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2.怪我のし始め
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北回りのヨーロッパ線でアンカレッジから西ドイツの北の玄関ハンブルク、足を伸ばしてフランクフルトまで行って約十九時間の空の旅……そう言われたのは一昔前。
現在ではドイツ、フランクフルトまで十二時間二十五分、そこから一時間五分でハンブルクに着く。
「あたっ…」
俺はついに音を上げた。
飛行機の席というのは、TVで見るほどゆったりものんびりもできない。まあ、エコノミーだから仕方ないといえば仕方ないが。
もっと上のクラスで飛ぶことが多い周一郎は、俺に合わせたのか別の意図があったのか、ぎゅうぎゅう詰め感のある座席に平然と座り、さっきまで俺の隣で書類を捲っていた。
今は例の、時折見せる無防備な顔で眠っていて、このドイツへの旅の時間をひねり出すための苦労を思わせた。サングラスを外した顔が、機内の薄暗い光の中で幼く見える。
(疲れたんだな)
ずり落ちかけた毛布を直してやる。
元々あんまり丈夫じゃないし、俺みたいに再三再四、厄介事と追いかけっこをしたいわけじゃないだろう。いやもちろん、俺もしたくてしているわけじゃないんだ、絶対に。ただ、周一郎の本分は朝倉家の当主、ごたごたなどないまま、仕事一筋に没頭していたいはずだ。
「ん…」「ととっ」
周一郎が身動きして慌て気味に身を竦める。危うく起こしちまうところだった。
持って来た本は読んでしまったし、他にすることもなし、大人しく座席に埋まり込み、来る前に聞いた、周一郎の婚約者が住んでいるという場所を想像する。
海部敏人は、以前からドイツに憧れていたらしい。青年時代の彼の憧れは、主として古い城に集中していた。幾世紀もの人々の営みの中で、手をかけられ育て上げられ、時には傷つけられ、また新たな手が加わってきた城々。日本の城にはないロマンをかきたてられたのか、海部は財を成すと、ドイツの古城を丸ごと手に入れ、そこを別荘化したのだった。
『レモタント・ローゼ城……「二度咲きバラ」城、と言うんです』
周一郎のことばが蘇る。
小さな城だが、かなりこまごまと各時代の持ち主が手に入れたためにマニア垂涎のものになっており、ライン川沿いにあるそうだ。
ライン川、特に『ローレライ』で有名になったライン流域のマインツからコブレンツ、約65km間は『ロマンティック・ライン・コース』と呼ばれる。数々の古城と美しい葡萄畑が広がり、現在では『ライン渓谷中流上部』として世界遺産にも登録されている。
その中のブルク・マウス(ねずみ城)とブルク・カッツ(猫城)と呼ばれる二つの城の間、対岸のラインフェルズの古城より少し外れた位置に、海部敏人のレモタント・ローゼ城はある。
ラインフェルズの古城は歴史的な戦いのために廃墟となっているが、ラインの流れを見渡すのに絶好の場所。対するレモタント・ローゼ城は蛇行するライン川谷岸よりやや奥まっていることもあり、対岸にあるラインフェルズ城ほどは知られていない……と、旅行ガイドには書かれていた。
「…っ」
ふっと何の前触れもなく嫌な予感がした。無意識に体を起こして臨戦体制をとるのは動物の本能か、抜けに抜けている俺でも、なぜかこういう予感はよく当たる。
視線を感じて周一郎の肩越しに数席離れた向こうに目をやると、柔らかい栗色の髪の、アジア系らしいがヨーロッパ風の見事に整った顔立ちの女性が、にっこりと笑いかけて来る。きれいな茶色の瞳に思わずぽかんと見とれると、相手はくすりと上品な笑みを重ねて軽いウィンクを投げて来た。
「へ?」
俺か? いやまさか、俺にあんなきれいな女性がウィンクしてくれるはずがないだろう。待てひょっとしたら、また何か気づかずに笑いを誘うようなことをしているのか?
思わず振り返って、他にウィンクされるような乗客がいないか確かめる。自分の周囲をきょろきょろ見回し、おかしな状態になってないか確認する。
どうも何もないようだ。
顔を戻すと、相手はもう正面に向き直っている。横顔もまた、品良く整っている。なのに、その横顔にまた、妙な感覚、厄介事の匂いがした。
(あれが?)
