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7.モレリー・コレクション(2)

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 数日後。
 お由宇の所へ行こうとした俺に、高野が一通の手紙を差し出した。
「?」
「滝様宛でございます」
「あ、どうも」
 白い封筒、宛名には『滝様へ』と書かれているのみ、住所も郵便番号もない。裏返してみたが、差出人の名前もやっぱりない。恥ずかしがりの娘から来たラブレターにしてはあまりにも殺風景な代物だ。
「…これはやっぱり……」
 何となく不安を感じつつ、封を切る。
(あ・た・り、だ)
『出かけられないことをお勧めする。その家が君にとって最も安全な場所だ」
 白い便箋にそれだけの文章が印字されている。何となく、大沢を思い出した。
「高野、これはいつ?」
「申し訳ございません、いつの間にか郵便受けに入っておりました」
 監視カメラの映像を探せば、誰が投函したかわかるだろうが、身元がわかるような人間は使っていないだろう。ましてや、差出人が入れるわけもない。
「ありがとう。ちょっとお由宇の所へ行って来る」
「かしこまりました」
 手紙をポケットに入れかけ、思い直して破り捨てる。
 もし、大沢が俺を見張っているなら、俺がうろうろすることはそのまま陽動作戦の一部になる。あれやこれやと手配しているお由宇や直樹から、少しでも敵の目がそらせるかもしれない。だが。
(お由宇のところへは行けないな)
 相手が直樹達の存在や居場所をどこまで知っているのかわからないが、わざわざはっきりさせてやることもないだろう。
 門扉を出て、レンガ塀が遠ざかるに従って心細くなってくる。やあめた、と言って駆け戻りたくなる。
 大体、俺はハード・ボイルド向きじゃない。敵の追及を知りながら平然としていられるほど図太くない。怖けりゃ震え、痛けりゃ泣く、普通の人間なのだ。断じて、お由宇やアンリや直樹や……周一郎のように、危険の中に飛び込んでいくのを日常生活や趣味にしたりしているんじゃない。
 俺はいつも逃げ回っているのに、厄介事の方が挨拶をしにやってくる。俺はウィンクさえ投げないのに、事件が引き寄せられてくる。加えて、より面倒なことに、俺はその厄介事を完全に無視できるほど器用でも強靭でもない。毎度毎度、こてんぱんになるのを知っているのに、なぜか『俺も手伝いましょうか』なんてへらへら笑いながら応じていってしまう。
(マゾなんだろうか)
 泣きたくなってきた。
 またその厄介事というのが、電信柱にぶつかることから国際犯罪まで、品数の豊富なことこの上ない。そのうち惑星直列とか、世界の破滅とかまで引っ掛かってくるに違いない。
(そうなったらもう普通じゃないよな? 呼吸する天災とか? 動き回る迷惑とか? 災難発生能力とか言われるんじゃないか?)
「はあ…」
 深く溜め息をついた俺は、すうっとふいに側に寄ってきた深緑の外車にきょとんとした。するすると助手席の窓が開く。
「あの…」
「はい?」
 呼びかけられて立ち止まる。窓からこちらを見上げた男は、俺の顔を眺めた後、
「失礼ですが」
「はい」
「滝さん、でしょうか?」
「は?」
 通りすがりに道を尋ねられるんだと思っていたのに。
「な、何か?」
 引き攣った笑いを浮かべて見下ろすと、相手はにこやかに笑みながら、助手席のドアを開けた。
「道を教えて下さい。佐野由宇子という人の家なんですが」
「佐野? ああそれなら…」
 言いかけて戸惑った。
 今こいつは俺のことを『滝さん』かと確認したよな? なぜ知ってるんだろう、俺はこいつを知らないのに。しかも、お由宇の家を知っているとも確信してて、そこへの案内を頼んでいる。なぜこいつは、俺にそこまで『詳しい』んだ?
