『segakiyui短編集』

segakiyui

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SSS77『天女幻想』 

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 今夜は素晴らしい満月だ。それは僕にもよくわかっていた。『プレイボーイ』の非現実的なほどのグラマーのグラビアを顔に乗せ、地下一階の殺伐としたコンクリートの部屋にいたとしても、だ。こんな夜には仕事はしたくない。けれども、電話は無情に鳴り響く。
『アロー』
 低い押し殺した声が僕の耳を静かに圧迫した。死神の囁き、暗黒色の翼を持ち、血の色の金を纏った天使の声。
「アロー、ご用件は?」
 僕の声は、間が抜けている。
『女を一人。今夜の12時にバーセリスト通りにある、ナブルの下だ』
「ナブル?」
『花の模様をあしらった街灯だ。十字路から4つ目の』
「ああ…」
 僕は思い出した。風船売りのおばあさんが、いつかあの街灯に風船を引っ掛けて困っていたっけ。仕事中でなければ、取り戻してあげようと……。
『女と言っても、まだ少女だ。空色のスカーフを首に巻き、紅色のバラを左胸に付けている』
「左胸? ……OK。金はトリス銀行に」
『わかっている』
 さよならも言わないで、電話は切れた。無愛想だね。でも、ま、死神ににっこりされる方がゾッとするか。
 僕は愛銃を身に付け、外に出る。ほら、やっぱりそうだ。鏡のように平面的で冷たくて、心を騒がすアルテミスの笑み。満月と銀貨と照準……心を繋ぎ止める白銀の輝きよ。
 バーセリスト通りは人影がほとんどない。ナブルの下に、一つだけ。僕はゆっくりと近づく。毎度の遣り口、足音も立てずに忍び寄る。
(あ、まだ、引っかかってやがる)
 僕は仲間に言わせると、頭がどうにかしているそうだ。仕事の最中に風船売りのお婆さんのことを気にかける殺し屋など、狂人以外の何者でもないとさ。風船売りのお婆さんの飛ばしてしまった風船は銀色、そして、そいつはしつこくナブルの先に引っかかっていた。
 ナブルの下の少女は振り返る。左胸の紅バラ、白い首の空色のスカーフ。
 ターゲットはこの子だ。
 少女は僕を認めるとかすかに笑んだ。
「…」
 僕は無言で上げた銃口を少女の左胸に向ける。少女は逃げない。笑みを浮かべたまま立っている。かわいそうだが、仕事は仕事。これも、辛いこの世の定めと思って諦めてくれ。引き金は軽々と動いた。閃光、少女の胸元へ吸い込まれる熱い鉛弾。赤いバラは散る。花弁を手放して、そのビロードの輝きを闇へ捨て去る。
「なっ…?」
 次の瞬間、僕は呆気にとられた。鉛弾は少女の体を通り抜けてしまったのだ。紅バラは散る、しかし少女の胸に紅バラは咲かない。花びらは路上に撒かれていた。
「お前は…」
 少女は笑った。楽しげなくすくす笑いをして、僕の問いには答えない。瞳が煌めいて、アルテミスの輝きを宿している。唇は紅バラの赤さだ。初めて僕は、少女の尋常ではない美しさに気づいた。人間離れした、幼い顔立ちにふさわしからぬ、ピンと張った弦の、透んでいく秋の気配の、今満開の桜の美しさだった。少女は静かに首のスカーフを解いた。剥き出しにされた頸は陶磁器の白さだ。
「風船を……取りましょうね」
 少女は初めて口を開いた。愛らしい唇から漏れ出た声は、銀鈴をただ一つ、峡谷で鳴らす快さだ。僕は銃を取り落とした。手が震えて何も持てなかった。『おぼこ』のように、少女の美に全身全霊を打ちのめされ、爪先から頭の天辺まで顫えが来た。
 少女はスカーフを広げる。空色のスカーフは夜目にもそれとわかるほど淡く輝いている。かなりの大きさだ。少女はスカーフをそっと腕にかけて羽織った。
「あ…」
 ふわりと少女の体は空に浮いた。白いロングドレスの裾が翻る。波濤が形作られる自然さで、少女は宙を漂っている。空色のスカーフが霞のように少女を取り巻き、髪が細い肩を洗うように靡いている。白い顔に満月の光は全て注がれ、光り輝くその笑みは現世(うつしよ)のものとは思えない。
 少女の手は風船を抱いた。そのままゆっくりとこちらへ向き直り、再び微笑んで彼女は手を放した。風船は浮かんでいく。しずしずと…そして、次第に速く。銀色の風船、澱んだ人工の銀色が、澄み渡った満月の光の中に吸い込まれていく。ああ、眩しい……眩しい。光が僕を取り巻く。光の洪水、いやそんなものではない。もっと激しい流れ、きらきらと輝く硅石の粉のような、魚の鱗の躍る川面のような、光の奔流。僕はその中を、細かな塵となって漂い、飲み込まれていく。
 少女は微笑む。月光の輝きを宿した瞳、紅バラの深さを秘めた赤い唇、謎めいた笑み。翻る白いドレス、空色のスカーフ。夜空に浮かびながら、少女は上天を指差す。指の先に満月、満月、その巨大な輝き。
「私はあそこから舞い降りました」
 少女の銀鈴の響きの声が囁く。誘うような、その声。
「今、あそこへ帰ります。お見送り……ありがとうございます」
 少女は光の中を歩み去る。絹の衣を踏むような、現実離れした密やかな歩みは、月へと向かっている。空色のスカーフは、今は光を集めた織物と思われるほど薄く透け、光の波の合間に揺れる。
「行かないでくれ」
 僕は呻くように呟く。
「一人で、こんな辛い世界に残さないでくれ」
 少女が振り返った。哀れむような瞳の優しさ、しかし少女は首を振る。
「どうしてだ? どうして僕は…」
 問いかけに、少女は無言で地を指差す。散った紅バラ。それが僕の罪の重さであるとでも言いたげに。重々しい仕草は、僕を果てしない暗闇へ突き落とす。
 銀世界、満月が好きだった。満月に照らされた夜の街並みが好きだった。しかし考えてみれば、僕はいつも仕事に関係して月を見ていたのだ。白くぼやける月光下の世界を、目に見えぬ返り血で全身を赤く染めて、僕は歩いて来たのだ。
 少女は手を差し伸べてくれる。しかし、僕はもうその手を掴めないとわかっていた。遠すぎる、その世界は、僕にとって永遠に憧れでしかない。少女の笑み……彼女の頬に涙が伝わる。涙の雫が月光を浴びて、無数の星のように輝き、砕け散る。その光は再び月光へと吸い込まれていく。ああ、僕には、そんな戻り場所もありゃあしない………。

 気がつけば、僕は頬に涙を流しながら、ナブルの下に立ち尽くしていた。ナブルに引っかかっている風船はそのままで、足元には、既に冷たい骸と化した少女が死んでいた。

                                    終わり
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