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『足跡』
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「お客さん」
バスの運転手がとうとう声をかけてきた。
「この先のバス停で、このバスは引き返しますよ。次に来るのは明日の朝です。本当にこっちでいいんですか」
「はい、構いません」
私ははっきり答えて、ミラーの中の相手に微笑みかけた。見てはならないものを見たと言う顔で目をそらせた運転手に、
「連れが迎えに来てくれるんです」
「そうですか」
運転手は小さな溜息をついた。
バスは私一人を乗せて先細りの山道を揺れながら走っていく。あたりの木々も岩肌も一昨日からの雪に覆われて、風景はモノトーンに近い。
「女の方お一人じゃあ、と思っていたんですよ……そうですか、お連れさんが」
運転手は独り言のように呟いた。
私はもう一度微笑んだが、連れがすでにこの世の人でないことは話さなかった。
「では、お気をつけて」
雪の中に半分埋もれたバス停の前で、バスは咳き込むような音を立てて止まった。降りた私のエネメルのパンプスがずぶりと雪に沈むのを、運転手は凍りつくように見つめた後、ようようそう言って扉を閉めた。少し先の小さな広場で向きを変え、バス停で立っている私から逃げるようにスピードを上げて遠ざかって行く。
テールランプを滲ませる雪が見る見る激しさを増してきていた。
私は体を屈めてパンプスを脱ぎ、コートの下に入れてそっと抱きしめた。それからゆっくりとバス停を越え、広場を抜け、見た目にはなだらかな雪の平原に、一歩、また一歩と足を進めた。
夫、涼一が世を去ったのは5ヶ月前だった。
残業が続き、ひどく疲れるようになったと言い出したのは一年前ぐらいだろうか。
けれども、大学へ行っている長男と長女のためにも休めないと頑張り続けていたし、私もそれを当然だと思って励まし続けた。何かが変だと感じ出して受診した時、手の打ちようがないほど広がったがんが見つかった。会社は過労死だとは認めなかった。とりあえずの一時金が入ったものの、生活できる量ではない。幸いローンが終わっていて、子ども達もそれなりにアルバイトを始めて独立し、私は私で職を見つけて無我夢中で働いて、どうにか暮らしが元に戻ってきた矢先、エナメルのパンプスが見つかった。
上品な茶色。夫の好きな色で私も好きになった色。結婚二十年の記念に買ってもらって、また二人で旅行にでも行く時に、と残しておいたもの。その時はパンプスに合うスーツを買おうと笑っていた、夫。
何かが崩れて壊れて行った。
私はできるだけきれいに装い、家の中を整理し、子どもに旅行に出て来ると手紙を書いて家を出た。そのパンプスを履いていると、ふと夫の足音が重なるようで、夫が背後に笑って立っているような気配がして、何度も何度も立ち止まった。
それでも、夫は、やはりどこにもいなかった。
私は息を切らせて立ち止まった。
雪の中に突っ込んだ両足は他人のもののようだ。もう進むことも戻ることもできない。降りしきる雪が肩にも胸にもへばりつき、それらはじっくりと外から私を包み込んで、やがて皮膚から体の芯まで冷気の柱に変える。
目を閉じ、力を抜く。雪は私を軽々と受け止め、見る見る積もり固まり凍らせていった。
たぶん、私は今までで一番夫を愛しているだろう。雪が私のまわりの余計なものから私を遮り、夫への想いだけに染めていく。凍えて麻痺していく手足も物憂く打っている心臓も全て冷えた塊にして、私を限りなく純化させていってくれるのだ。そうして私は夫と繋がる。もう一度、夫と寄り添い、夫と同化する。
私は死を通して夫のものとなり、夫もまた私のものとなるのだ。私の愛は変わらない。私の愛は永遠になる。
いつかの気配が間近でした。
夫は私を迎えに来てくれたのだ。
私は微笑みながら意識を失った。
「母さん!! 母さん!!」
激しく揺さぶられ、頬を叩かれ、私は目を開けた。まばゆい光が差し込み、思わず目を閉じると、再び火が出るほど頬を叩かれた。
「母さん!!」
「お母さん!! 何してんのよ!! こんなところで、何してんのよお!!」
目を開けると、泣き腫らし怒り狂った二つの顔があった。
「涼子……弘一……」
「何考えてんだよ!! こんなとこで、何してんだよ!! 俺らに母親までなくす気かよ!!」
弘一の目から落ちる涙が、陽の光にきらきら光っている。それはひんやり冷たくなって、私の顔に降り注いだ。
「運転手さんが気にしてくれなかったら、どうなってたと思うんだ!!」
「もうだめかなと思ってたんです。何せ、夜明けてましたし、昨夜は雪もよく降った。今朝は晴れたが、万が一雪の中で眠り込んだら見つけられないぞ、と。なのにどうです、バス停まできたら、雪の上に足跡が一つ、まっすぐこっちへ来てる」
「手紙見て、涼子がおかしい、って。母さん死ぬ気だって。父さんから貰ったパンプスがないって。きっと、いつか父さんと行くって言ってた、雪景色の綺麗なあの場所だって。だから、俺」
弘一が男泣きに泣く横で、涼子が言った。
「急いで来たの、私達。写真見せて聞いて回って。夜中だったのに、運転手さんが覚えててくれたの、茶色のきれいなパンプスの女の人ですか、って。雪の中に立っていたのを嫌な気持ちで見てましたって。朝一番のバスで来たら、お母さん、信じられる、まっすぐ続いた足跡があってね、お母さんが雪の上で眠ってたの、雪ひとつも被らないで!」
「でも…雪に埋もれたのよ……お母さん……雪の中に……」
その途端、私達のすぐ近くで、きゅ、きゅ、と雪が鳴った。瞬時に振り返る私達の前、今の今まできらきら輝く布のようだった雪に、くっきりと二つの足跡ができていた。
懐かしい気配がそこにある。
「あなた……」
きゅ、きゅ。
足跡は後ずさりして向きを変えた。
「とう……さん……?」
「こりゃあ…」
呆然とする私達から、足跡はどんどん遠ざかって行く。
「あなた……あなた!! 行かないで!! 側に居て!! 側に!!」
きゅ。
足跡は立ち止まった。
だが、いくら待っても、足跡はそれ以上増えてはくれなかった。
終わり
バスの運転手がとうとう声をかけてきた。
「この先のバス停で、このバスは引き返しますよ。次に来るのは明日の朝です。本当にこっちでいいんですか」
「はい、構いません」
私ははっきり答えて、ミラーの中の相手に微笑みかけた。見てはならないものを見たと言う顔で目をそらせた運転手に、
「連れが迎えに来てくれるんです」
「そうですか」
運転手は小さな溜息をついた。
バスは私一人を乗せて先細りの山道を揺れながら走っていく。あたりの木々も岩肌も一昨日からの雪に覆われて、風景はモノトーンに近い。
「女の方お一人じゃあ、と思っていたんですよ……そうですか、お連れさんが」
運転手は独り言のように呟いた。
私はもう一度微笑んだが、連れがすでにこの世の人でないことは話さなかった。
「では、お気をつけて」
雪の中に半分埋もれたバス停の前で、バスは咳き込むような音を立てて止まった。降りた私のエネメルのパンプスがずぶりと雪に沈むのを、運転手は凍りつくように見つめた後、ようようそう言って扉を閉めた。少し先の小さな広場で向きを変え、バス停で立っている私から逃げるようにスピードを上げて遠ざかって行く。
テールランプを滲ませる雪が見る見る激しさを増してきていた。
私は体を屈めてパンプスを脱ぎ、コートの下に入れてそっと抱きしめた。それからゆっくりとバス停を越え、広場を抜け、見た目にはなだらかな雪の平原に、一歩、また一歩と足を進めた。
夫、涼一が世を去ったのは5ヶ月前だった。
残業が続き、ひどく疲れるようになったと言い出したのは一年前ぐらいだろうか。
けれども、大学へ行っている長男と長女のためにも休めないと頑張り続けていたし、私もそれを当然だと思って励まし続けた。何かが変だと感じ出して受診した時、手の打ちようがないほど広がったがんが見つかった。会社は過労死だとは認めなかった。とりあえずの一時金が入ったものの、生活できる量ではない。幸いローンが終わっていて、子ども達もそれなりにアルバイトを始めて独立し、私は私で職を見つけて無我夢中で働いて、どうにか暮らしが元に戻ってきた矢先、エナメルのパンプスが見つかった。
