走り上がる恐怖と共に、この先に起こる出来事を正確に弾き出す思考を恨んだ。5%がぎりぎりで8%でようやく叶う、そんな数字だったはずだ。
なのに、残存個体数、しかも不完全なものを入れても2%しか残っていない人類が、どうやって種族を保存して行くのか、『SORA』に穿たれ荒れ果てた地上で。
『桜樹』は失敗する。
地上の人類の状況は『うさぎ』にも衝撃をもたらした。誰もが生き延びる気力を失った。自分達が最後の砦だと言う自負さえ圧力と脅迫にしかならなかった。
滅びて行く、滅びて行く。
人がこれほど心の傷みに脆いなんて誰が研究していただろう。
『うさぎ』の中でも自殺・自傷・発病・故意としか思えない怪我・互いへの攻撃が増えていった。
『脱出が必要だと思う』
もう地上には戻れない。『うさぎ』の結論は固まりつつあった。
『もう一度だけ、地上を確認したい』
地上に降りると言い出したななくを止める者はいなかった。
宙港はまともに機能していなかった。『桜樹』にはコードを打ち込んだときだけ開閉するヘリポートがあって、そこは生きていたからなんとか降りたが、着陸時に機体は損傷し、もう飛び立てないとわかった。
『うさぎ』に居る間に事故があって、体を半分機械化していたから無事だった。
少ない酸素でもやっていけるようになっていたし、食べ物も水も通常の1/3で維持できる。瓦礫を持ち上げ、狭い通路を破砕し、歪んだ扉を爆破して入り込むことも容易かった。
死臭と汚泥。
『桜樹』には人と呼べるものなどいなかった。
『……もりと……?』
一つの部屋に入り込んで、壁に寄りかかった白骨化した死骸があった部屋に、見覚えのあるカップがあった。
『桜樹』と『うさぎ』に道を分かった日、それとは知らせずお揃いにしたカップだった。今は彼方の『うさぎ』の一室で、うまく働かなくなった古いUSBが放り込んである、そのカップと色違いのものだった。
部屋を見渡し、もりとが持っていた幾つもの手回り品を確認した。
皮肉なことに電源は生きていた。
何度も確認し確実にバックアップを残せるように、最悪を考えて最善のものを整えた施設の設備は生きていた。
データを確認し、施設内を調べ、ななくは理解した、何があったのかを。
『……もりと……そら……あかね……』
施設の外には幾つかの生物のコロニーがあった。そのどこかにあかねが居るのかも知れないが、正気ではないだろうし、生きてもいないのだろう。
自分は終焉を見届けに来たのだ。
ななくは亡霊のように歩き回り、一人の子どもが溶液に浮かんでいるのを見つけた。
『……もりと…と……あかね……の…?』
遺伝子情報は二人のDNAを含んだ個体であること、しかも、それが全てをチェックしても健全な個体であることを示している。
『僕がきたのは、このため…なのか』
ラズ・ルーン。枯れた泉。
懐かしく響く、母国のことば。
たとえ受胎ケースのセンターであっても、彼を育てようとして差し伸べられた手を思い出す。
『……蘇らせてみせる』
戦乱で残された、この傷んだ世界を、命の雫で潤すのだ。
連絡のために通信機のスイッチを入れた。
0
お気に入りに追加
45
あなたにおすすめの小説
公開凌辱される話まとめ
たみしげ
BL
BLすけべ小説です。
・性奴隷を飼う街
元敵兵を性奴隷として飼っている街の話です。
・玩具でアナルを焦らされる話
猫じゃらし型の玩具を開発済アナルに挿れられて啼かされる話です。
僕が玩具になった理由
Me-ya
BL
🈲R指定🈯
「俺のペットにしてやるよ」
眞司は僕を見下ろしながらそう言った。
🈲R指定🔞
※この作品はフィクションです。
実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
※この小説は他の場所で書いていましたが、携帯が壊れてスマホに替えた時、小説を書いていた場所が分からなくなってしまいました😨
ので、ここで新しく書き直します…。
(他の場所でも、1カ所書いていますが…)
身体検査
RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、
選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。
旦那様、お仕置き、監禁
夜ト
BL
愛玩ペット販売店はなんと、孤児院だった。
まだ幼い子供が快感に耐えながら、ご主人様に・・・・。
色々な話あり、一話完結ぽく見てください
18禁です、18歳より下はみないでね。
【R18】奴隷に堕ちた騎士
蒼い月
BL
気持ちはR25くらい。妖精族の騎士の美青年が①野盗に捕らえられて調教され②闇オークションにかけられて輪姦され③落札したご主人様に毎日めちゃくちゃに犯され④奴隷品評会で他の奴隷たちの特殊プレイを尻目に乱交し⑤縁あって一緒に自由の身になった両性具有の奴隷少年とよしよし百合セックスをしながらそっと暮らす話。9割は愛のないスケベですが、1割は救済用ラブ。サブヒロインは主人公とくっ付くまで大分可哀想な感じなので、地雷の気配を感じた方は読み飛ばしてください。
※主人公は9割突っ込まれてアンアン言わされる側ですが、終盤1割は突っ込む側なので、攻守逆転が苦手な方はご注意ください。
誤字報告は近況ボードにお願いします。無理やり何となくハピエンですが、不幸な方が抜けたり萌えたりする方は3章くらいまでをおススメします。
※無事に完結しました!
壁穴奴隷No.19 麻袋の男
猫丸
BL
壁穴奴隷シリーズ・第二弾、壁穴奴隷No.19の男の話。
麻袋で顔を隠して働いていた壁穴奴隷19番、レオが誘拐されてしまった。彼の正体は、実は新王国の第二王子。変態的な性癖を持つ王子を連れ去った犯人の目的は?
シンプルにドS(攻)✕ドM(受※ちょっとビッチ気味)の組合せ。
前編・後編+後日談の全3話
SM系で鞭多めです。ハッピーエンド。
※壁穴奴隷シリーズのNo.18で使えなかった特殊性癖を含む内容です。地雷のある方はキーワードを確認してからお読みください。
※No.18の話と世界観(設定)は一緒で、一部にNo.18の登場人物がでてきますが、No.19からお読みいただいても問題ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる