37 / 117
『ウパンヤドの水たまり』
しおりを挟む
ウパンヤドは北の方にある街で雨が多い。街の中にはあちこちに水たまりが出来ている。
街の人達は時々そっと、水たまりを覗き込んでみる。
ダルトンの話を知っているからだ。
昔、ダルトンと言う男がいた。
雨が好きで、水たまりが好きだった。
雨が降ると、気に入っている真っ赤な傘を差し、街の中を歩いて回って、水たまりを覗いて行った。
水たまりの中には、時々不思議なものが落ち込んでいる。通り過ぎて行った車から零れた小さな欠片。駆け抜けて行った人が蹴り飛ばした小石。小粒の泡をつけた虫の死骸。どこに咲いていたのか、まだ綺麗な色のままの花びら。
ある日、ダルトンが見つけたのは、そのどれとも違っていた。黒くねっとりした泥の奥に、きらきら光る粒が入り込んでいる。こんなものは見たことがない。もっとよく見ようと覗き込んで、ダルトンは足を滑らせた。
気がつくと、天井に穴の空いた狭い部屋に居た。周りは真っ暗、壁はつるつるしていて、手を突っ張っても足を突っ張っても登れない。穴を見上げていると、灰色の空と落ちてくる雨が見えた。跨いで行くズボンの足や靴の裏も。
ダルトンは、水たまりの中に落っこちてしまったのだと気がついた。いつも覗いていたのに、今日に限ってどうしてこんなことになったのだろう。
あの光の粒のせいかも知れない。光の粒だと見えていたのは、水たまりの底にある隙間だったのかも知れない。
けれど、ここからどうして出ればいいのだろう。
ダルトンは、今まで水たまりの中に落ち込んでしまった人の話など、聞いたことがなかった。
仕方がないので、穴を見上げて立っていると、お気に入りの真っ赤な傘が、風に吹き飛ばされて、ころころと水たまりの上を飛んで行くのが見えた。
雨は相変わらず降り続き、たくさんの人が水たまりを越えて行く。
その時、穴の端に、ぴょこんと小さな男の子の顔が突き出した。
危ないよ。落っこっちまうよ。
ダルトンは両手を振って叫んだ。
すると、ダルトンの肩がぐいぐいと上の方に引っ張られた。男の子が水たまりを深く覗き込むと、両手も体もぐいぐいと引っ張られる。爪先が浮いた途端、ダルトンは凄い力で吸い上げられ、男の子の青い目の中に吸い込まれた。
さて、困った。
丸く青いガラスのような玉の中で座り込み、ダルトンは頭を抱えた。水たまりの中なら何とか出られそうな気がしていたが、人間の目の中からはどうやって出ればいいのだろう。
男の子はいろんなものを見つめている。にこにこ笑う女の人の顔。眉が太くて髭の濃い男の人の顔。木で作った機関車。色とりどりの絵。風に揺れる花や緑の葉っぱ。ぴかぴかに磨いた床の上に踊る光。
雨はいつしか止んでいたのだろう。
ダルトンの居るガラスの部屋に、急に鋭い光が走った。ダルトンはそっと、その光の方へ体を動かした。光は七色の虹のように、きらり、きらりと部屋を横切る。
おや、これは何だろう。
ダルトンがそう思った時、光がパチリとダルトンに当たった。七色の眩い光の束がダルトンを包む。そのままぐるりとダルトンを巻き込んで、光の束はするすると男の子の目からダルトンを引き出した。そして、ダルトンは光の束に引っ張られて、男の子が覗いていたビー玉の中に飛び込んだ。
うわあ、こいつは凄い。
ダルトンは光の渦の中に居た。
ビー玉は、男の子が指を動かす度にくるくるきらきら、光を跳ね返していく。あちらこちらから光が飛び込んできて、ダルトンは目が回った。自分がどこに立っているのか、わからなくなる。どちらが上だか下だかもわからない。周り全てが光になり、光に囲まれ、包まれていく。
ダルトンはぐるぐる回りながら、とても幸せな気持ちになった。周り全部が光だから、何かを見ようと目を凝らすこともない。目を凝らすことがないから、回る景色に目眩を起こすこともない。光はダルトンを温め、守り、豊かにしてくれる。
ああ、もう、全てがこのままでいい。
ダルトンは心の底からそう思った。
だが、その時、もう一つの力がダルトンの体を強く引っ張った。
どこへ、今度は何処へ行くんだ。
ダルトンは心配した。光は見る見るダルトンの周りから消えていく。温かさも柔らかさも、どんどんなくなっていく。ダルトンはもがいて光を掴もうとしたが、指の間から光はするすると抜け出してしまう。
ダルトンはあっと言う間に光から引き離されて、高い空に放り込まれた。足の遥か下に、豆より小さな街が見える。体にひんやりとした水が張り付き、ダルトンの体は重くなった。ゆっくりと、そしてだんだんと速く、ダルトンは街に向かって落ちて行く。雨の粒となって落ちて行く。
