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男は、氷川退蔵、といった。四十六歳。大都市から離れた小さな街からやってきた。
表向きは南大路製紙のパート作業員だが、本当は裏の施設で働いていて、もう十年そこそこになる。使っている溶剤のせいか、最近体の調子が悪くて、ここにいるのもそろそろ潮時かもしれないと考えながら入浴していた。
氷川が秋野さんを見つけたのは偶然だ。
一番面倒な廃液処理を終えて、夜食でも買いに行こうと、工場裏手の細い専用通路から出たら、川べりに秋野さんがうずくまっていたのだ。
実は、秋野さんを見たのは初めてではなくて、前にも一度、おかしなところにおかしな人間がいる、と気にはしていた。どう見ても大学生かそこら、友達と待ち合わせている雰囲気でも場所でもない。夜目に目立たない格好をしているのも引っ掛かった。
一回目に見かけたのはこの風呂場からで、そのときは、後ろ暗いことをしているからだと自分を納得させたが、今度は二回目、偶然にしてはおかしすぎる。
表から回って夜食を買って戻り、担当の石崎に報告すると、いつものように、これだから学のない男は、とか文句をいわれた。だが、石崎も、氷川が秋野さんを見かけたのが排水口の辺りで、しかも今夜で二度目だと知ると、対応をがらりと変えた。
『始末してしまおう』と言い出したのは、石崎のほうだ。
氷川は怯んだ。
秋野さんが、彼の仕送りを待つ、故郷にいる娘と同じぐらいだとわかったからだ。
けれど、わしはここでしか働けないから、そうするしかないんだ、と氷川は考えていた。
そうするしか、というのは、今夜、秋野さんの首を締めてしまおうということだ。
俺は必死に、氷川が水に残したその先の感情を拾おうとした。けれど、それが一番強くてはっきりした感情で、後は、秋野さんが、この同じ棟のどこかに監禁されていることぐらいしかわからない。
氷川は、そのことについてはもう本当に考えたくなかったのだろう。秋野さんがどこに居るのかさえ、『そのとき』までは考えるまいとして、入浴を終えている。
『そのとき』は、仮眠を終えた氷川が目覚めたとき、夕方の終業サイレンが鳴り終わって、人の気配が消えたとき、と決めたようだ。
俺は、氷川の感情の中でちらりと一瞬『見えた』秋野さんの映像を細かく分析しながら、蛇口に擦り寄っていった。体を延ばし、蛇口に満ちている水に触れ、今得たばかりの情報を水に広げる。もし、その部屋に水道があれば、この蛇口を伝っていけるはずだ。
答えは意外に早く見つかった。
秋野さんが閉じ込められている部屋は、一般従業員は近づかない奥まった倉庫だ。秋野さんは昨夜押し込められて、今もそこにいる。
俺は蛇口から体を突っ込んだ。体を薄く柔らかにして、水の間へ滑り込ませていく。俺の体が水道の中へ入り込んでいくに従って、あふれた水が、がぶっ、がぶっと蛇口からこぼれた。風呂場のことだし、ついさっきまで人が入っていたのだから、気にする人間は少ないだろう。
水道には水が一杯に詰まっている。それと同じに、情報も一杯に詰まっていた。
南大路製紙が特殊な溶剤を使って作っている紙製品は、発色がよくて丈夫なものとして知られていた。おまけに、それは、南大路製紙が総力を挙げて開発した、環境に優しいリサイクル製品だということになっていることもわかった。
この商品のお陰で、南大路製紙の社会的信用も株も上がり、業界では密かに内部抗争が始まりつつあることもわかった。宮内が秋野さんに回したバイトも、意外と同業者からの調査依頼だったのかもしれない。
それは、秋野さんが、決して外に生かして出してはならない類の人間だということも意味している。
俺はなおも速度を上げた。
少しずつ、少しずつ、秋野さんに近づいている。少しずつ少しずつ、秋野さんの柔らかな波動が濃くなる水が増えてくる。