上品な茶色。夫の好きな色で私も好きになった色。結婚二十年の記念に買ってもらって、また二人で旅行にでも行く時に、と残しておいたもの。その時はパンプスに合うスーツを買おうと笑っていた、夫。
何かが崩れて壊れて行った。
私はできるだけきれいに装い、家の中を整理し、子どもに旅行に出て来ると手紙を書いて家を出た。そのパンプスを履いていると、ふと夫の足音が重なるようで、夫が背後に笑って立っているような気配がして、何度も何度も立ち止まった。
それでも、夫は、やはりどこにもいなかった。
私は息を切らせて立ち止まった。
雪の中に突っ込んだ両足は他人のもののようだ。もう進むことも戻ることもできない。降りしきる雪が肩にも胸にもへばりつき、それらはじっくりと外から私を包み込んで、やがて皮膚から体の芯まで冷気の柱に変える。
目を閉じ、力を抜く。雪は私を軽々と受け止め、見る見る積もり固まり凍らせていった。
たぶん、私は今までで一番夫を愛しているだろう。雪が私のまわりの余計なものから私を遮り、夫への想いだけに染めていく。凍えて麻痺していく手足も物憂く打っている心臓も全て冷えた塊にして、私を限りなく純化させていってくれるのだ。そうして私は夫と繋がる。もう一度、夫と寄り添い、夫と同化する。
私は死を通して夫のものとなり、夫もまた私のものとなるのだ。私の愛は変わらない。私の愛は永遠になる。
いつかの気配が間近でした。
夫は私を迎えに来てくれたのだ。
私は微笑みながら意識を失った。
「母さん!! 母さん!!」
激しく揺さぶられ、頬を叩かれ、私は目を開けた。まばゆい光が差し込み、思わず目を閉じると、再び火が出るほど頬を叩かれた。
「母さん!!」
「お母さん!! 何してんのよ!! こんなところで、何してんのよお!!」
目を開けると、泣き腫らし怒り狂った二つの顔があった。
「涼子……弘一……」
「何考えてんだよ!! こんなとこで、何してんだよ!! 俺らに母親までなくす気かよ!!」
弘一の目から落ちる涙が、陽の光にきらきら光っている。それはひんやり冷たくなって、私の顔に降り注いだ。
「運転手さんが気にしてくれなかったら、どうなってたと思うんだ!!」
「もうだめかなと思ってたんです。何せ、夜明けてましたし、昨夜は雪もよく降った。今朝は晴れたが、万が一雪の中で眠り込んだら見つけられないぞ、と。なのにどうです、バス停まできたら、雪の上に足跡が一つ、まっすぐこっちへ来てる」
「手紙見て、涼子がおかしい、って。母さん死ぬ気だって。父さんから貰ったパンプスがないって。きっと、いつか父さんと行くって言ってた、雪景色の綺麗なあの場所だって。だから、俺」
弘一が男泣きに泣く横で、涼子が言った。
「急いで来たの、私達。写真見せて聞いて回って。夜中だったのに、運転手さんが覚えててくれたの、茶色のきれいなパンプスの女の人ですか、って。雪の中に立っていたのを嫌な気持ちで見てましたって。朝一番のバスで来たら、お母さん、信じられる、まっすぐ続いた足跡があってね、お母さんが雪の上で眠ってたの、雪ひとつも被らないで!」
「でも…雪に埋もれたのよ……お母さん……雪の中に……」
その途端、私達のすぐ近くで、きゅ、きゅ、と雪が鳴った。瞬時に振り返る私達の前、今の今まできらきら輝く布のようだった雪に、くっきりと二つの足跡ができていた。
懐かしい気配がそこにある。
「あなた……」
きゅ、きゅ。
足跡は後ずさりして向きを変えた。
「とう……さん……?」
「こりゃあ…」
呆然とする私達から、足跡はどんどん遠ざかって行く。
「あなた……あなた!! 行かないで!! 側に居て!! 側に!!」
きゅ。
足跡は立ち止まった。
だが、いくら待っても、足跡はそれ以上増えてはくれなかった。
終わり
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