 脳裏を掠めたのは、白い封筒、そういや、こいつがあの手紙の差出人だということもありえるわけだ。朝倉家を出てきた俺をずっと尾行してたってことも…。
 途中でことばを切った俺を、なぜか面白そうに見ていた男は、ちらっとバックミラーに視線を投げたとたん、きびきびと命じた。
「こっちへ!」
「え」
 あ、も、う、もない。助手席に引きずり込まれたとたん、近くの電柱にぶつかるような勢いで車が発進、加速する。
「なっなっなっ…」
「本当に聞いた通りの人だな」
 運転席の男は苦みばしった笑みを唇の端に浮かべ、横目で俺を見た。
 東洋系にも見えるが、どこの国出身ともわからない、四十過ぎの男だ。カラーシャツにジャケット、ループタイにシャツに合わせたポケットチーフ、よく見れば嫌みがない程度に整った顔で、仕草も滑らかでスマート、かなり上流階級なんじゃないだろうか。ちらちらとバックミラーを見ながら、
「ちょっと振り回しますよ」
 告げられたとたん一気に、安全ベルトを掴んだまま、ドアに押し付けられる。
「後ろの車、オオサワの手の人ですね」
 流暢な日本語だったが、大沢という人名に微かな異国訛りがあった。ぎょっとして体を起こし、得体の知れぬ紳士然とした相手を見つめる。
「私が気になります?」
「はいとっても!」
「私の事はすぐにわかりますよ」
 俺の元気のいい返事にくすくす笑った相手が続ける。
「それより、今はあの人達を何とかしなくてはね……何をやって、あんなに怒らせたのかな? 警告でも無視しましたか」
「なんでそれを…っ」
 つい尋ねかけて、慌てて口を塞ぐ。こいつだって、敵か味方かわからないのだ。
 ふふふ、と妙な含み笑いをした相手は、小学生を諭すように首を軽く振った。
「あなたみたいな素人が、こんな無茶をするのはいけませんね。大変、危険です」
(わかってるよ)
 思わず心の中で反論する。
(それでも、俺があいつにしてやれるのはこれぐらいしかなかったんだから、仕方ないじゃないか)
「佐野さんが言ってましたよ。あなたは時々、ひどく『無邪気な』考え方をして行動に移すから目が離せないって。本当に、そう、です、ね!」
 きりっ、と歯を噛み締める音がした。ハンドルがぐるっと回され、ヘアピンカーブを一息で回ってしまう。横滑りしかけたと思った次の一瞬に、弾かれるようにカーブを抜けて飛び出していき、後ろの車が突き放されるように後じさった。
「やれやれ、少しは話ができそうだ」
 男はにっと笑って煙草をくわえ、デュポンのライターで火を点けると、無造作に後ろの座席に放った。
「オオサワ達の脅しに妙な意地で反発するところなんか、実に『無邪気な』人ですよ、怖いもの知らずだ」
「あんた、誰なんだ」
 上機嫌で話し続ける相手にようやく口を挟めた。
「誰ねえ……あっとまずい」
 男は煙草を窓から弾いてハンドルを回した。裏路地に車を斜め駐車したまま、ドアを開けて降りる。
「お、おい!」
「手伝って下さい。この車はあの人達にあげましょう」
 男はトランクから幾つかのバッグを出した。俺に二つのバッグを持たせ、悠々とした様子で尋ねる。
「佐野さんの家、この近くでしたっけ?」
「あ、ああ。そこの角を曲がって…」
「ああ、あそこか」
 男は背後を振り返ることもなく、すたすたと歩き出した。荷物持ちよろしく、俺はその後に続く。
「あ、でも車…」
 あんな所に置いたままじゃ、と思う間もなく、鋭いブレーキ音の一瞬後、ぐわっと凄まじい音が背中を押した。
「っっ!」
 思わず半身振り返ると、俺達を追っていた車が置き去った車にまともに突っ込んでいる。うろたえたようによたよたと男達が逃げていく。
(上げるって…こういうことか)
 わけもなく、後部座席に放られたデュポンのライターが思い浮かんだ。あれ一つでも、けっこうな値段のものだと思うが、車まで『あげる』状況においては、ささいなことなのかもしれない。
「滝さん、早く!」
「あ、はいはい」
 男が親しげに呼ぶのに、重いバッグを必死に持ち上げ、俺は駆け寄っていった。


「どうですか?」
 男はお由宇の家の居間へ入ると、バッグの中の物を見せた。
 それは、写真で見たモレリー・コレクションと寸分違わぬ十数作品だった。
「え…あ…本物?」
「ええ、本物ですよ。ただし、モレリー・コレクションではない」
「??」
 訳のわからぬ俺に、アンリが続けた。
「デモ、彼ガ描イタナラ、ソレハ本物デス」
「???」
 俺は頭の中のマーボードーフをまとめようとした。が、マーボードーフはますますぐっちゃぐちゃになっていく。見るに見かねて、お由宇が説明してくれた。
「つまりね、あのモレリー・コレクションを描いたのも彼なのよ」
 そこで俺は、男が『ランティエ』と呼ばれる贋作造りでは有名な人間だと知った。モレリー・コレクションの無名画家の連作とは全くの嘘、全ては二十年ほど前に『ランティエ』が描いた作品群だったのだ。
「父ハ、世ノ知識人ガドコマデ鑑識眼ヲ持ッテルノカ、知リタガッタノデス。これくしょんガ、全テ売レタ時、父ハ大笑イシマシタ。美術関係者ト外国人ニ売ラナカッタノハ、父ノゆーもあヲ、ゆーもあトシテ終ワラセルタメデモアリマシタ」
 アンリは、例の妙な笑みを浮かべた。
「もちろん、モレリー・コレクションが何の価値もないというのではないわ。無名画家『ランティエ』の技量をつぎ込んだ連作、世にも珍しい贋作のコレクションとしてだけではなく、美術品としての価値も充分あるわ。だから、彼に綾野への罠の一つとして、自分の作品を完璧に贋作することを依頼したのよ」
「世界広しと言えど、自分の作品を贋作したのは、私ぐらいでしょうな」
 『ランティエ』は含み笑いをしながら言った。
「タッチが狂っているかと思ったが、大丈夫だったようです」
「狂っているどころか、昔のミスまでまねたのはさすがね」
 お由宇は『木影』の葉の影を一つを指差した。深緑のはずの影に、ほんの二、三粒と見える金色がついている。
「あの頃を思い出しましたよ。ほんの一瞬、自分の絵を描きたいと迷った筆遣いをね」
 『ランティエ』は感慨深げに言った。
「それで? これをどう使います?」
「すり替えられた偽物のモレリー・コレクションとすり替える。そして、その偽物を綾野がすり替えられた本物とすり替え、オークションの客にも偽物を提供しようというのさ」
 それまで、黙って絵を眺めていた直樹が応じた。相変わらず、理香の肩に回した手で優しく彼女の髪を撫でながら『ランティエ』を見つめた。
「あんたの描いた『もう一つの本物』は、本物と改めてすり替えるまでの代役というわけだ」
「……ふむ、満足です。贋作の命は如何に多くの人を騙すか、ですからね」
 『ランティエ』は、穏やかに笑った。
「それで?」
「あんたの出番は終わりさ。謝礼はスイスの銀行に振り込まれてるはずだ」
 直樹は『ランティエ』をじっと見つめて言った。
「なるほど。私の安全を保障してくれるわけだ」
 彼は笑み、少し頭を下げた。
「では、また御用がありましたらどうぞ。最近は仕事を選んでますから、御注意を」
 それから、アンリに向き直り、
「モレリー・コレクションを気に入って下さってどうも。あなたの父上とは懇意でしたよ」
「父ニ伝エテオキマス」
 きらっと二人の間に殺気が走ったようだった。コレクターと贋作家では、あまり仲がよくもないのだろう。
 『ランティエ』は来た時と同じように、ゆったりとした足取りで家を出て行った。
「本当ニ名前ドオリノ奴デス」
「え?」
「『らんてぃえ』トハ、ふらんす語デ……『何モシナイデブラブラシテイル人』トイウヨウナ意味デス」
 アンリは少し肩を竦めて見せた。
「さて、駒は揃ってきた」
 直樹は絵を見つめ、続いて俺を見た。
「大丈夫かい、滝さん。ドジしたって、すぐに助けられないんだぜ」
「彼は私と一緒にパーティに出てもらうわ」
 お由宇のことばに、一瞬舌打ちしそうな表情が直樹の顔に過った。きっと、また足手まといになると思ったのだろう。しかし、俺としても、ここまできて引くわけにはいかなかった。
「ま、せいぜい、ドジで陽動作戦をやらないようにしてくれよな」
 直樹の遠慮のないことばに、俺は俺だって『それなりには』やれるつもりなんだぞ、と毒づいた。たとえ…ドジのオンパレードでも。
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