人の発するエネルギーがこれほど水に記憶されていることを人間が知ったのなら、そうそうむやみやたらと荒い気持ちで水に近づけないはずだ。
秋野さんの閉じ込められている倉庫の隣には、掃除用に小さな洗面所が設置されていた。その水道は古くて締まりが悪いために、ぽたぽたと常にわずかな水が漏れている。
そこまでようやくたどり着いた。
半端に開いた管の中を抜け、水と一緒に蛇口の先から伝い降りる。
銀色の管の先からつるつると滴り落ちていくコバルト・ブルーの液体を見ていたものがいれば、そいつはしばらく悪夢にうなされたことだろう。俺はまっすぐに体を延ばしていきながら、そのまま排水口には落ち込まず、途中でうねうねと体をひねって進路を変えて洗面所の壁にへばりつき、残った体を蛇口から引っ張り出しながら、床へと這い降りていったのだから。
洗面所の下に置かれていたバケツの横を抜け、壁際に沿ってとろとろと移動し、倉庫のドアにたどり着く。ドアの下にはわずかだけど透き間があった。そこから中へ滑り込もうとした矢先、人の話し声がして、床と壁の間に細長く張りついたまま、俺は動きを止めた。
「まだ、始末してねえのか」
「けれど、石崎さん」
野太い声に、困り切った弱々しい声が反論している。
「まだ昼間だし、声でも出されちゃことだし」
「こっちに誰が来るっていうんだ、ええ?」
廊下の向こうから、二人の男が歩いてきた。
一人は紺色の背広姿に岩のようなしかめっ面の男、もう一人は、灰色でくたびれた作業服を着た土色の顔の男。
石崎と氷川だ。
「けどね、何も殺さなくても」
「ばかか、おまえは」
氷川のことばに、石崎は呆れたように言い放った。
「見ただろ、あのガキのカメラ? 排水口を撮ってやがった。近ごろのガキは金次第でどこへでも転ぶからな、黙らせておくにかぎる」
「でも、じゃあ、わしでなくても」
「ばかだろ、おまえ。他に誰が手があいてる? ろくすっぽ働けねえおまえを雇ってたのは、こういうときのためじゃねえのかよ」
氷川は顔をゆがめて、目を逸らせた。
「日ごろの恩に報いようって気にはならねえのかよ」
石崎は好き放題脅して、鼻にしわを寄せ、猛々しい笑いを浮かべて立ち止まる。
「ったく、真っ昼間から風呂なんか入れるのは、誰のおかげだと思ってるんだ、ああ?」
氷川も恨めしそうな顔になって止まる。
「ほらよ、今なら逆に誰も来ねえ。表で立ってて見てやるから今のうちに始末しちまえ」
俺は壁際に張りついたまま、忙しく思考を巡らせた。
このままだと、秋野さんは俺の目の前で奴らに殺されてしまう。なのに、長い間管を伝ってきたせいで、俺の体はもう片手さえ再現できないほどに減ってしまっている。今すぐにドアの透き間から忍び込んで、中にいる秋野さんに危険だけでも知らせるしかない。
悲壮な決意を固めた瞬間、
「石崎さあん。こっちにいらっしゃいますかあ」
間の抜けた呼び声が廊下の彼方から響いた。
「おう」
石崎がうっとうしそうに振り返る。氷川が露骨にほっとした顔になって、体の力を抜くのがわかった。
「わかった、行くよ」
石崎は鋭い舌打ちをして、向きを変えた。じろりと目を逸らせたままの氷川をねめつけ、憎々しげにつぶやく。
「氷川あ、そら見ろ、おまえがぐずぐずしてっから」
半端なところで声がかかったせいで、氷川は気持ちを通すことに決めたらしい。
「わしは、今は、しません」
低い声で、それでも氷川はきっぱりといい返した。
「けっ」
石崎は吐き捨てるような声を出して、これみよがしに氷川を見た。
「行くぞ、くず」
ゆっくりと両肩を揺すりながら遠ざかっていく石崎の後ろから、影のように氷川が付き従って行く。
俺は体中の緊張を解いた。気持ちの上だけでなく、体を張りつかせておくための緊張も解けて一気に感覚がふわふわと頼りなくなってしまい、そのまま気を失いそうな気がした。
のんびりしてはいられない。これ以上の邪魔がはいらないうちに、とドアの透き間からずるずると体を中へ押し込んで行く。