「まあ…あれだけの美人なら、そりゃ揉めることも多いよな…」
俺は小さく呟いて、彼女同様、そっと座席に座り直した。
ハンブルク国際空港。
「滝さん」
周一郎の呼びかけに振り返る。
焦げ茶色の三つ揃いに磨き抜かれた革靴、華奢で繊細そうな容姿に濃い色のサングラス、これ以上、薔薇を背負わせようがぺんぺん草を背負わせようが決めようがないほど決まった姿で、携帯をポケットに片付けながら淡々と続けた。
「もう迎えが来ているそうです」
「へえ」
どこにいるのだろうとキョロキョロ周囲を見回す。
光をふんだんに取り入れられる天井、がっちりした金属の構造物。世界でも有数の航空機メンテナンス会社本拠地でもあるこの空港は、ドイツの空港では最も早く開港したらしい。ドイツ国内では五本の指に入る賑わいだそうだが、俺の目は正直者で、海部からの迎えの男よりも、さっき飛行機で会った女性の方を先に見つけてしまった。濃いワインレッドのワンピースに栗色の髪が明るく流れている。上品な横顔は今は少し緊張感があり、やっぱり彫刻のようにきれいだった。
「滝さん、何を見てるんです?」
俺の視線を辿ったらしい周一郎が一瞬動きを止める。
「あれは…」「え?」
思わず相手を振り向き、周一郎の瞳が奇妙な色をたたえているのに気づいて、慌ててもう一度女性を振り返る。
だが、いつの間にか女性は姿を消している。目立つはずのあのワンピースも、空港を行き来する雑多な人混みに紛れてしまったようだ。
「なんだ? 知り合いか?」
「いえ、知り合いというほどでは」
周一郎は奥歯に物の挟まったような言い方で首を振り、
「好みの女性ですか?」
「うん、まあ」
にちゃりと崩れてしまった顔のままへらへら笑っていると、唐突に後ろから柔らかなアルトの声が優しく尋ねかけてきた。
「Verzeihung…」
「うわっ!」
俺が飛び退いたのに相手も驚いたのか、しばらく澄んだ茶色の目を見張っていたが、気を取り直したように周一郎に向き直った。見覚えのあるワインレッドのワンピース、あの美女だ。
「Was?」
周一郎は相手の美貌に頓着した様子はない。むしろ、どこかうんざりした、うっとうしそうな表情になったが、それも一瞬、親しげに問い返す。
美女は微笑み、蕩けるようなアルトで続けた。
「Ich freue mich sehr, Sie kennen zu lernen. Ich heiße Kamura.」
「香村さん? 確か、海部さんの秘書の方ですね」
周一郎がちらりと俺を見やり、唐突に日本語に戻す。
「はい、香村玲奈と申します。社長代理としてお迎えに上がりました」
相手の女性も平然と日本語に切り替える。
てやんでえ、日本語をしゃべれるなら始めからそうしろってんだ。
エセ下町なまりで心の中で毒づいたものの、美女相手にそんなののしりなどとんでもない。大人しく二人の会話を聞くことにする。
「ありがとうございます」
周一郎はにこやかな営業スマイルを広げた。
「ああ、彼が友人の滝さんです」
「あ、滝志郎です、どうも」
どうもって何だどうもって。
もう少しまともな挨拶できなかったのかと悔やみつつ、ぺこりと頭を下げる。
玲奈はくすくすと深みのある笑い声を響かせ、俺達を空港の外へと招いた。荷物をお持ちしましょうと言われたがさすがに辞退、周一郎の分のスーツケースと自分の着替えを詰めたキャリーカートを引きずっていく。
道路に待っていたのは磨き上げられて傷一つない黒のベンツ、乗り込もうとすると、わあっと空港内で騒ぎが起こって思わず振り返った。
「あれ…?」
人が見る見る集まっていく、数人が駆け出し、空港職員が駆けつけ、警察のような男達も走って行くその場所は、さっき玲奈がいたところじゃなかったか。
「関係ないことですわね、行きましょう」
有無を言わせぬ冷ややかさで玲奈が言い放ってドアを開ける。降りて来た運転手が興味深そうにスーツ姿の周一郎と年期の入ったセーターとスラックスの俺を眺めながら、トランクに荷物を片付けてくれる。
俺に続いて周一郎が乗り込み、玲奈も助手席におさまると、運転手は滑らかに車を発進させた。
「けれど……よく覚えていて下さったのね、朝倉さん」
嬉しいわ、とそれは語られなかったけれど、華やいだ声音を玲奈が響かせる。
「周一郎で結構です」
隣の少年は愛想も糞もない。
こんな美女を相手にちっとは笑ってみようかという気にもならないのか。これだから端整な奴はむかつく。向けられる好意を当然だと思ってる気がする。俺なんかな、笑ってもらうためにいろいろ大変な心身ともの奮闘を必要とするんだぞこら、と口に出さない俺の罵倒に気づいた様子さえなく、周一郎は淡々と返す。
「一度見た人は忘れない主義なんです。後で困ったことになりますから」
嘘つけ、一度俺のことを忘れただろうが、と胸の中でののしった。それとも、忘れても困らない相手だったからかおい。ああまだまだ絡めそうな気がしてきたぞ。
「特に仕事に関係している場合は」
さらりと付け加えた一言は、玲奈にとって特別な意味があったらしい。
「そう。『氷の貴公子』の噂通りですわね。仕事に関係した人間にしか興味を持たない。誰にも心を許さない…」
考え込んだような声が微かに憂いを帯びる。
「周一郎さんは、あの時お幾つでしたの?」
今度の問いかけには、妙に母親じみたものが漂っていた。
周一郎は微かに嘆息し、初めて見る、人の心をその場で凍てつかせるような皮肉な微笑に唇を歪めて、静かに応じた。
「十四歳かな。その前の方がいいですか」
「、…」
不自然な沈黙が車の中に膨れ上がった。手で触ったらわしわしと手に食い込みそうな荒々しさだ。
やがて、固い声でアルトの響きが返ってくる。
「結構よ」
どうやらこの二人には、ただの知り合いどころじゃない、俺の知らない、いやどっちかというと知らない方がいい複雑な関係がありそうだ……それもかなり楽しくない、過去。
「あ、ド、ドイツって」
突き刺さってくる沈黙に耐え切れず、俺は急いで話のネタを探した。
