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1.夢(1)

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 そこは妙にふわふわとしたミルク色の空間だった。
 靄がかった色合いの中で、誰か小柄な人影があちらに迷いこちらに迷いを繰り返している。うすぼんやりした角の向こうを覗きかけては気まずい表情で顔を背け、煙る道を行きかけてはためらって立ち止まってしまう。
 どうやら彼が居る所は迷路になっているらしい。こちらからははっきり見える姿なのだが、彼からは、このもやもやとした霧に隠され滲む視界に、なかなか進むべき道を見つけられないようだった。
(おい、こっちだ)
 俺はついに声をかけた。
(こっちだよ)
 びくりとして立ちすくみ、きょろきょろと周囲を見回している。幾度かこちらと視線が合ったと思うのに、すぐに必死に見張った目を逸らせてしまうところを見ると、俺にはただの靄としか見えないこの空間が、巨大な灰色の壁か何かで区切られていて、あちらからは俺のいるところすらわからない、そんな感じだ。
 声の方向を探るように、彼はしばらく小首を傾げていたが、やがて小さく溜め息をついて、再びミルク色にたゆとう世界を手探りで歩き始めた。
 よく見ていると、周囲は全く石壁ばかりというのでもないらしい。時々、何かを見つけたらしく、ひどく哀しげな切なげな顔になって、見つけたものから目を背けたそうにするのだが、どうにもそれは叶わないらしく、視界の端で捉えたまま唇を噛み、じっと動かなくなってしまう。
(おい、ここだってば)
 つい、もう一度声をかけた。
 今度は確実に方向を捉えたのだろう、はっとしたように顔を上げて、思い詰めた表情で走り出し、唐突に見えない壁にぶつかったように跳ね返されてよろめき、霧を乱す。霧の放つ淡い光の中で輪郭をぼやけさせながらもわかる、苦しげで悔しげな顔。そっと手を伸ばして正面に触れ、見えない壁に両手を突く。強く押す、が動かない。片方の手を周囲に伸ばす。周囲もまた壁のようだ。立てた掌が上下左右を撫で回しながら、見えない壁の形を作る。
 やがてたった一つ空いていた方向、それは元来た方向のようにも思えるけれど、そちらへ向かって彼は歩き出す。嫌々ながら、気の進まない顔で、不安そうな表情で、けれどだんだん冷えてくる瞳は鋭さを失い、やがてのろのろと速度を落として立ち止まる。
 その姿は呟いていた、結局こっちしかないんだな、と。
 力の籠っていた肩がゆっくりと落ちた。深い吐息。そして、もう一回、今度は震えるようにか細く長く、息が切れるときに奇跡が起きないかと願うように。
 息を吐き切って、それでも何かを待つように俯いたまましばらく堪え、やがて顔を上げ、周囲を見回し、微かに苦笑した。サングラスをどこからか取り出し、端整な動かぬ顔に嵌め込む。そのまままっすぐ歩き出す。まるで、この先に断崖絶壁が待っていようと全く構わないと言いたげな勢いで。
 だが、それは俺から遠ざかる方向だ。
 出口はこっちだというのに。今はここに俺が居るというのに。
(ここだ!)
 叫ぶ。
 霧を散らして力強く、もう一度。
(こっちだ、周一郎!)
 相手が突然振り返った。
『滝さん!』
 弾けた声で呼び返す。サングラスはかけたままだ。けれど、唇が笑み綻び、顔が一気に明るくなった。
 周囲の壁は消え失せたのだろう、まっすぐこちらへ走ってくる。手を伸ばしてくるのに答えて、俺は笑い返しながら待っている、ひどく素直な周一郎の笑みに見とれながら。

 ドサッ!!
「…ん、な…?」
 ふいにぐるりと視界が回って世界が衝撃に揺れた。霧が飛び散った視界は眩く、もぞもぞと体を動かしながら瞬きをしても光量に感覚が追いつかない。
 何とか薄目を開けてみると、妙に高い天井と見覚えのある木の板、そしてその向こうでゆらゆらと危なっかしく揺れている花が視界に入った。
「…え?」
 慌てて瞬きをする。何だろう、非常によくない予感がする。
「ちょっ…」
 ぱっちりと目を開いた瞬間、サイドボードの端からひょいとルトの顔が覗いた。
「にゃ」
「にゃ?」
 にやりと嗤うように真珠色の牙を剥く。サイドボードがなぜ頭上にあるのかも知りたいが、それよりもなぜこの小猫が悪戯っぽい顔で前足を差し出して見せているのかがもっと知りたい。ついでに言うなら、なぜルトはその前足をゆらゆらと揺れている薔薇、もとい、薔薇が満タンに生けてある花瓶に伸ばそうとしているのかが是非知りたい、いや知らねばならないような気がする、今すぐに。
「おいルト」「にゃ~」「いや、にゃ~じゃないぞ、にゃ~じゃなくてお前それ一体何を……何をってばかよせやめろうわわわわわ!」
 ひゅ、うん、ごっ!
「ひっ!」
 頭の真横に落下した花瓶が跳ね上がり、水と薔薇を撒き散らしながら目の前を飛び渡っていくのを凍りついて眺めながら、俺はこういうときはどうしてスローモーションに見えるのかなと現実逃避に必死だった。
「うわぶっ、った、ぐもっ!」
 目一杯水を浴びて跳ね起きる。体に散った薔薇に刺されるかと思ったが、さすが高野、棘は全部処理済みだ。
「うにゃ?」
 え、何どうしたの、何でそんなお茶目なことしてんの不思議な人だねあんた?
 そんな感じでちょいと首を傾げたルトはひらりとサイドボードから飛び降りた。そのまま何事もなかったようにとことこと、ぐしょ濡れのままへたり込んでいる俺の前を通り過ぎていく。
「こ、の、や、ろう……っ」
「…」
 唸る俺をルトは振り返った。鳴き声を出さずに口を開き、牙を見せつける例の嗤い方、細めて三日月に見える目に宿るあからさまな嘲笑。
「てめ、人が大人しくしてたらいい気になりやがって…っ!」
「にゃ、あ、あ、ん…っ」
 まるで俺がいたいけな小猫をいたぶりにでもかかったように、芝居がかった悲鳴を上げてみせてルトがひらりと俺の手をかいくぐる。
「にゃああ」「にゃああじゃねえっっ、この猫野郎!」
 今日という今日はどっちが偉いんだかはっきりさせてやる、こう見えても俺だって万物の頂点、人類の末裔なんだぞ!
「いやまだ滅んでねえけどな!」
「にゃあ~~」
 戸口にひょいひょいと足取り軽く飛び跳ねながら逃げていくルトを追って、俺は突っ込んだ。部屋の戸は閉まっている、ルトがノブを回せるとは思えない。
「今度こそ俺の勝ちだなはははははは、は?」
 あわや追いつく寸前で、なぜかふいに目の前でドアが開いた。ルトはこれ見よがしに尻尾を立てるとくるりと回して見せ、次には開いた隙間から見事に飛び出していく。
「てめえええ……え……っ!」「っっっ!」
 ルトを追いかけ開いたドアに突進した俺は、もちろん、ドアを開けた人間に突っ込んだ。それほど重量級ではないにせよ、体を屈めて突っ込んでいるから、当然相手の視界には一瞬しか入らなかったのだろう、避ける間もなく俺と一緒に廊下に転がってしまう。
「わ、悪いっ!」
「…」
「あれ……?」
 突っ込んだ相手にのしかかってのマウントポジション、昔懐かしいラブコメなら一気に恋愛が始まってしまうところだったが、
「周一郎?」
「……はい」
 相手は溜め息まじりに頷いた。下から俺を見上げていた視線を、ゆっくりと降ろす。導かれて視線を落とし、見事に周一郎を廊下に貼りつけている自分の体勢に気づいてぎょっとした。
「わ、悪い!」
 慌てて飛び退く。
「捻らなかったか?! 大丈夫か?!」
「大丈夫ですが」
 複雑な顔でちらりと俺の頭のあたりを見やり、ゆっくり立ち上がってパンパンと服の埃を叩き落とした。数十万は下らないだろうオーダースーツも、周一郎にとっては吊るし同様の扱い、拾ったサングラスをかけながらまたも微妙な顔で振り返る。
「?」
「……その薔薇はあなたの趣味ですか?」
「ばら?」
 周一郎が無言で指差す方向に手をやり、髪の毛に絡んだ棒状のものに気づく。さっき被った花瓶の水の名残、中途半端な長さだったのだろうか薔薇一本、探った指先にしっとりと柔らかな花弁が触れる。同時に、自分の証明写真の上に重なった薔薇の冠を想像して慌てて引っ張る。
「ば、ばかっ、俺がそんなものを着けるわけがないだろっっ!!」
 力の限り否定して薔薇をもぎ取ろうとしたとたん、頭の皮が一気に突っ張った。
「いてっってってっ」
 涙目になりつつ薔薇を何とか髪の毛から外そうとするが、どういう絡み方になっているのか全く取れない。
「あれっ、ここをこう? ったってってって!」
 涙目になりつつ必死に引っ張っていると、見るに見かねたのだろう、周一郎が近づいてきた。
「手伝いましょうか?」
「頼むっっ」
 触れば触るほどぐしゃぐしゃと、より深く複雑に絡んでいこうとする薔薇を扱いあぐねて、身を屈めながら全力で頼んだ。
「早く取ってくれっ」
「そんなに慌てなくても」
「高野に見られたらどうするっ」
「……大丈夫ですよ」
「岩渕に見られたらっ」
「……………大丈夫ですよ?」
「おい、今疑問符を付けたなっ、付けただろうっ」
「……」
「ノーコメントかよっ!」
 周一郎はくすくす笑い出しながら手を伸ばしてきた。細やかな優しい動きで、何とか薔薇を取ろうとしてくれているようだ。
(前だったら、あり得ない光景って奴だよな)
 あの周一郎が、他人に自分で触れ、しかも楽しみながら困り事を解決していってくれている。
(あいつはどうなったかな)
 ふいに、夢の中、迷路で彷徨っていた周一郎の姿を思い出した。
 あいつは結局迷路を抜け出せたのだろうか。それとも今もまだ、あの中で彷徨っているのだろうか。最後に俺を見つけて駆け寄ってきてくれたような気がしたんだが、夢から醒めた『俺』はまだあそこに居たんだろうか……?