表向きは南大路製紙のパート作業員だが、本当は裏の施設で働いていて、もう十年そこそこになる。使っている溶剤のせいか、最近体の調子が悪くて、ここにいるのもそろそろ潮時かもしれないと考えながら入浴していた。
氷川が秋野さんを見つけたのは偶然だ。
一番面倒な廃液処理を終えて、夜食でも買いに行こうと、工場裏手の細い専用通路から出たら、川べりに秋野さんがうずくまっていたのだ。
実は、秋野さんを見たのは初めてではなくて、前にも一度、おかしなところにおかしな人間がいる、と気にはしていた。どう見ても大学生かそこら、友達と待ち合わせている雰囲気でも場所でもない。夜目に目立たない格好をしているのも引っ掛かった。
一回目に見かけたのはこの風呂場からで、そのときは、後ろ暗いことをしているからだと自分を納得させたが、今度は二回目、偶然にしてはおかしすぎる。
表から回って夜食を買って戻り、担当の石崎に報告すると、いつものように、これだから学のない男は、とか文句をいわれた。だが、石崎も、氷川が秋野さんを見かけたのが排水口の辺りで、しかも今夜で二度目だと知ると、対応をがらりと変えた。
『始末してしまおう』と言い出したのは、石崎のほうだ。
氷川は怯んだ。
秋野さんが、彼の仕送りを待つ、故郷にいる娘と同じぐらいだとわかったからだ。
けれど、わしはここでしか働けないから、そうするしかないんだ、と氷川は考えていた。
そうするしか、というのは、今夜、秋野さんの首を締めてしまおうということだ。
俺は必死に、氷川が水に残したその先の感情を拾おうとした。けれど、それが一番強くてはっきりした感情で、後は、秋野さんが、この同じ棟のどこかに監禁されていることぐらいしかわからない。
氷川は、そのことについてはもう本当に考えたくなかったのだろう。秋野さんがどこに居るのかさえ、『そのとき』までは考えるまいとして、入浴を終えている。
『そのとき』は、仮眠を終えた氷川が目覚めたとき、夕方の終業サイレンが鳴り終わって、人の気配が消えたとき、と決めたようだ。
俺は、氷川の感情の中でちらりと一瞬『見えた』秋野さんの映像を細かく分析しながら、蛇口に擦り寄っていった。体を延ばし、蛇口に満ちている水に触れ、今得たばかりの情報を水に広げる。もし、その部屋に水道があれば、この蛇口を伝っていけるはずだ。
答えは意外に早く見つかった。
秋野さんが閉じ込められている部屋は、一般従業員は近づかない奥まった倉庫だ。秋野さんは昨夜押し込められて、今もそこにいる。
俺は蛇口から体を突っ込んだ。体を薄く柔らかにして、水の間へ滑り込ませていく。俺の体が水道の中へ入り込んでいくに従って、あふれた水が、がぶっ、がぶっと蛇口からこぼれた。風呂場のことだし、ついさっきまで人が入っていたのだから、気にする人間は少ないだろう。
水道には水が一杯に詰まっている。それと同じに、情報も一杯に詰まっていた。
南大路製紙が特殊な溶剤を使って作っている紙製品は、発色がよくて丈夫なものとして知られていた。おまけに、それは、南大路製紙が総力を挙げて開発した、環境に優しいリサイクル製品だということになっていることもわかった。
この商品のお陰で、南大路製紙の社会的信用も株も上がり、業界では密かに内部抗争が始まりつつあることもわかった。宮内が秋野さんに回したバイトも、意外と同業者からの調査依頼だったのかもしれない。
それは、秋野さんが、決して外に生かして出してはならない類の人間だということも意味している。
俺はなおも速度を上げた。
少しずつ、少しずつ、秋野さんに近づいている。少しずつ少しずつ、秋野さんの柔らかな波動が濃くなる水が増えてくる。
人の発するエネルギーがこれほど水に記憶されていることを人間が知ったのなら、そうそうむやみやたらと荒い気持ちで水に近づけないはずだ。
