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秋野さんを、始業時間ぎりぎりまで部屋で待っていた。
時計の音がとろとろと流れて行く夜の時間を刻んでいく。その中で一人座ったままでずっとドアの方を見つめていた。
ふと、自分が、親から離されてダンボールの箱に入れられて置き去られた子犬のような気がした。
自分が捨てられたこともわからないで、いつか誰かが迎えに来て抱き上げ、元通りにぬくぬくと親の側へ戻してくれると信じて、じっとおとなしくしている子犬。雨が降り、風に凍え、腹が減っていって、身動きできないほど弱ってから、初めて何かを失ったことに気づく。
白っぽくて薄寒いような朝日が差し込んでも、部屋の中はいつもどおり静かで穏やかだった。秋野さんが戻ってこないことなんか、地球が繰り返す時間には何の影響もないといいたげに。
俺は目覚まし時計をわざと鳴るように合わせてみた。『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』が、いつもどおり鳴り始める。
その目覚ましを机の上に置いて、ドアの方を振り返った。
けれど、いつまでたってもドアは開かれず、秋野さんが戻って来ることはなかった。
(もう、帰ってこない気なんだろうか)
部屋には荷物が置かれたまま、そんなことはないはずだ。理性は主張するのに、不安はともすれば胸に広がり、体を竦ませてくる。
(二度と会えない? 失ってしまう? あの事故のときみたいに)
首を振り、目覚まし時計を止めた。
(違う、きっと何かできるはずだ)
俺だって、あのときのままの子どもじゃない。今度はきっと、何かできるはずだ。
考えて考えて、ようやく俺は電話で秋野さんのお父さんに連絡を取ることを思いついた。
『は? 近江? おう、てめえ、ひかりに手紙のことバラしやがったな』
出るなり、相手はぶっきらぼうにいい放った。どうやら、秋野さんは早々に手紙の一件について、父親に文句をつけたらしい。
『まあ、たまたまあいつが、渡す相手だったからいいなんて言いやがったからよかったものの、ヤクソクってのが守れねえのかよ、てめえは』
不機嫌そうな、いらだたしさをぶつける声に、少しほっとした。
(この人はまだ俺を俺として扱ってくれる)
「すみません、ほんとうにすみません」
平謝りした。
「あの、その、ところで、秋野さん、そちらに行ってませんか?」
『ひかり? いねえよ。何だ、ケンカでもしたのか』
秋野さんのお父さんは嬉しそうに笑った。
「そうじゃなくて…うまく連絡が取れなくて」
適当ないい訳が見つからず、思わず口ごもったが、相手は不審には思わなかったようだ。
『わはは、そいつあ、見放されたんだよ。あいつはしゃきっとした男がいいんだ、しゃきっとしたな』
あっけらかんと突き放されたが、意外に落ち込まなかった。その声に親しげな、よく知った友人をからかうような響きがあったせいかも知れない。
けれど、秋野さんの行方はわからなかった。
「じゃあ、いいです、はい」
手掛かりのなさにがっかりしたのが声にでたのだろうか、秋野さんのお父さんは、ふいと口調を和らげた。
『おう、近江、また今度しっかり話をつけような、覚えとけよ、今度こそな』
(近江、か)
今度しっかり話をつけるって、スライムとでも話してくれるんだろうか。
受話器を置いて、立ち上がる。
秋野さんの部屋の鍵は持っていた。部屋を出て、自分でもどうする気なのかわからないまま、大学へ向かう電車に乗った。
(何だか、寒い)
キスは二時に受けている。昼までに見つけられなかったら、この前の二の舞いになってしまうかもしれない。けれど、今度は誰も助けてくれない、助けてくれようがない、秋野さん以外には。
ふっと頼りなく、風に巻かれて消えてしまいそうな気がした。
(このままどこかへ消えた方がいいのかな)
電車の外に流れて行く春の景色に、あの山奥の湖の景色が重なって見えた。
あそこで『近江潤』の姿を借りなければ、こんなことにはならなかったのかも知れない。
けど、他にどんな方法があっただろう。
拠り所のない気持ちはそういう光景を呼ぶのか、居場所を奪われるものばかりを見た。
駅で降りて、大学へ向かう途中で、開店したばかりの店の戸口を掃除していた男が、突然わめいて手にしていたほうきで、近寄ってきていた猫を叩いた。跳ね上がって悲鳴を上げた猫がほうほうの体で逃げるのに、憎々しげに罵倒する。
とろとろと歩いてきた老人が、その進路を横切っていた小さな虫を、まるでそこには何もいなかったように踏み潰した。
学校に遅れたのか、いらだたしそうに走っている小学生が、通りすがりに咲いていた花を次々とむしり取り、散らしていく。その紅が、潰された虫の死骸にはらはらとかかる。
それらすべてが自分の行き先を暗示しているようで、俺は無意識に体を抱いた。
時計の音がとろとろと流れて行く夜の時間を刻んでいく。その中で一人座ったままでずっとドアの方を見つめていた。
ふと、自分が、親から離されてダンボールの箱に入れられて置き去られた子犬のような気がした。
自分が捨てられたこともわからないで、いつか誰かが迎えに来て抱き上げ、元通りにぬくぬくと親の側へ戻してくれると信じて、じっとおとなしくしている子犬。雨が降り、風に凍え、腹が減っていって、身動きできないほど弱ってから、初めて何かを失ったことに気づく。
白っぽくて薄寒いような朝日が差し込んでも、部屋の中はいつもどおり静かで穏やかだった。秋野さんが戻ってこないことなんか、地球が繰り返す時間には何の影響もないといいたげに。
俺は目覚まし時計をわざと鳴るように合わせてみた。『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』が、いつもどおり鳴り始める。
その目覚ましを机の上に置いて、ドアの方を振り返った。
けれど、いつまでたってもドアは開かれず、秋野さんが戻って来ることはなかった。
(もう、帰ってこない気なんだろうか)
部屋には荷物が置かれたまま、そんなことはないはずだ。理性は主張するのに、不安はともすれば胸に広がり、体を竦ませてくる。
(二度と会えない? 失ってしまう? あの事故のときみたいに)
首を振り、目覚まし時計を止めた。
(違う、きっと何かできるはずだ)
俺だって、あのときのままの子どもじゃない。今度はきっと、何かできるはずだ。
考えて考えて、ようやく俺は電話で秋野さんのお父さんに連絡を取ることを思いついた。
『は? 近江? おう、てめえ、ひかりに手紙のことバラしやがったな』
出るなり、相手はぶっきらぼうにいい放った。どうやら、秋野さんは早々に手紙の一件について、父親に文句をつけたらしい。
『まあ、たまたまあいつが、渡す相手だったからいいなんて言いやがったからよかったものの、ヤクソクってのが守れねえのかよ、てめえは』
不機嫌そうな、いらだたしさをぶつける声に、少しほっとした。
(この人はまだ俺を俺として扱ってくれる)
「すみません、ほんとうにすみません」
平謝りした。
「あの、その、ところで、秋野さん、そちらに行ってませんか?」
『ひかり? いねえよ。何だ、ケンカでもしたのか』
秋野さんのお父さんは嬉しそうに笑った。
「そうじゃなくて…うまく連絡が取れなくて」
適当ないい訳が見つからず、思わず口ごもったが、相手は不審には思わなかったようだ。
『わはは、そいつあ、見放されたんだよ。あいつはしゃきっとした男がいいんだ、しゃきっとしたな』
あっけらかんと突き放されたが、意外に落ち込まなかった。その声に親しげな、よく知った友人をからかうような響きがあったせいかも知れない。
けれど、秋野さんの行方はわからなかった。
「じゃあ、いいです、はい」
手掛かりのなさにがっかりしたのが声にでたのだろうか、秋野さんのお父さんは、ふいと口調を和らげた。
『おう、近江、また今度しっかり話をつけような、覚えとけよ、今度こそな』
(近江、か)
今度しっかり話をつけるって、スライムとでも話してくれるんだろうか。
受話器を置いて、立ち上がる。
秋野さんの部屋の鍵は持っていた。部屋を出て、自分でもどうする気なのかわからないまま、大学へ向かう電車に乗った。
(何だか、寒い)
キスは二時に受けている。昼までに見つけられなかったら、この前の二の舞いになってしまうかもしれない。けれど、今度は誰も助けてくれない、助けてくれようがない、秋野さん以外には。
ふっと頼りなく、風に巻かれて消えてしまいそうな気がした。
(このままどこかへ消えた方がいいのかな)
電車の外に流れて行く春の景色に、あの山奥の湖の景色が重なって見えた。
あそこで『近江潤』の姿を借りなければ、こんなことにはならなかったのかも知れない。
けど、他にどんな方法があっただろう。
拠り所のない気持ちはそういう光景を呼ぶのか、居場所を奪われるものばかりを見た。
駅で降りて、大学へ向かう途中で、開店したばかりの店の戸口を掃除していた男が、突然わめいて手にしていたほうきで、近寄ってきていた猫を叩いた。跳ね上がって悲鳴を上げた猫がほうほうの体で逃げるのに、憎々しげに罵倒する。
とろとろと歩いてきた老人が、その進路を横切っていた小さな虫を、まるでそこには何もいなかったように踏み潰した。
学校に遅れたのか、いらだたしそうに走っている小学生が、通りすがりに咲いていた花を次々とむしり取り、散らしていく。その紅が、潰された虫の死骸にはらはらとかかる。
それらすべてが自分の行き先を暗示しているようで、俺は無意識に体を抱いた。
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