街の片隅の水たまりの横に、1人の男が立っている。男は雨に濡れて、水たまりを覗き込んでいる。
ああ、あれは私だ。
びしゃあん、と音を立てて、ダルトンはその男の頭に落ちた。
ダルトンは、はっと我に返った。
強い風が吹いて、お気に入りの真っ赤な傘を吹き飛ばしていた。頭にも体にも、冷たい雨が降っていて、びっしょり濡れている。街は忙しく歩く人で一杯で、誰もダルトンやダルトンの傘のことを気にしていないように見える。
ダルトンは傘を追い掛けた。少し先の水たまりにしゃがみ込んでいた男の子が、飛んで行った傘を拾ってくれた。その男の子は青いガラスのような目をしていた。
「ありがとう、坊や」
「おじさん、ビー玉好き?」
男の子はポケットからビー玉を出して、にっこり笑った。
「もちろんだとも」
ダルトンは微笑んだ。
ビー玉の中に、あの光の世界があった。凍えた体にふっくらと暖かなものが戻ってきた。
終わり
街の人達は時々そっと、水たまりを覗き込んでみる。
ダルトンの話を知っているからだ。
昔、ダルトンと言う男がいた。
雨が好きで、水たまりが好きだった。
雨が降ると、気に入っている真っ赤な傘を差し、街の中を歩いて回って、水たまりを覗いて行った。
水たまりの中には、時々不思議なものが落ち込んでいる。通り過ぎて行った車から零れた小さな欠片。駆け抜けて行った人が蹴り飛ばした小石。小粒の泡をつけた虫の死骸。どこに咲いていたのか、まだ綺麗な色のままの花びら。
ある日、ダルトンが見つけたのは、そのどれとも違っていた。黒くねっとりした泥の奥に、きらきら光る粒が入り込んでいる。こんなものは見たことがない。もっとよく見ようと覗き込んで、ダルトンは足を滑らせた。
気がつくと、天井に穴の空いた狭い部屋に居た。周りは真っ暗、壁はつるつるしていて、手を突っ張っても足を突っ張っても登れない。穴を見上げていると、灰色の空と落ちてくる雨が見えた。跨いで行くズボンの足や靴の裏も。
ダルトンは、水たまりの中に落っこちてしまったのだと気がついた。いつも覗いていたのに、今日に限ってどうしてこんなことになったのだろう。
あの光の粒のせいかも知れない。光の粒だと見えていたのは、水たまりの底にある隙間だったのかも知れない。
けれど、ここからどうして出ればいいのだろう。
ダルトンは、今まで水たまりの中に落ち込んでしまった人の話など、聞いたことがなかった。
仕方がないので、穴を見上げて立っていると、お気に入りの真っ赤な傘が、風に吹き飛ばされて、ころころと水たまりの上を飛んで行くのが見えた。
雨は相変わらず降り続き、たくさんの人が水たまりを越えて行く。
その時、穴の端に、ぴょこんと小さな男の子の顔が突き出した。
危ないよ。落っこっちまうよ。
ダルトンは両手を振って叫んだ。
すると、ダルトンの肩がぐいぐいと上の方に引っ張られた。男の子が水たまりを深く覗き込むと、両手も体もぐいぐいと引っ張られる。爪先が浮いた途端、ダルトンは凄い力で吸い上げられ、男の子の青い目の中に吸い込まれた。
さて、困った。
丸く青いガラスのような玉の中で座り込み、ダルトンは頭を抱えた。水たまりの中なら何とか出られそうな気がしていたが、人間の目の中からはどうやって出ればいいのだろう。
男の子はいろんなものを見つめている。にこにこ笑う女の人の顔。眉が太くて髭の濃い男の人の顔。木で作った機関車。色とりどりの絵。風に揺れる花や緑の葉っぱ。ぴかぴかに磨いた床の上に踊る光。
雨はいつしか止んでいたのだろう。
ダルトンの居るガラスの部屋に、急に鋭い光が走った。ダルトンはそっと、その光の方へ体を動かした。光は七色の虹のように、きらり、きらりと部屋を横切る。
おや、これは何だろう。
ダルトンがそう思った時、光がパチリとダルトンに当たった。七色の眩い光の束がダルトンを包む。そのままぐるりとダルトンを巻き込んで、光の束はするすると男の子の目からダルトンを引き出した。そして、ダルトンは光の束に引っ張られて、男の子が覗いていたビー玉の中に飛び込んだ。
うわあ、こいつは凄い。
ダルトンは光の渦の中に居た。
ビー玉は、男の子が指を動かす度にくるくるきらきら、光を跳ね返していく。あちらこちらから光が飛び込んできて、ダルトンは目が回った。自分がどこに立っているのか、わからなくなる。どちらが上だか下だかもわからない。周り全てが光になり、光に囲まれ、包まれていく。