秋野さんの閉じ込められている倉庫の隣には、掃除用に小さな洗面所が設置されていた。その水道は古くて締まりが悪いために、ぽたぽたと常にわずかな水が漏れている。
そこまでようやくたどり着いた。
半端に開いた管の中を抜け、水と一緒に蛇口の先から伝い降りる。
銀色の管の先からつるつると滴り落ちていくコバルト・ブルーの液体を見ていたものがいれば、そいつはしばらく悪夢にうなされたことだろう。俺はまっすぐに体を延ばしていきながら、そのまま排水口には落ち込まず、途中でうねうねと体をひねって進路を変えて洗面所の壁にへばりつき、残った体を蛇口から引っ張り出しながら、床へと這い降りていったのだから。
洗面所の下に置かれていたバケツの横を抜け、壁際に沿ってとろとろと移動し、倉庫のドアにたどり着く。ドアの下にはわずかだけど透き間があった。そこから中へ滑り込もうとした矢先、人の話し声がして、床と壁の間に細長く張りついたまま、俺は動きを止めた。
「まだ、始末してねえのか」
「けれど、石崎さん」
野太い声に、困り切った弱々しい声が反論している。
「まだ昼間だし、声でも出されちゃことだし」
「こっちに誰が来るっていうんだ、ええ?」
廊下の向こうから、二人の男が歩いてきた。
一人は紺色の背広姿に岩のようなしかめっ面の男、もう一人は、灰色でくたびれた作業服を着た土色の顔の男。
石崎と氷川だ。
「けどね、何も殺さなくても」
「ばかか、おまえは」
氷川のことばに、石崎は呆れたように言い放った。
「見ただろ、あのガキのカメラ? 排水口を撮ってやがった。近ごろのガキは金次第でどこへでも転ぶからな、黙らせておくにかぎる」
「でも、じゃあ、わしでなくても」
「ばかだろ、おまえ。他に誰が手があいてる? ろくすっぽ働けねえおまえを雇ってたのは、こういうときのためじゃねえのかよ」
氷川は顔をゆがめて、目を逸らせた。
「日ごろの恩に報いようって気にはならねえのかよ」
石崎は好き放題脅して、鼻にしわを寄せ、猛々しい笑いを浮かべて立ち止まる。
「ったく、真っ昼間から風呂なんか入れるのは、誰のおかげだと思ってるんだ、ああ?」
氷川も恨めしそうな顔になって止まる。
「ほらよ、今なら逆に誰も来ねえ。表で立ってて見てやるから今のうちに始末しちまえ」
俺は壁際に張りついたまま、忙しく思考を巡らせた。
このままだと、秋野さんは俺の目の前で奴らに殺されてしまう。なのに、長い間管を伝ってきたせいで、俺の体はもう片手さえ再現できないほどに減ってしまっている。今すぐにドアの透き間から忍び込んで、中にいる秋野さんに危険だけでも知らせるしかない。
悲壮な決意を固めた瞬間、
「石崎さあん。こっちにいらっしゃいますかあ」
間の抜けた呼び声が廊下の彼方から響いた。
「おう」
石崎がうっとうしそうに振り返る。氷川が露骨にほっとした顔になって、体の力を抜くのがわかった。
「わかった、行くよ」
石崎は鋭い舌打ちをして、向きを変えた。じろりと目を逸らせたままの氷川をねめつけ、憎々しげにつぶやく。
「氷川あ、そら見ろ、おまえがぐずぐずしてっから」
半端なところで声がかかったせいで、氷川は気持ちを通すことに決めたらしい。
「わしは、今は、しません」
低い声で、それでも氷川はきっぱりといい返した。
「けっ」
石崎は吐き捨てるような声を出して、これみよがしに氷川を見た。
「行くぞ、くず」
ゆっくりと両肩を揺すりながら遠ざかっていく石崎の後ろから、影のように氷川が付き従って行く。
俺は体中の緊張を解いた。気持ちの上だけでなく、体を張りつかせておくための緊張も解けて一気に感覚がふわふわと頼りなくなってしまい、そのまま気を失いそうな気がした。
のんびりしてはいられない。これ以上の邪魔がはいらないうちに、とドアの透き間からずるずると体を中へ押し込んで行く。
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