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2.孤高一人(3)

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 その夜、俺は朝までまんじりともせずに過ごした。
 眠れるわけはなかった。眠れば、あの淡く輝く靄が、再び俺に周一郎を襲わせるような気がして、幾度かぞくりぞくりと身を震わせながら。
 次の朝は見事な秋晴れの日で、青色のガラスを散らせたように、空はそこここに微妙で繊細な輝きを煌めかせていた。
 雲一つない、とは、こういう空を言うのだろう。爽やかな風が開けた窓から吹き込み、強張った体をほぐしていく。少し伸びをした。タンスに放り込んでいるボストンバッグのことが、ふと頭を掠める。
(出て行くか?)
 理由もわからないままに?
「……」
 部屋を出た。
 この部屋、そして、この家は、俺にとっても『ホーム』になりつつある。
 できることなら離れたくない。
(けど)
 周一郎の生死となれば、話は違う。
「ふぅ…」
 廊下をとぼとぼと歩いて行った俺は、階段の下で、高野から手紙を受け取っている周一郎の姿を見つけた。
 整った顔立ちには少し影がさし、身に着けたベージュのタートルネックに隠れた首が、微かな傷みを伴って視界に飛び込んでくる。
「…おはようございます」
 こちらの視線に気づいたらしい周一郎が、ゆるやかに俺を振り向いた。艶やかな黒髪、眩げな表情、妙に幼く見えて、そのまま消えてしまいそうで、慌て気味に廊下を駆け寄る。
「周一郎、俺、」
「お由宇さんからまた手紙が来ていますよ」
 不思議なほど淡々とした、別な言い方をすれば、心がどこかに行ってしまっているような声だった。差し出された手からエアメールを受け取り、封を破る。
『こんにちは、志郎。元気でやってる?
 こちらはまた新しい展開になろうとしてるわ。以前のフランスの密輸組織を覚えてる? あれが、また急に動き出しているの。寸断されたはずなのに、みるみる組織化されていっている。まるで、「誰か」がまとめ始めたみたい。長期戦にもつれ込むのは困るから、早急に決着をつけることになると思う。準備は進んでいるから、心配しないで。
 むしろ心配と言えば、そっちの方かも。
 私にはどうしても気になっているの。
 綾野は、本当に死んだのかしら?』
「はぁ?」
 いきなりの手紙で、京都の事件をあれこれ書き出してあるのにも呆気にとられたが、何だって?
「綾野が死んでない?」
「、っ」
 びくっ、と周一郎が激しく震えて思わずそちらを見ると、相手の顔が真っ白になっていた。 
「おい、周一郎、」
「なぜ」
「だよな、あいつが生きてるなんて…」
 言いかけて俺は口を閉じた。
 真っ青になっている周一郎のサングラスの向こうの瞳、見えないはずのその視線がまっすぐ俺に注がれていると痛いほどわかる。その視線の意味も、まるで、テレパシーのように頭に飛び込んできた。 
 そうだ、違う、こいつが今こんなにうろたえているのは。
「生きてる、のか?」
「、」
 周一郎が目を見開いた。微かに息を吸い込む、だがその酸素は助けにならなかったらしい。
「な、ぜ」
「周一郎!」
「滝さん、に…っ」
 苦しげな呟きを漏らして崩れた相手に手にした便箋を投げ捨てた。
「周一郎! おい!」
 叫びながら、同時に理解する。
 こいつは知ってたんだ。
 綾野が死んでないこと。
 生きていること。
 フランスで復活している密輸組織、まさか、その背後の『誰か』というのは。
 そして、その『誰か』が狙っているのは、まさか。
「周一郎!」
 半身起こさせてぴたぴたと頬を叩く。高野の迫力には負けるが、幸いにも少しめまいを起こした程度だったらしく、周一郎はすぐに意識を取り戻した。
 薄く開けた瞳で俺を見上げ、肩越しに入る朝日が眩かったのか、すぐに背ける。
「大丈夫か?」
 夕べのことも堪えてるはずだ。何より今わかった事実、それが俺に封じられていた情報だったということは。
「…ちょっと…出かけませんか」
「は?」
 ぼんやりした口調で周一郎が呟き、呆気にとられる。
 出かける? こんな状態で? こんな体調で?
「ざけんな! 何、馬鹿なこと言ってやがる! さっさと寝ろ!」
 本気で詰った。
「ぶっ倒れたくせに、出かけるも何も」
「あなたは本当にのせやすいな」
 俺の怒りの形相を見上げていた周一郎が、ふいに、にっと笑って身を起こす。
「何度ひっかかっても懲りないんですね」
「は、ぁ?」
 くすりと笑った相手は、倒れたことなど夢だったようにするりと立ち上がって、パンパンと元気に服の埃を払い、ことばを継いだ。
「今のは芝居です」
 微かに肩をすくめてみせる。嘲る口調だった。
「おい」
「本当にあなたはいつまでたってもお人好しだ……」
 最後の方が滲むように噛み締められた、そう感じたのだが。
「どうせ、今日、大学へは行かないんでしょう? ちょっと付き合って下さい」
 暇な男を使う、そういう響きの声にむっとする。
 俺だってそれなりに予定があるのだ、予定が。まあ、今日はないが。今日は。
「付き合う…って、どこへ」
 ふて腐れた俺の問いかけに答えが返ってくるまで、少し沈黙があった。
「……ぼくが気に入っている所へ。それとも…」
 背中を向けて呟き、くるりと振り返った周一郎は、冷めた笑みに唇を歪ませていた。
「行き先不明では不安ですか?」
 変だ。
 ふと、そう思った。
 これは周一郎らしくない。らしくなさすぎる。
 これではまるで、俺に甘えているようだ。
 そう思った瞬間、頭の済みで白い反射が閃いた。クレッセント・ムーン……ちらりと浮かんだイメージに呼び出されたように、淡い靄が見る見る頭の中を覆っていく。
(しまった!)
 心の中でうろたえた。
 眠ってる時だけじゃなかったのか!
「…わかった。行くよ」
 『俺』が応える。
「…」 
 ぴくりと周一郎の眉が動いた。
(気づけ、周一郎!)
 気づいてくれ、『これ』は俺、じゃない。
「………」
 周一郎はじっとこちらを見つめていた。光が瞳を過り、煙るような目になったのを、サングラスをかけて隠すように背け、
「では、車を用意させます」
 背中を向けて遠ざかる。しばらくして、玄関から俺を呼ぶ声がした。
(気づかなかった? まさか)
 『俺』は当然のようにすたすたと歩いて玄関に向かい、用意された車に乗り込む。じたばたしている俺に気づかないふうで、珍しくラフなジャケットスタイルで既に車に乗り込んでいた周一郎が、表情のない顔で運転手に告げる。
「和野岬へ」
 朝倉家を出て数十分後、運転手が唐突に伝えてきた。
「尾けられています」
「何だ」
 後ろを振り返りもせず、周一郎が尋ねる。
「オートバイが一台……追いつきます」
 思わず後ろを振り返った。HONDAの750、見る見る近づいてこちらの車と並ぶ。
「っ!」
 ライダーがふいに手を伸ばし、どんどん、と車の窓を叩いてきた。何かを喚くように頭を振っているが聞こえない。何を思ったのか、ライダーが片手でオートバイを操りながら、ヘルメットを脱ごうとした。
(おい、危ない!)
 俺は慌てたが、『俺』は落ち着いたものだ。車の外で怪しい動きをするライダーにうろたえた風も驚いた風もない。だが、それは周一郎も同じで、何か攻撃をしかけられていると怯える様子もなく、相手の出方を眺めている。
「!」
 と、背後からもう一台、HONDAと車の間に突っ込んでくる。
「…」
 運転手は見事な腕で、絡み合うように並走し始めたオートバイ二台から離れた。HONDAがもう一台のバイクと競り合いながら速度を上げていく。あっという間に道路の先に消えていく。
「……暴走族の小競り合いでしょうか……おや?」
 平然とことばを継いだ運転手が再びバックミラーを見る。
「もう一台……女性のようですが、さかんに止まれと合図してきています」
 ふ、と周一郎が笑った。
 寂しい笑み、切なげな、胸を絞るような笑みを浮かべて、首を振る。
「振り切ってくれ」
「はい」
 いきなり車の速度が上がった。背後から追いすがってくるバイクを見る見る置き去る。
「今のは……?」
 『俺』が尋ねた。
「さあ」
 変だな。
(相手のこと、知ってるみたいだったのに)
 俺の思惑も知らぬ気に、車は和野岬へ向かって走った。
 途中、オートバイ事故ーーひょっとすると、俺達を追い越していった、あの二台のどちらかーーがあったらしく、人々が集まっていたが、今の俺にとっては、どうやって『俺』を引き止めるかが差し迫った問題、だがじたばたするだけで何もできない。
 そうこうしているうちに、岬が見えてきた。観光地でもない寂しい場所、おまけに朝のことだから、人影はほとんどない。
 まさに『俺』にとっては絶好の場所だ。
「……どうぞ」
 運転手がドアを開け、『俺』達を降ろすと、言いつけられていたのか、近くのレストランへ走り去って行ってしまう。俺が必死に、行くな、行ったら、お前のご主人がどうかなっちまうんだぞ、と心の中で叫んでも、もちろん届かなかった。
「いい天気ですね」
 周一郎は車が消えてしまうと、深く息を吸い込んだ。ゆっくりとした足取りで岬の突端へ向かう。それほど切り立った険しい岬ではなく、突端まで緑豊かな岬だったが、見下ろせば白い歯並みを思わせる海が広がっている。岬の裾に噛みつく波の勢いはかなり強い。
 ここから落ちれば、まず助からないだろう……。
(あっ、このっ!)
 その俺の思考に反応したように、『俺』は静かに周一郎の背後に忍び寄った。
(ばかっ、やめろっ)
 もがく俺、進む足、踏ん張る俺、周一郎の背中に向けて伸ばされる、手。
(やめろこのくそ馬鹿すっとこどっこい!)
「滝さん」
「、」
 突然、凛と響いた声に動きを止めた。
 無防備に背中を向けていた周一郎が、陽炎が揺らめくように向きを変え、俺に向き合った。
 ざぶり、と、その遥か下で波の砕ける音がする。
「滝さん? 僕のことばが聞こえてますか?」
 物柔らかい口調で呼びかけながら、周一郎はこちらを見据えた。静かに澄んだ瞳、サングラスの向こうからでもわかる、優しい視線。
(気づいてたのか!)
 いつから? どうして?
 でも、それなら、なぜ、こんなところへ『俺』を誘い込んだ?
(あ)
 俺の脳裏に、力なくぐったりとベッドの上に伸ばされていた周一郎の腕が浮かんだ。
(まさか)
 背中に氷塊が放り込まれた気がする。過ったのは京都の清の姿。
 それが何を意味するのか、もう俺はよくわかっている。
(殺される、つもりで)
「、っ、ば、かっ」
 じりじりと周一郎の側へ近づいていた『俺』の足が止まった。ほんの少し、俺が表面に出ることに成功した、その間に叫ぶ。
「何、してるっ!」
「滝さん…」
「にげ、ろっ!」
 必死に後ずさりする俺に、周一郎は静かに首を振った。
「じゃあ、誰か、を、呼んで、く、れっ!」
 前へ前へと否応なく押し出される力に抵抗する。次第に押さえがきかなくなる。頭ががんがん痛み出して吐き気がする。
「は、やくっ!」
 だが、周一郎は再び首を振った。
「……暗示は……強いものです」
 微かな声がつぶやいた。
「へたに実行を妨げれば……人を…破壊することもある……」
「周一……っ!」
 びしっ、と脳髄に亀裂が走った、そんな痛みに膝をついた。もっともそれは、意識上の俺のこと、『俺』の体は再び周一郎に向けて迫り出している。
「滝さん?」
 周一郎は正面から俺を見つめた。サングラスを通しても、その瞳に宿る深い憂いと絶望は、とても十八、九で浮かべられる凄さがあった。
「他の誰かなら、僕はむざむざ殺されはしない……でも………あなたには……」
 ぐっと眉根が寄せられた。端正な顔立ちが苦しげに歪む。閉じた瞼の睫毛が震え、深いところから声が漏れた。
「僕は死にたくはない」
(それなら『こいつ』を何とかしろよ!)
 胸の中で地団駄踏んだ。
(殴るかどうにかして病院送りにしろって!)
 俺だって嫌だ、こんな状態で訳もわからず、人殺しになるなんて。
(周一郎!)
 助けてくれ。
(周一郎っ!)
 俺の煩悶に応じるように、ふ、と周一郎は薄く目を開いた。
 風が吹き上げ、周一郎の髪をなびかせる。噛みしめていた唇に淡く血が滲んでいる。どれほどの激情と戦っていたのか、こちらを射抜くように捉えていた瞳が、急に生気を失った。
(おい?)
 背中を氷塊どころではない、もっと寒い、ぞっとしたものが滑り落ちていく。
(どこかで、これと同じ場面を)
 そっくりな、この競り上がる不安感、溢れていく、満ちていく、奇妙な確信。
 オレハコイツヲ、タスケラレナイ。
(周一郎?)