ダルトンはぐるぐる回りながら、とても幸せな気持ちになった。周り全部が光だから、何かを見ようと目を凝らすこともない。目を凝らすことがないから、回る景色に目眩を起こすこともない。光はダルトンを温め、守り、豊かにしてくれる。
ああ、もう、全てがこのままでいい。
ダルトンは心の底からそう思った。
だが、その時、もう一つの力がダルトンの体を強く引っ張った。
どこへ、今度は何処へ行くんだ。
ダルトンは心配した。光は見る見るダルトンの周りから消えていく。温かさも柔らかさも、どんどんなくなっていく。ダルトンはもがいて光を掴もうとしたが、指の間から光はするすると抜け出してしまう。
ダルトンはあっと言う間に光から引き離されて、高い空に放り込まれた。足の遥か下に、豆より小さな街が見える。体にひんやりとした水が張り付き、ダルトンの体は重くなった。ゆっくりと、そしてだんだんと速く、ダルトンは街に向かって落ちて行く。雨の粒となって落ちて行く。
街の片隅の水たまりの横に、1人の男が立っている。男は雨に濡れて、水たまりを覗き込んでいる。
ああ、あれは私だ。
びしゃあん、と音を立てて、ダルトンはその男の頭に落ちた。
ダルトンは、はっと我に返った。
強い風が吹いて、お気に入りの真っ赤な傘を吹き飛ばしていた。頭にも体にも、冷たい雨が降っていて、びっしょり濡れている。街は忙しく歩く人で一杯で、誰もダルトンやダルトンの傘のことを気にしていないように見える。
ダルトンは傘を追い掛けた。少し先の水たまりにしゃがみ込んでいた男の子が、飛んで行った傘を拾ってくれた。その男の子は青いガラスのような目をしていた。
「ありがとう、坊や」
「おじさん、ビー玉好き?」
男の子はポケットからビー玉を出して、にっこり笑った。
「もちろんだとも」
ダルトンは微笑んだ。
ビー玉の中に、あの光の世界があった。凍えた体にふっくらと暖かなものが戻ってきた。
終わり
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
隣の人妻としているいけないこと
ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。
そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。
しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。
彼女の夫がしかけたものと思われ…
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
愚かな父にサヨナラと《完結》
アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」
父の言葉は最後の一線を越えてしまった。
その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・
悲劇の本当の始まりはもっと昔から。
言えることはただひとつ
私の幸せに貴方はいりません
✈他社にも同時公開
お嬢様、お仕置の時間です。
moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。
両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。
私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。
私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。
両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。
新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。
私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。
海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。
しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。
海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。
しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる