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『あなた向きの罠』(2)
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「新製品のモニター?」
男は、製薬会社の一室で、窓から差し込む光に細めたままの目を凝らして、正面に座っている相手を見た。会議用の机の上には、男の履歴書と他に何冊かのバインダーが置かれていて、つい今まで就職してからの待遇について説明を受けていた。一通りの説明が終わったところで、余談だが、と行った調子で相手が切り出したのが、夢を見る薬についての話だった。
「現代人は疲れていますよ。仕事や家庭、しなくてはならない役割分担に疲れ切っている。これはまだ研究段階なんですが、そらよくあるでしょう、見たい夢が見られる薬ができたら……と言う話。あれを今考えているんです。夢の中で日頃やりたいことを体験し、自分と違った役割を果たすことで、起きている間にこなしている役割の負担からくるストレスを解消する。日曜画家や日曜大工、あれと似たようなことを夢の中でやってもらおうと言うわけです。本来、夢にはそう言った働きがあったはずなんですが、現代病とでも言うんですかね、その夢の働きも行き詰まっているのが現状です。足りない栄養素は取ったほうがいい、けれど取っている時間も暇もない。そう言う人に成分製剤がある、あれと同じ発想です」
すらすらと淀みなく続く相手の話を、男は興味を持って聞いた。
「で、それが出来たとでも言うんですか?」
「試験的に、ですが。有志で試してみたんです。こればっかりは動物実験で済むと言うものじゃありませんからね。ところが1つ厄介な事がわかりまして」
相手はそうっと声をひそめた。
「イメージ通りの夢は見られます、確実に。ただ具現性が強いんです。ちょっとでも何か考えると、その通りの夢になる。だから困ってしまって…目に見えない罠みたいなものです、何でも思い通りになる世界に居るから、どんどんとんでもない発想に落ち込んでしまって、夢に絡まれるって言うんですか、二進も三進も行かない状態で目を覚ます人が多い。1ヶ月近く何も手につきません……1人、日常生活へ戻れなくなりました」
相手は『廃人』になった、と言うことばをあえて使わなかった。
「けれども、この薬は現代人には必要になるでしょう。そう言った意味でも開発を中止したくないんです。もうちょっと……もうちょっと、自分の心をコントロールしながら試してくれる人がいたなら…」
意味ありげに、相手がことばを切って男を覗き込み、ようやく男は、どうして職場で問題を起こして馘になったような人間に、こんな一流会社から面接の呼び出しがあったのかを察した。
「経歴を見せて頂きました。幸い、あなたはこう言った事柄にはお詳しい。ご協力願えるなら、先ほどお話しした待遇も、よりご満足頂けるものになると考えるのですが…」
男は少しためらった。
確かに、心のコントロールに関しては、100%とはいかなくとも、それに近い状態で自分を保てる自信はあった。大学の研究室を経て10年勤めた心理学センターを馘になったのも、職務能力が不足と見做されたのではなく、ちょっとしたことから同僚の妻と不倫関係にあったと誤解され、その同僚に有る事無い事噂を撒かれた結果だったからだ。
男は、五十に手が届こうとしていた同僚の顔を思い浮かべた。前歯が2本、鼠のように尖って突き出ている猫背の男、能力はないが些細なことでもこだわり続ける性格で、細かい事務処理には優れていた。いつも灰色の背広を着ていたところから、『鼠男』などと呼ばれていた。
ことの起こりは単純で、結婚記念日に同僚が残業で遅くなった。妻は2人の子どもを連れて結婚記念日のディナーを期待し、いそいそと会社へやって来たが、夫は仕事でディナーに付き合えないことがわかった。夫の対応に誠意がないと罵った妻が、たまたま居合わせた男を食事に誘った、それだけのことだ。もっとも、その後数回、同僚の妻から男への誘いがあり、それを断らなかったと言うことを同僚は責め立てて来たが。