「古城で有名なんですよね」
「ええ、よくご存知ですわね」
他にもワインやソーセージなどもありますけど、と気持ちを切り替えたのか、玲奈は明るく続けた。
「社長の『レモタント・ローゼ城』の周囲にもたくさんのお城がありますわ」
歌うような調子で紡ぐ。
「ライン川流域でしたら、オーストリア皇帝から宰相メッテルニッヒに贈られたヨハニスベルク城、モイゼトルム、ラインシュタイン、ライヒェンシュタイン、ゾーネックの城趾、川の中央に立つプファルツの古跡、グーテンフェルズ・シェーンブルクの廃墟、ブルク・カッツ、ブルク・マウス、ライフェルズ、リーベンシュタイン、シュテレンベルクの古城跡、マルクスブルク城、ラーンエック、シュトルツェンフェルズ……ライン下りで最も美しいと言われるマインツからコブレンツにかけて、二十以上の古城がありますわ。時期がもう少し遅ければ、ライン下りも楽しんで頂けるんですが、観光船運行の時期を外れてしまっていますから」
立て続けに上げられた城の名前は、同じような音が繰り返される古い詩のようで、ぼんやりと聞き流しているうちに終わってしまう。
「す…凄い量ですね」
何とか相づちを打つと、景色が美しいというだけでなく、それだけここが要所であったということなんでしょうね、と返されて、改めて『城』である意味を感じた。
そうか、そうだよな。
確かに居宅として造ったのもあるかもしれないけれど、写真や画像で見たドイツの城はがっちりごつごつした建物も多かった。フランスの瀟酒な城よりは、確かに戦で使われたものという感じがしたのを思い出す。
『古城』なんてロマンチックなことばだけど、つまりそれは、そこでたくさんの血が流されたということでもあるんだ。
「そんな所で暮らしてるのか…」
俺だったらあまり安眠できそうにないが、金持ちの考えることはまた違うんだろう。
車はいつの間にかアウトバーンに入っていた。車窓の景色が吹っ飛ぶように流れていく。速度の制限が緩やかで、時速100kmでもどんどん追い抜かれていく、そうガイドブックに書かれていた。
こういうのはすとんと頭に入るんだが、どうして講義はああも見事に頭を擦り抜けてってしまうんだろうな。
(留年、だもんな)
やっぱり、納屋教授の講義の単位が取れなかったのが致命傷だった。……まあ、あれで単位がとれたら、それこそ机でもベンツでも食ってやるが。
「レモタント・ローゼ城は、守りの城でも攻めの城でもありませんでした。作戦本部を収容していたこともあるようで、戦線から離れた働きをしていたようです。中世期には諸候が入れ代わり立ち代わり住んでいたようですわね。十六、七世紀の宗教戦争、三十年戦争、十七世紀末のフランス国王による放火、十八世紀のフランス革命の際の革命軍による破壊……数々の波乱の時代を潜り抜け、比較的美しいまま残ってきました。もちろん、傷一つないと言えば嘘ですけど…」
玲奈は肩越しに微笑を投げて来て、艶やかな唇を綻ばせた。周一郎とやりあった時の冷たいイメージは、跡形もない。
「いろいろな破壊の度に、修復がユーモアをもって行われました。童話の中にあるような、ちょっと不思議なお城、と申しておきますわ」
「はあ」
頷くしかない俺の視界の端で、周一郎はなぜか沈んだ横顔を見せていた。
「着きましたわ」
奇妙な沈黙が続いた車で、ようやく深いアルトの声が響いた。
「う、わ」
促されて車から降り、唖然とする。
舗装された道は止まったベンツの数m先から細くなって地道になっている。緑が鮮やかに萌え始めた木々が両側を飾り、道の先は古びた黄褐色の石段へと変わっていた。ところどころに深緑の草が生え、周囲を縁取る黄緑の木々の色に遮られながら、石段はじりじりと上へと伸び上がっていき、ゆるやかに蛇行して斜め上にある城へと続いている。
城は凄まじいまでにがっちりとした石造りのものだった。そびえ立つ尖塔はあくまで高く天を目指し、強固な壁面はチンピラ強盗なぞ触れることも許さないと言いたげに地面に根を生やしている。ところが、幾つか暗い口を開けた窓の周囲には、妙に愛らしい感じの浮き彫りが施され、一部には改装を施したのか、繊細な出窓が取り付けられていた。中世と近世が微妙に入り交じってかろうじてバランスを保っているような、確かに不思議な雰囲気の城だ。幼稚園ぐらいの子どもが、TVと物語と想像をごっちゃにして描けば、こんな感じになるかもしれない。
(童話の中にあるような城、か)
ことばで聞けばメルヘンだが、童話の中に出て来る城というのは、結構ややこしい役割を担っていたり、不気味な仕掛けがあったり、怪物が潜んでいたりするものじゃなかったか?
「車で入れるのはここまでですの。少し歩いて頂かないといけませんわ」
玲奈が促した。
ベンツは俺達が降りると、するすると後じさりして去っていく。
俺は理由なく玲奈の高いヒールに目をやった。あんな靴で、この石段を上っていこうというのは、よっぽど行き来し慣れているか、チャレンジャーかだよな。
「?」
玲奈に着いていこうとして、周一郎が車を降りて数歩進んでから、固まったようにそこを動かないでいるのに気づく。
「周一郎?」
サングラスを外し、食い入るように城を見つめている周一郎の顔には驚きと賛嘆、それから奇妙な強張り…畏怖、のようなものがかわるがわる、現れては消え、消えては現れている。
「おい?」
「、はい」
物に憑かれたような目で一瞬こちらを見た周一郎は、急に寒さを感じたようにぶるっと体を震わせた。それでもまだ、半分夢をみているような手つきでサングラスをかけ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「どうした?」
「……」
「気分でも悪いのか?」
「…いえ」
周一郎は俺を見上げて、珍しく少し微笑んだ。硬い、能面のように生気のない笑い方だ。対照的に表情を消したサングラスの奥の瞳が、どこか不安げに見えた。
(何かに気づいた?)
もう一度、城とそこへ続く石段、しとやかに高いヒールの足下をよろけさせることもなく上がっていく玲奈のきれいな後ろ姿を眺める。
どこにも危険な物はないように見える。見えるが、俺より周一郎は鋭いのだ。
「…滝さん?」「あ、はいはい」
どうなさったの、と呼ばれて、俺はへこへこと玲奈の後を追った。
石段は、遠くから見ているよりも数段安定した力で足を受け止め、同じ力をじんわりと返す。石段というより岩棚に近い気がする。ちょっとしたトレッキングだ。あたりの空気を風が薙ぎ払い、肌寒さに身を竦めた。
基本的にドイツの気候は夏と冬しかないそうで、気温も日本よりわずかに低い気がする。それでも、ライン川流域というのは、ドイツの中でも明るく温暖なところにあたるそうだ。
上がっていくにつれて周囲の景色が広がってくる。起伏の豊かな、鮮やかな緑色に身を染めつつある自然が、俺達を押し上げていってくれるようだ。川が近いせいもあるのか、見上げた空が大きくて高い。
昔、ここを闊歩した武人達も、甲冑を鳴らしながら、こうやって空を見上げたんだろうか。戦いがいつまで続くのかとか、過ぎて来た戦で失ってきた者のこととか、いつも気合い充分というわけではなかっただろう、へとへとになってこの石段を戻ったこともあっただろう、その時にもやはり、何かを求めて見上げたこの空はこんなに高くて青かったんだろうか。
「あははは……だめよ、カッツェ!」
突然、場違いな華々しい笑い声が響いて、視線を戻した。
「朋子様」
先に立っていた玲奈が、十六、七に見える少女に声をかけていた。軽く息を切らせていた周一郎が俺の隣で立ち止まり、同じようにそちらを見上げる。
少女は、俺達をちょうど見下ろすあたりにある、階段の途中にしつらえられた四阿のようなところから出て来たらしかった。薄茶の猫が腕の中でじゃれついて甘えている。
「遅かったから見に来ちゃったわ。その人が朝倉さんでしょ」
いたずらっぽく笑って、少女は大きな目を見張った。白い肌に薄い焦茶の虹彩がよく似合っている。
「側の、誰?」
「朋子様! 失礼ですよ!」
「だって知らない人だもん、名前も知らないのにどうしろって言うの?」
おどおどしたところなど一切持ち合わせがない、小生意気な表情で少女は俺を眺めた。なるほど、これが周一郎の婚約者ってやつか、と頷いたその矢先、
「あ、だめ、カッツェ!」
どうしたはずみか、小猫が身をもがき、ずるりと腕から滑り出た、と思う間もなく、俺の立っている所から数歩後ろへ零れ落ちた。
「カッツェ!!」「っ」
とっさに振り返りながら、薄茶の塊を受け止めようと手を伸ばす。いや、わかってる、相手は猫だ、くるりと体を捻って無事に地面に降り立つはずだ。だが、落ちたものを受け止めようとしてしまうのはもう、俺の本能に近い、それがたとえ、自分の能力以上のことであったとしても。
「滝さん!」「滝さんっ!!」
玲奈と周一郎の警告はちょっと遅かった。
「へ……ぅわあああっっ!」
石段はしっかりしていた。充分な幅はあった。けれど俺の靴の下には砂ももちろんあって、体を奇妙に傾けた俺の足下が滑り、空中へ放り出されたと思う間もなく、一気に十数段階段を転げ落ちていた。
目の前に星が飛び、カラスがあほーと鳴き、ついでになぜかエイリアンだのゾンビだのが並んでスキップをしていく場面が入り交じってちかちかする。もろに打ち付けた背中の痛みと足の痛みが、ようやくのろのろと脳味噌に達する。
「い…たあ……っ」
「滝さん!」
周一郎が駆け下りて来て、ぶっ倒れたままの俺の側に膝をついた。
「大丈夫ですか?!」
「た…ぶん…」
「滝さん!」
周一郎の後ろから、顔を強張らせた玲奈と朋子が覗き込む。
「滝さん、どこか…」
周一郎が俺のことで青くなっているのを見るのは気持ちよかったが、あんまり心配させてやるのも可哀想で、もそもそと起き上がって首を振ってみせた。
「大丈夫大丈夫、それより猫、と…」
みぃみぃとか細い声を上げて、猫は俺の腹辺りに爪を立てている。
「よしよし、怖かったんだよな……いっ」
立ち上がりかけた俺は、ずきん、と頭の天辺まで駆け上がった傷みに思わず眉をしかめた。朋子がびくりと体を引き攣らせる。
「人を呼んで参ります!」
察した玲奈が急ぎ石段を駆け上がっていく。
「…驚かさないで下さい」
ほうっ、と重い溜め息をついて、周一郎が唸った。額に薄く汗がにじんでいる。本当に焦ってくれたらしい。
「そうヤワじゃないさ」
にやにやしながら言い返すと、
「これ以上、お人好しになってもらっては困ります」
猫を助けるために階段から落ちるなんて。
「おい」
「滝さん一人居るだけで、もう十分に厄介なんですから」
しみじみ呟かれて、俺はがっくりした。
現在ではドイツ、フランクフルトまで十二時間二十五分、そこから一時間五分でハンブルクに着く。
「あたっ…」
俺はついに音を上げた。
飛行機の席というのは、TVで見るほどゆったりものんびりもできない。まあ、エコノミーだから仕方ないといえば仕方ないが。
もっと上のクラスで飛ぶことが多い周一郎は、俺に合わせたのか別の意図があったのか、ぎゅうぎゅう詰め感のある座席に平然と座り、さっきまで俺の隣で書類を捲っていた。
今は例の、時折見せる無防備な顔で眠っていて、このドイツへの旅の時間をひねり出すための苦労を思わせた。サングラスを外した顔が、機内の薄暗い光の中で幼く見える。
(疲れたんだな)
ずり落ちかけた毛布を直してやる。
元々あんまり丈夫じゃないし、俺みたいに再三再四、厄介事と追いかけっこをしたいわけじゃないだろう。いやもちろん、俺もしたくてしているわけじゃないんだ、絶対に。ただ、周一郎の本分は朝倉家の当主、ごたごたなどないまま、仕事一筋に没頭していたいはずだ。
「ん…」「ととっ」
周一郎が身動きして慌て気味に身を竦める。危うく起こしちまうところだった。
持って来た本は読んでしまったし、他にすることもなし、大人しく座席に埋まり込み、来る前に聞いた、周一郎の婚約者が住んでいるという場所を想像する。
海部敏人は、以前からドイツに憧れていたらしい。青年時代の彼の憧れは、主として古い城に集中していた。幾世紀もの人々の営みの中で、手をかけられ育て上げられ、時には傷つけられ、また新たな手が加わってきた城々。日本の城にはないロマンをかきたてられたのか、海部は財を成すと、ドイツの古城を丸ごと手に入れ、そこを別荘化したのだった。
『レモタント・ローゼ城……「二度咲きバラ」城、と言うんです』
周一郎のことばが蘇る。
小さな城だが、かなりこまごまと各時代の持ち主が手に入れたためにマニア垂涎のものになっており、ライン川沿いにあるそうだ。
ライン川、特に『ローレライ』で有名になったライン流域のマインツからコブレンツ、約65km間は『ロマンティック・ライン・コース』と呼ばれる。数々の古城と美しい葡萄畑が広がり、現在では『ライン渓谷中流上部』として世界遺産にも登録されている。
その中のブルク・マウス(ねずみ城)とブルク・カッツ(猫城)と呼ばれる二つの城の間、対岸のラインフェルズの古城より少し外れた位置に、海部敏人のレモタント・ローゼ城はある。
ラインフェルズの古城は歴史的な戦いのために廃墟となっているが、ラインの流れを見渡すのに絶好の場所。対するレモタント・ローゼ城は蛇行するライン川谷岸よりやや奥まっていることもあり、対岸にあるラインフェルズ城ほどは知られていない……と、旅行ガイドには書かれていた。
「…っ」
ふっと何の前触れもなく嫌な予感がした。無意識に体を起こして臨戦体制をとるのは動物の本能か、抜けに抜けている俺でも、なぜかこういう予感はよく当たる。
視線を感じて周一郎の肩越しに数席離れた向こうに目をやると、柔らかい栗色の髪の、アジア系らしいがヨーロッパ風の見事に整った顔立ちの女性が、にっこりと笑いかけて来る。きれいな茶色の瞳に思わずぽかんと見とれると、相手はくすりと上品な笑みを重ねて軽いウィンクを投げて来た。
「へ?」
俺か? いやまさか、俺にあんなきれいな女性がウィンクしてくれるはずがないだろう。待てひょっとしたら、また何か気づかずに笑いを誘うようなことをしているのか?
思わず振り返って、他にウィンクされるような乗客がいないか確かめる。自分の周囲をきょろきょろ見回し、おかしな状態になってないか確認する。
どうも何もないようだ。
顔を戻すと、相手はもう正面に向き直っている。横顔もまた、品良く整っている。なのに、その横顔にまた、妙な感覚、厄介事の匂いがした。
(あれが?)