「でも……」
 甘い、とさえ言えるような声音。
 微かな笑み、今にも消え去りそうな、気弱な。
(京都)
 そうだ、あの橋の上、川面へ周一郎が呑み込まれていく一瞬前の。
(あのとき、俺は間に合わなかった)
 場面が重なる。
 仰け反り落ちる周一郎、水面にあがる飛沫、寸前綻ぶ、幻のような笑み……。
(冗談、じゃ、ね、えっ)
 俺は死にものぐるいになった、『俺』を内側から殴りつけ、ぶちのめし、淡い靄を突き抜けようともがく。
 だが。
「僕はあなたを殺人犯にしたくない」
 淡々と周一郎はことばを続けた。同時に、まるで後ろにも地面があるかのように、平然と空中へ一歩、後じさりした。
 がらっと音をたてて、周一郎の足下の岩が砕ける。
「周一郎!!!」
 俺の口を絶叫がついた。
 瞬時に靄を突き抜け、周一郎へと精一杯手を差し伸べる。
 はっとしたように、一瞬、周一郎の顔がほころんだ。いいんですか、と言いたげな、妙に痛々しい表情が空に舞う。
「っ!」
 周一郎が腕を伸ばした。俺の手を掴もうと、岩と一緒に崩れ落ちながら、こちらへ手を差し伸べる。
「くそぉっ!」
 両手を差し出す。手と手、スローモーションのように近づいていく。地面に倒れて叩きつけられ、一瞬視界が眩んだ。
「ち、いっっ!」
 強打した胸の痛みにふっと緩んだ意識の中で、這い寄ってきた『俺』を蹴り出す。
 微かに鈍っていた視界が晴れ渡る。
 体を伸ばす、もっと、もっとだ。
 がっ、と腹のあたりでのしかかっていた岩が崩れる。均衡を失って前へのめる。
 一緒に落ちるかもしれない。
(んなもん、構うか!)
 もう、二度と、あんな想いはごめんだ。
 なのに。
「…え?」
 周一郎の唇が何かを紡いだ。
「なに……?」
 もう少しで届くはずの手を、周一郎がいきなり自分の体に引き寄せて驚く。 
「ばっ…!」
 緩やかに流れていた時がいきなり加速される。
「おいっっ!」
 俺の目の前で、周一郎は見る間に黒い点となって遠ざかっていく。何が起こったのか信じられなくて見開いた目に、波が意志あるもののように大きく盛り上がり、周一郎を包み込み呑み込むのが映った。
「どう…して……?」
 落ちた?
 なぜ?
 十分に俺の手を掴める距離だった、今度は間に合った、なのに、なぜ?
「なんで…? ……っ」
 体を起こそうとして、地面についた手の下でざくり、と砕けた岩にぎょっとする。改めて気づけば、俺の体はかろうじて岩盤に乗っている状態、もう少し力が加わって岩が砕けていれば、きっと支えを失って落ちていただろう。
「まさか」
 閃光のように答えがひらめいた。
 周一郎の視界に、この俺の状態は見えていただろうか?
 ああ、もちろん、見えていただろう、あの全てを見通す瞳は、自分を掴んだ俺がこの後どうなるのかも、はっきり見て取っていたに違いない。
(俺も落ちると、思って…?)
 この岬を熟知していた。端に近寄れば、踵の軽い一撃で崩れるほど脆い基盤だということも。だからこそ、ここを選んだ周一郎、ならば当然。
「……どうして……お前はそう…なんだよ…」
 悔しさが募る。腹立たしさに変わり、怒りに変わる……またもや助けられなかった無力、それは周一郎と俺の、どうしても埋め切れない立ち位置の落差を思わせて。
 周一郎が俺を助けるということは、周一郎が死ぬしかないこと。
 俺か、お前か。
 そういう選択肢しかない厳しさを、俺はまた読み損なったということか?
 けど。
「どうして…一人で、決めちまうんだよ!」
 ざぶっと海が穏やかな音をたてた。
「どうしていつも!」
 俺にその才能があれば、お前を追い詰めずに済んだのか?
 俺にその覚悟があれば、お前を守ることができたのか?
 けど。
「どう、して……っっ!」
 どうして、お前はいつも、俺を対極に置くんだ。
「く…そおおおっ!」
 ざわざわと人が集まる気配も気持ちにはなく、がくがく震える体と過熱した頭が、今の俺の全てだった。
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