同僚は、このまま男が会社に在籍するなら、どんな手段を使っても辞めさせてやると脅迫までして来た。男は、会社からの含みを受けて有利な条件で退職し、次の就職先を探していた。そのトラブルが予想以上に再就職に響いたのは計算違いだったが、それはそれで、同僚の妻と時折密会を持つと言う楽しい誤算もあった。だが、さすがに夫に引け目を感じて来たのだろうか、こちらが職探しにうろうろしていたと言うこともあるだろうが、ここ数週間、彼女とも会っていない。
「如何ですか」
丁寧な促しに男は我に返った。いつまでも仙人じゃあるまいし、霞を食べて生きるわけにもいくまい。あの妻との付き合いを続けていくためにも、軍資金は必要だった。
「お引き受けします」
「そうですか…」
男の返答に、相手はあからさまにほっとした笑顔を見せた。
「じゃ、早速ですが、今からでも…」
「え…」
「いや、それほど時間は取りませんよ……まあ、数時間、夢を見て頂ければいいんです」
相手はまた少し声を低く落とした。
「これは上層部からの通達でして……なにせ、画期的な薬ですから、秘密保持が大変なんです」
暗にお前は信用できないと言われているようでむっとしたが、確かに情報が漏れれば、なまじ『日常生活に帰れなくなった人間』がいるだけに始末が悪い。下手をすると闇から闇へ葬られる恐れもあった。薬に興味が湧いて来た男にとって、逃すには惜しい機会だった。
「わかりました」
「じゃ、こちらへ」
隣の部屋へ案内されると、そこは薄暗い個室、中央にベッドが1つある。本来は、残業で遅くなった社員などが利用するためのものだろう。
男が横になると、就職説明をした社員は消え、入れ代わりにもう1人、別の社員が現れた。白衣こそ着ていないものの、どこか薬臭い気配のある男で、研究畑の人間と見えた。
ベッドに横になった男に屈み込んだ相手の手には、注射器が光っていた。
「注射ですか?」
驚いて尋ねる男に、相手はにこりともしないまま頷いた。
「この方が早くて正確なデータが得られます。経口薬は個人差が大きく、判定が難しいのです」
「ああ…」
きっぱりした断定口調で言われ納得したが、脳波測定の装置もモニターも付けられていないことに気づき、指摘しようとして相手を見た。と、屈み込む相手の向こうに、入ってきたドアが僅かずつ開いていくのが目に入った。部屋の暗さのせいで、向こうの部屋は光に満ちている。その中に一つ、見覚えのある顔を見つけて、男は体を硬くした。
尖って突き出た2本の前歯。囲んだ唇がにやりと引き攣れるように笑っている。声を上げようとした矢先に、ちくりと腕に痛みが走って、男は注射をした相手の顔を驚いて見上げた。相手は男の動揺を一顧だにしない。
みるみる靄がかってくる頭の中で、自分の声が叫んでいた。
罠か。罠だったのか。
口は真下に迫って来た。
紅のねとねとと粘っこい光を放つ楕円形の穴、その周りにつやつやと象牙色の牙が光っている。
うまいもんだ。
男は何度目かの台詞を繰り返した。
どんな罠を仕掛けたつもりか知らないが、ここが夢だとわかっている以上、俺の方が有利に決まっている。ましてや、俺は多少なりとも夢の学問は積んで来たんだ。なまじのイメージじゃ堪えない。おまけにこの夢に出てくるのは、みんなもともと俺の中にあったものだ。落ち着いて分析さえすれば、恐れることはないはずだ。
口を見ながら自分に言い聞かせる男の頭に、別の不安がよぎった。
ただ、あいつが、妻と俺との密会と知っていて、復讐のために、新製品のモニターなどと言ってとんでもない薬を男に試させているとしたら……。
それはすぐにわかる、と男は心の中で呟いた。
目の前一杯に広がった、何ものとも得体の知れない巨大な口。この口が、男の想像するままに口であり続けたなら、少なくとも薬の話は本当だったのだ。
でも、もし。
この口が途中で変貌したのなら……男が考えない先に、何か別のものに変わったのだとしたら……いや、待て。今は何も考えるな。今はただ落ちていくんだ。何も考えずに、あの紅の口の中へ落ちていけばいい。