「まあ…あれだけの美人なら、そりゃ揉めることも多いよな…」
俺は小さく呟いて、彼女同様、そっと座席に座り直した。
ハンブルク国際空港。
「滝さん」
周一郎の呼びかけに振り返る。
焦げ茶色の三つ揃いに磨き抜かれた革靴、華奢で繊細そうな容姿に濃い色のサングラス、これ以上、薔薇を背負わせようがぺんぺん草を背負わせようが決めようがないほど決まった姿で、携帯をポケットに片付けながら淡々と続けた。
「もう迎えが来ているそうです」
「へえ」
どこにいるのだろうとキョロキョロ周囲を見回す。
光をふんだんに取り入れられる天井、がっちりした金属の構造物。世界でも有数の航空機メンテナンス会社本拠地でもあるこの空港は、ドイツの空港では最も早く開港したらしい。ドイツ国内では五本の指に入る賑わいだそうだが、俺の目は正直者で、海部からの迎えの男よりも、さっき飛行機で会った女性の方を先に見つけてしまった。濃いワインレッドのワンピースに栗色の髪が明るく流れている。上品な横顔は今は少し緊張感があり、やっぱり彫刻のようにきれいだった。
「滝さん、何を見てるんです?」
俺の視線を辿ったらしい周一郎が一瞬動きを止める。
「あれは…」「え?」
思わず相手を振り向き、周一郎の瞳が奇妙な色をたたえているのに気づいて、慌ててもう一度女性を振り返る。
だが、いつの間にか女性は姿を消している。目立つはずのあのワンピースも、空港を行き来する雑多な人混みに紛れてしまったようだ。
「なんだ? 知り合いか?」
「いえ、知り合いというほどでは」
周一郎は奥歯に物の挟まったような言い方で首を振り、
「好みの女性ですか?」
「うん、まあ」
にちゃりと崩れてしまった顔のままへらへら笑っていると、唐突に後ろから柔らかなアルトの声が優しく尋ねかけてきた。
「Verzeihung…」
「うわっ!」
俺が飛び退いたのに相手も驚いたのか、しばらく澄んだ茶色の目を見張っていたが、気を取り直したように周一郎に向き直った。見覚えのあるワインレッドのワンピース、あの美女だ。
「Was?」
周一郎は相手の美貌に頓着した様子はない。むしろ、どこかうんざりした、うっとうしそうな表情になったが、それも一瞬、親しげに問い返す。
美女は微笑み、蕩けるようなアルトで続けた。
「Ich freue mich sehr, Sie kennen zu lernen. Ich heiße Kamura.」
「香村さん? 確か、海部さんの秘書の方ですね」
周一郎がちらりと俺を見やり、唐突に日本語に戻す。
「はい、香村玲奈と申します。社長代理としてお迎えに上がりました」
相手の女性も平然と日本語に切り替える。
てやんでえ、日本語をしゃべれるなら始めからそうしろってんだ。
エセ下町なまりで心の中で毒づいたものの、美女相手にそんなののしりなどとんでもない。大人しく二人の会話を聞くことにする。
「ありがとうございます」
周一郎はにこやかな営業スマイルを広げた。
「ああ、彼が友人の滝さんです」
「あ、滝志郎です、どうも」
どうもって何だどうもって。
もう少しまともな挨拶できなかったのかと悔やみつつ、ぺこりと頭を下げる。
玲奈はくすくすと深みのある笑い声を響かせ、俺達を空港の外へと招いた。荷物をお持ちしましょうと言われたがさすがに辞退、周一郎の分のスーツケースと自分の着替えを詰めたキャリーカートを引きずっていく。
道路に待っていたのは磨き上げられて傷一つない黒のベンツ、乗り込もうとすると、わあっと空港内で騒ぎが起こって思わず振り返った。
「あれ…?」
人が見る見る集まっていく、数人が駆け出し、空港職員が駆けつけ、警察のような男達も走って行くその場所は、さっき玲奈がいたところじゃなかったか。
「関係ないことですわね、行きましょう」
有無を言わせぬ冷ややかさで玲奈が言い放ってドアを開ける。降りて来た運転手が興味深そうにスーツ姿の周一郎と年期の入ったセーターとスラックスの俺を眺めながら、トランクに荷物を片付けてくれる。
俺に続いて周一郎が乗り込み、玲奈も助手席におさまると、運転手は滑らかに車を発進させた。
「けれど……よく覚えていて下さったのね、朝倉さん」
嬉しいわ、とそれは語られなかったけれど、華やいだ声音を玲奈が響かせる。
「周一郎で結構です」
隣の少年は愛想も糞もない。
こんな美女を相手にちっとは笑ってみようかという気にもならないのか。これだから端整な奴はむかつく。向けられる好意を当然だと思ってる気がする。俺なんかな、笑ってもらうためにいろいろ大変な心身ともの奮闘を必要とするんだぞこら、と口に出さない俺の罵倒に気づいた様子さえなく、周一郎は淡々と返す。
「一度見た人は忘れない主義なんです。後で困ったことになりますから」
嘘つけ、一度俺のことを忘れただろうが、と胸の中でののしった。それとも、忘れても困らない相手だったからかおい。ああまだまだ絡めそうな気がしてきたぞ。
「特に仕事に関係している場合は」
さらりと付け加えた一言は、玲奈にとって特別な意味があったらしい。
「そう。『氷の貴公子』の噂通りですわね。仕事に関係した人間にしか興味を持たない。誰にも心を許さない…」
考え込んだような声が微かに憂いを帯びる。
「周一郎さんは、あの時お幾つでしたの?」
今度の問いかけには、妙に母親じみたものが漂っていた。
周一郎は微かに嘆息し、初めて見る、人の心をその場で凍てつかせるような皮肉な微笑に唇を歪めて、静かに応じた。
「十四歳かな。その前の方がいいですか」
「、…」
不自然な沈黙が車の中に膨れ上がった。手で触ったらわしわしと手に食い込みそうな荒々しさだ。
やがて、固い声でアルトの響きが返ってくる。
「結構よ」
どうやらこの二人には、ただの知り合いどころじゃない、俺の知らない、いやどっちかというと知らない方がいい複雑な関係がありそうだ……それもかなり楽しくない、過去。
「あ、ド、ドイツって」
突き刺さってくる沈黙に耐え切れず、俺は急いで話のネタを探した。
「古城で有名なんですよね」
「ええ、よくご存知ですわね」
他にもワインやソーセージなどもありますけど、と気持ちを切り替えたのか、玲奈は明るく続けた。
「社長の『レモタント・ローゼ城』の周囲にもたくさんのお城がありますわ」
歌うような調子で紡ぐ。
「ライン川流域でしたら、オーストリア皇帝から宰相メッテルニッヒに贈られたヨハニスベルク城、モイゼトルム、ラインシュタイン、ライヒェンシュタイン、ゾーネックの城趾、川の中央に立つプファルツの古跡、グーテンフェルズ・シェーンブルクの廃墟、ブルク・カッツ、ブルク・マウス、ライフェルズ、リーベンシュタイン、シュテレンベルクの古城跡、マルクスブルク城、ラーンエック、シュトルツェンフェルズ……ライン下りで最も美しいと言われるマインツからコブレンツにかけて、二十以上の古城がありますわ。時期がもう少し遅ければ、ライン下りも楽しんで頂けるんですが、観光船運行の時期を外れてしまっていますから」
立て続けに上げられた城の名前は、同じような音が繰り返される古い詩のようで、ぼんやりと聞き流しているうちに終わってしまう。
「す…凄い量ですね」
何とか相づちを打つと、景色が美しいというだけでなく、それだけここが要所であったということなんでしょうね、と返されて、改めて『城』である意味を感じた。
そうか、そうだよな。
確かに居宅として造ったのもあるかもしれないけれど、写真や画像で見たドイツの城はがっちりごつごつした建物も多かった。フランスの瀟酒な城よりは、確かに戦で使われたものという感じがしたのを思い出す。
『古城』なんてロマンチックなことばだけど、つまりそれは、そこでたくさんの血が流されたということでもあるんだ。
「そんな所で暮らしてるのか…」
俺だったらあまり安眠できそうにないが、金持ちの考えることはまた違うんだろう。
車はいつの間にかアウトバーンに入っていた。車窓の景色が吹っ飛ぶように流れていく。速度の制限が緩やかで、時速100kmでもどんどん追い抜かれていく、そうガイドブックに書かれていた。
こういうのはすとんと頭に入るんだが、どうして講義はああも見事に頭を擦り抜けてってしまうんだろうな。
(留年、だもんな)
やっぱり、納屋教授の講義の単位が取れなかったのが致命傷だった。……まあ、あれで単位がとれたら、それこそ机でもベンツでも食ってやるが。
「レモタント・ローゼ城は、守りの城でも攻めの城でもありませんでした。作戦本部を収容していたこともあるようで、戦線から離れた働きをしていたようです。中世期には諸候が入れ代わり立ち代わり住んでいたようですわね。十六、七世紀の宗教戦争、三十年戦争、十七世紀末のフランス国王による放火、十八世紀のフランス革命の際の革命軍による破壊……数々の波乱の時代を潜り抜け、比較的美しいまま残ってきました。もちろん、傷一つないと言えば嘘ですけど…」
玲奈は肩越しに微笑を投げて来て、艶やかな唇を綻ばせた。周一郎とやりあった時の冷たいイメージは、跡形もない。
「いろいろな破壊の度に、修復がユーモアをもって行われました。童話の中にあるような、ちょっと不思議なお城、と申しておきますわ」
「はあ」
頷くしかない俺の視界の端で、周一郎はなぜか沈んだ横顔を見せていた。
「着きましたわ」
奇妙な沈黙が続いた車で、ようやく深いアルトの声が響いた。
「う、わ」
促されて車から降り、唖然とする。
舗装された道は止まったベンツの数m先から細くなって地道になっている。緑が鮮やかに萌え始めた木々が両側を飾り、道の先は古びた黄褐色の石段へと変わっていた。ところどころに深緑の草が生え、周囲を縁取る黄緑の木々の色に遮られながら、石段はじりじりと上へと伸び上がっていき、ゆるやかに蛇行して斜め上にある城へと続いている。
城は凄まじいまでにがっちりとした石造りのものだった。そびえ立つ尖塔はあくまで高く天を目指し、強固な壁面はチンピラ強盗なぞ触れることも許さないと言いたげに地面に根を生やしている。ところが、幾つか暗い口を開けた窓の周囲には、妙に愛らしい感じの浮き彫りが施され、一部には改装を施したのか、繊細な出窓が取り付けられていた。中世と近世が微妙に入り交じってかろうじてバランスを保っているような、確かに不思議な雰囲気の城だ。幼稚園ぐらいの子どもが、TVと物語と想像をごっちゃにして描けば、こんな感じになるかもしれない。
(童話の中にあるような城、か)
ことばで聞けばメルヘンだが、童話の中に出て来る城というのは、結構ややこしい役割を担っていたり、不気味な仕掛けがあったり、怪物が潜んでいたりするものじゃなかったか?
「車で入れるのはここまでですの。少し歩いて頂かないといけませんわ」
玲奈が促した。
ベンツは俺達が降りると、するすると後じさりして去っていく。
俺は理由なく玲奈の高いヒールに目をやった。あんな靴で、この石段を上っていこうというのは、よっぽど行き来し慣れているか、チャレンジャーかだよな。
「?」
玲奈に着いていこうとして、周一郎が車を降りて数歩進んでから、固まったようにそこを動かないでいるのに気づく。
「周一郎?」
サングラスを外し、食い入るように城を見つめている周一郎の顔には驚きと賛嘆、それから奇妙な強張り…畏怖、のようなものがかわるがわる、現れては消え、消えては現れている。
「おい?」
「、はい」
物に憑かれたような目で一瞬こちらを見た周一郎は、急に寒さを感じたようにぶるっと体を震わせた。それでもまだ、半分夢をみているような手つきでサングラスをかけ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「どうした?」
「……」
「気分でも悪いのか?」
「…いえ」
周一郎は俺を見上げて、珍しく少し微笑んだ。硬い、能面のように生気のない笑い方だ。対照的に表情を消したサングラスの奥の瞳が、どこか不安げに見えた。
(何かに気づいた?)
もう一度、城とそこへ続く石段、しとやかに高いヒールの足下をよろけさせることもなく上がっていく玲奈のきれいな後ろ姿を眺める。
どこにも危険な物はないように見える。見えるが、俺より周一郎は鋭いのだ。
「…滝さん?」「あ、はいはい」
どうなさったの、と呼ばれて、俺はへこへこと玲奈の後を追った。
石段は、遠くから見ているよりも数段安定した力で足を受け止め、同じ力をじんわりと返す。石段というより岩棚に近い気がする。ちょっとしたトレッキングだ。あたりの空気を風が薙ぎ払い、肌寒さに身を竦めた。
基本的にドイツの気候は夏と冬しかないそうで、気温も日本よりわずかに低い気がする。それでも、ライン川流域というのは、ドイツの中でも明るく温暖なところにあたるそうだ。
上がっていくにつれて周囲の景色が広がってくる。起伏の豊かな、鮮やかな緑色に身を染めつつある自然が、俺達を押し上げていってくれるようだ。川が近いせいもあるのか、見上げた空が大きくて高い。
昔、ここを闊歩した武人達も、甲冑を鳴らしながら、こうやって空を見上げたんだろうか。戦いがいつまで続くのかとか、過ぎて来た戦で失ってきた者のこととか、いつも気合い充分というわけではなかっただろう、へとへとになってこの石段を戻ったこともあっただろう、その時にもやはり、何かを求めて見上げたこの空はこんなに高くて青かったんだろうか。
「あははは……だめよ、カッツェ!」
突然、場違いな華々しい笑い声が響いて、視線を戻した。
「朋子様」
先に立っていた玲奈が、十六、七に見える少女に声をかけていた。軽く息を切らせていた周一郎が俺の隣で立ち止まり、同じようにそちらを見上げる。
少女は、俺達をちょうど見下ろすあたりにある、階段の途中にしつらえられた四阿のようなところから出て来たらしかった。薄茶の猫が腕の中でじゃれついて甘えている。
「遅かったから見に来ちゃったわ。その人が朝倉さんでしょ」
いたずらっぽく笑って、少女は大きな目を見張った。白い肌に薄い焦茶の虹彩がよく似合っている。
「側の、誰?」
「朋子様! 失礼ですよ!」
「だって知らない人だもん、名前も知らないのにどうしろって言うの?」
おどおどしたところなど一切持ち合わせがない、小生意気な表情で少女は俺を眺めた。なるほど、これが周一郎の婚約者ってやつか、と頷いたその矢先、
「あ、だめ、カッツェ!」
どうしたはずみか、小猫が身をもがき、ずるりと腕から滑り出た、と思う間もなく、俺の立っている所から数歩後ろへ零れ落ちた。
「カッツェ!!」「っ」
とっさに振り返りながら、薄茶の塊を受け止めようと手を伸ばす。いや、わかってる、相手は猫だ、くるりと体を捻って無事に地面に降り立つはずだ。だが、落ちたものを受け止めようとしてしまうのはもう、俺の本能に近い、それがたとえ、自分の能力以上のことであったとしても。
「滝さん!」「滝さんっ!!」
玲奈と周一郎の警告はちょっと遅かった。
「へ……ぅわあああっっ!」
石段はしっかりしていた。充分な幅はあった。けれど俺の靴の下には砂ももちろんあって、体を奇妙に傾けた俺の足下が滑り、空中へ放り出されたと思う間もなく、一気に十数段階段を転げ落ちていた。
目の前に星が飛び、カラスがあほーと鳴き、ついでになぜかエイリアンだのゾンビだのが並んでスキップをしていく場面が入り交じってちかちかする。もろに打ち付けた背中の痛みと足の痛みが、ようやくのろのろと脳味噌に達する。
「い…たあ……っ」
「滝さん!」
周一郎が駆け下りて来て、ぶっ倒れたままの俺の側に膝をついた。
「大丈夫ですか?!」
「た…ぶん…」
「滝さん!」
周一郎の後ろから、顔を強張らせた玲奈と朋子が覗き込む。
「滝さん、どこか…」
周一郎が俺のことで青くなっているのを見るのは気持ちよかったが、あんまり心配させてやるのも可哀想で、もそもそと起き上がって首を振ってみせた。
「大丈夫大丈夫、それより猫、と…」
みぃみぃとか細い声を上げて、猫は俺の腹辺りに爪を立てている。
「よしよし、怖かったんだよな……いっ」
立ち上がりかけた俺は、ずきん、と頭の天辺まで駆け上がった傷みに思わず眉をしかめた。朋子がびくりと体を引き攣らせる。
「人を呼んで参ります!」
察した玲奈が急ぎ石段を駆け上がっていく。
「…驚かさないで下さい」
ほうっ、と重い溜め息をついて、周一郎が唸った。額に薄く汗がにじんでいる。本当に焦ってくれたらしい。
「そうヤワじゃないさ」
にやにやしながら言い返すと、
「これ以上、お人好しになってもらっては困ります」
猫を助けるために階段から落ちるなんて。
「おい」
「滝さん一人居るだけで、もう十分に厄介なんですから」
しみじみ呟かれて、俺はがっくりした。
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