男はごくりと唾を呑んだ
男は、製薬会社の一室で、窓から差し込む光に細めたままの目を凝らして、正面に座っている相手を見た。会議用の机の上には、男の履歴書と他に何冊かのバインダーが置かれていて、つい今まで就職してからの待遇について説明を受けていた。一通りの説明が終わったところで、余談だが、と行った調子で相手が切り出したのが、夢を見る薬についての話だった。
「現代人は疲れていますよ。仕事や家庭、しなくてはならない役割分担に疲れ切っている。これはまだ研究段階なんですが、そらよくあるでしょう、見たい夢が見られる薬ができたら……と言う話。あれを今考えているんです。夢の中で日頃やりたいことを体験し、自分と違った役割を果たすことで、起きている間にこなしている役割の負担からくるストレスを解消する。日曜画家や日曜大工、あれと似たようなことを夢の中でやってもらおうと言うわけです。本来、夢にはそう言った働きがあったはずなんですが、現代病とでも言うんですかね、その夢の働きも行き詰まっているのが現状です。足りない栄養素は取ったほうがいい、けれど取っている時間も暇もない。そう言う人に成分製剤がある、あれと同じ発想です」
すらすらと淀みなく続く相手の話を、男は興味を持って聞いた。
「で、それが出来たとでも言うんですか?」
「試験的に、ですが。有志で試してみたんです。こればっかりは動物実験で済むと言うものじゃありませんからね。ところが1つ厄介な事がわかりまして」
相手はそうっと声をひそめた。
「イメージ通りの夢は見られます、確実に。ただ具現性が強いんです。ちょっとでも何か考えると、その通りの夢になる。だから困ってしまって…目に見えない罠みたいなものです、何でも思い通りになる世界に居るから、どんどんとんでもない発想に落ち込んでしまって、夢に絡まれるって言うんですか、二進も三進も行かない状態で目を覚ます人が多い。1ヶ月近く何も手につきません……1人、日常生活へ戻れなくなりました」
相手は『廃人』になった、と言うことばをあえて使わなかった。
「けれども、この薬は現代人には必要になるでしょう。そう言った意味でも開発を中止したくないんです。もうちょっと……もうちょっと、自分の心をコントロールしながら試してくれる人がいたなら…」
意味ありげに、相手がことばを切って男を覗き込み、ようやく男は、どうして職場で問題を起こして馘になったような人間に、こんな一流会社から面接の呼び出しがあったのかを察した。
「経歴を見せて頂きました。幸い、あなたはこう言った事柄にはお詳しい。ご協力願えるなら、先ほどお話しした待遇も、よりご満足頂けるものになると考えるのですが…」
男は少しためらった。
確かに、心のコントロールに関しては、100%とはいかなくとも、それに近い状態で自分を保てる自信はあった。大学の研究室を経て10年勤めた心理学センターを馘になったのも、職務能力が不足と見做されたのではなく、ちょっとしたことから同僚の妻と不倫関係にあったと誤解され、その同僚に有る事無い事噂を撒かれた結果だったからだ。
男は、五十に手が届こうとしていた同僚の顔を思い浮かべた。前歯が2本、鼠のように尖って突き出ている猫背の男、能力はないが些細なことでもこだわり続ける性格で、細かい事務処理には優れていた。いつも灰色の背広を着ていたところから、『鼠男』などと呼ばれていた。
ことの起こりは単純で、結婚記念日に同僚が残業で遅くなった。妻は2人の子どもを連れて結婚記念日のディナーを期待し、いそいそと会社へやって来たが、夫は仕事でディナーに付き合えないことがわかった。夫の対応に誠意がないと罵った妻が、たまたま居合わせた男を食事に誘った、それだけのことだ。もっとも、その後数回、同僚の妻から男への誘いがあり、それを断らなかったと言うことを同僚は責め立てて来たが。
同僚は、このまま男が会社に在籍するなら、どんな手段を使っても辞めさせてやると脅迫までして来た。男は、会社からの含みを受けて有利な条件で退職し、次の就職先を探していた。そのトラブルが予想以上に再就職に響いたのは計算違いだったが、それはそれで、同僚の妻と時折密会を持つと言う楽しい誤算もあった。だが、さすがに夫に引け目を感じて来たのだろうか、こちらが職探しにうろうろしていたと言うこともあるだろうが、ここ数週間、彼女とも会っていない。
「如何ですか」
丁寧な促しに男は我に返った。いつまでも仙人じゃあるまいし、霞を食べて生きるわけにもいくまい。あの妻との付き合いを続けていくためにも、軍資金は必要だった。
「お引き受けします」
「そうですか…」
男の返答に、相手はあからさまにほっとした笑顔を見せた。
「じゃ、早速ですが、今からでも…」
「え…」
「いや、それほど時間は取りませんよ……まあ、数時間、夢を見て頂ければいいんです」
相手はまた少し声を低く落とした。
「これは上層部からの通達でして……なにせ、画期的な薬ですから、秘密保持が大変なんです」
暗にお前は信用できないと言われているようでむっとしたが、確かに情報が漏れれば、なまじ『日常生活に帰れなくなった人間』がいるだけに始末が悪い。下手をすると闇から闇へ葬られる恐れもあった。薬に興味が湧いて来た男にとって、逃すには惜しい機会だった。
「わかりました」
「じゃ、こちらへ」
隣の部屋へ案内されると、そこは薄暗い個室、中央にベッドが1つある。本来は、残業で遅くなった社員などが利用するためのものだろう。
男が横になると、就職説明をした社員は消え、入れ代わりにもう1人、別の社員が現れた。白衣こそ着ていないものの、どこか薬臭い気配のある男で、研究畑の人間と見えた。
ベッドに横になった男に屈み込んだ相手の手には、注射器が光っていた。
「注射ですか?」
驚いて尋ねる男に、相手はにこりともしないまま頷いた。
「この方が早くて正確なデータが得られます。経口薬は個人差が大きく、判定が難しいのです」
「ああ…」
きっぱりした断定口調で言われ納得したが、脳波測定の装置もモニターも付けられていないことに気づき、指摘しようとして相手を見た。と、屈み込む相手の向こうに、入ってきたドアが僅かずつ開いていくのが目に入った。部屋の暗さのせいで、向こうの部屋は光に満ちている。その中に一つ、見覚えのある顔を見つけて、男は体を硬くした。
尖って突き出た2本の前歯。囲んだ唇がにやりと引き攣れるように笑っている。声を上げようとした矢先に、ちくりと腕に痛みが走って、男は注射をした相手の顔を驚いて見上げた。相手は男の動揺を一顧だにしない。
みるみる靄がかってくる頭の中で、自分の声が叫んでいた。
罠か。罠だったのか。
口は真下に迫って来た。
紅のねとねとと粘っこい光を放つ楕円形の穴、その周りにつやつやと象牙色の牙が光っている。
うまいもんだ。
男は何度目かの台詞を繰り返した。
どんな罠を仕掛けたつもりか知らないが、ここが夢だとわかっている以上、俺の方が有利に決まっている。ましてや、俺は多少なりとも夢の学問は積んで来たんだ。なまじのイメージじゃ堪えない。おまけにこの夢に出てくるのは、みんなもともと俺の中にあったものだ。落ち着いて分析さえすれば、恐れることはないはずだ。
口を見ながら自分に言い聞かせる男の頭に、別の不安がよぎった。
ただ、あいつが、妻と俺との密会と知っていて、復讐のために、新製品のモニターなどと言ってとんでもない薬を男に試させているとしたら……。
それはすぐにわかる、と男は心の中で呟いた。
目の前一杯に広がった、何ものとも得体の知れない巨大な口。この口が、男の想像するままに口であり続けたなら、少なくとも薬の話は本当だったのだ。
でも、もし。
この口が途中で変貌したのなら……男が考えない先に、何か別のものに変わったのだとしたら……いや、待て。今は何も考えるな。今はただ落ちていくんだ。何も考えずに、あの紅の口の中へ落ちていけばいい。
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