「なんか……暗示的な気もするよなあ……」
「どうしたんですか」
「え?」
「取れましたよ?」
「あ、すまん」
 へこりと頭を下げて顔を上げると、周一郎は淡いピンクの薔薇を片手に不思議そうに俺を見つめている。これがまたもう、歯噛みしたくなるほど地面を叩きつけたいほど絵になる姿で、俺はしみじみと神様の不公平を感じた。こういう、どんな女だってよりどりみどり的な奴が、自分や仕事のことで手一杯で女に見向きもしないという構造は、神様的には大丈夫なんだろうか。それとも、産めよ増やせよ地に満てよというのは当初だけの計画で、後は野となれ山となれになっているってことだろうか。
「滝さん?」
「ああいや、神様の計画には人類滅亡が織り込み済みなのかなあと」
「は?」
「ちがうちがう、まあちょっと妙な夢を見たもんでな」
「夢?」
 周一郎はまたきょとん、と可愛らしく首を傾げた。
「そう言えば僕も見ましたけど……」
 呟いて唐突に奇妙な表情で固まり、首を戻して体を建て直した。サングラスの向こうから俺を見つめ、なんだかわざとらしく目を逸らす。
「へえ、お前も夢は見るのか」
「…見ますよ」
「どんな夢?」
 書類とか書類とか書類とかだろうか。いや、周一郎は仕事を嫌がっていないから、もっと苦手なものが追いかけてくるとかだろうか。
(周一郎の苦手なもの?)
 考えて思わず首を捻る。
(あるのか?)
「滝さんは?」
 俺の問いかけはさらりと躱された。
「俺? ああ、俺の夢はなあ」
 思い出して思わずにやにや笑ってしまった。
「お前の夢だぞ」
「…」
「ドイツ旅行の印象が強かったんだな、迷路が出て来た」
「……迷路」
「そうそう、けど、ああいうのじゃなくて、真っ白いとこでさ、霧の中みたいなところ」
「………霧」
 ぴくりと周一郎は片眉を上げた。
「そう、霧っぽいところの迷路。迷路っていうか、俺から見りゃ、何もないんだけどな。お前が霧の中に居て、見えない迷路みたいなところであちこちうろうろしててさ、透明な壁かなんかがあるみたいで、なかなか思うところへ行けないみたいでさ」
「………」
 周一郎は無言で先を促した。
「で、俺が声をかけるんだ、『こっちだぞ』って。なかなか気づいてくれなくってさ、二、三回声かけたところで、ようやく俺に気づいてさ」
 にやにや笑いが顔全体に広がった気がした。あり得ない光景だろう、いや全くあり得ない状況だろう。それを自分が夢の中でしていたとか聞かされて、こいつはどんな顔をするんだろう。ちょっと人の悪い期待が動く。
「で、そっからお前が嬉しそうに笑って全力でこっちへ向かって駆けてくるってところで目が覚め……? 周一郎?」
 俺は途中で話を切った。
 こんな顔は見たことがない。
 周一郎はサングラス越しにもわかるほど大きく目を見開いていた。品のいい唇がぽかんと馬鹿みたいに開いている。猫だまし? 目の前で何かが突然に破裂したのを見たような、驚きしか残ってない表情。けれど、猫の瞳で人の裏も表も見抜き、現実の背後の世界まで読み取る少年をこれほど驚かせるようなものが、世界に幾つあるだろう。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
 さっき転倒した衝撃が今頃来たんだろうかと心配して声をかけたとたん、はっとしたように瞬きした周一郎が見る見る赤くなった。
「え」
「僕がそんなことするわけがないでしょう」
「いやお前」
「僕は迷路に迷ったりなんかしません」
 滝さんは何を考えてるんですか。
 冷ややかに言い放たれて、思わずむっとした。
「知らねえよ。けど、お前、駆け寄って来ながら、『滝さん』とか嬉しそうに呼んだんだぞ、ガキんちょみたいに開けっぴろげに笑ってだな」
「僕はあなたなんか呼びません」
 ぱっつり切り捨てるように言い切る。けれど顔の赤みはもう頬だけではなくて、耳あたりまでも広がっていて、俺は真っ赤になって弁解する周一郎という、世にも珍しいものを眺めることになった。
「あなたなんか呼んだって、一緒に迷うのがオチです」
「ほー、言ってくれるじゃねえか」
 俺はにやりと笑い返した。
「じゃ、どうして真っ赤になってる?」
「っっっ!」
 これは驚いた。周一郎は自分が赤くなっているのさえ気づいてなかったようで、咄嗟に片腕を上げて顔を隠しかけ、その自分にうろたえて慌ててくるりと背中を向けた。
(おいおい)
 あの朝倉周一郎がやり合ってる相手に背中を向けるだと? お由宇が聞いたら、周一郎以上にびっくりするんじゃないか。
「朝食の用意ができています。早めに来て下さい」
 今度は俺も目を丸くして突っ立っていると、凍りつくほど冷ややかに言い捨ててさっさと歩き出していく。
「…お、おい!」
 お前の夢って何だったんだ、そう声をかけようとしたが、周一郎は物凄い速さで遠ざかっていってしまって、振り向く気配さえなかった。
「…何だよ、一体」
 ドイツでは結構素直だったのになあ。
 ぼやきながらパジャマを脱ぎ捨てた。
 いや、ドイツだけじゃない、最近はかなり素直に感情を出してくれるようになってきたと思っていた。付き合いもそろそろ一年を越すし、前よりずいぶんよく笑うようになったし、俺の側に居る時はあんまり警戒している様子もないし。
 ところが、ドイツから帰って一週間ぐらいたってから、またぞろ態度が硬くなってきた。他人行儀というのではなくて、さっきのように妙な憎まれ口をたたくことが増えた。
「何かやったっけ?」
 考え込みながらジーパンに脚を突っ込む。
 周一郎が傷つくようなこと……俺に対して距離を置かなくてはならなくなるような羽目に追い込むようなことを? 
 何の覚えもない。特にこれといって、あいつがうっとうしがるような、急にあれこれ世話を焼くこともしていない。
 周一郎は病み上がりで旅行疲れもあったし、寝たり起きたりが続いていた。少し調子がよくて夜更かしすると、次の日の朝食に姿を見せないことも多かった。考えていたよりずっと多くの負担を、周一郎は無言で堪えていたのだとよくわかった。
 こいつは休ませなきゃだめだ。単に疲れがとれないというだけじゃない、体の芯からめちゃくちゃに壊すまで働きかねない。
 気づいて俺は、あいつがベッドに持ち込みかけた書類をひったくって高野に渡した。抗議の声は大声で歌いながら聴こえない、と言い張った。すぐに食うのを忘れるのは知っていたから、しつこく粘り強く食事を押し付けた。
 幸い休学中だったし、いろいろなバイトも一旦休んだり止めたりしていたから暇だったし、あいつの部屋に結構入り浸っていた。それでもあいつが眠れば黙って本を読んだり、ありがたくも優しい納屋教授のレポートをやっているだけだったから、邪魔はしていないと思…。
「げ!」
 くん、と足元が詰まって引っ掛かり、俺はベッドの上にひっくり返った。両脚を上げて見ると、考え事をしていたせいか、ジーパンの片方に二本とも脚を突っ込んでいる。道理で妙に脚が動かないと思った。
「ん、あれ? おい、何だよ、んなろ」
 すぐに抜けると思っていたジーパンはなかなか抜けない。指でも引っ掛かってるのかといごいごと指を曲げ伸ばししたが、別にそんな気配もない。
「ジーパンのくせに俺に逆らう気か」
 ぶつぶつ言いつつ寝転がって下半身を引き寄せる。大体こんなになるまで突っ込んで気づかない自分に呆れる。
「もう五年も履いてやってるのに、ジーパン仁義を知らん奴だなこの……っ、」
 渾身の力で両脚から引きはがそうとした手に、び、っと嫌な感触があった。
「……あー……」
 確かに脱げた、脱げはしたが、おそるおそる持ち上げたそれには、股間に斜めの裂け目が入ってしまっている。
「こりゃ…無理だな」
 指先で探って嘆息した。たとえ縫い合わせたところで、これほど薄くなってしまっていては、すぐにまた破れるだろう。だましだまし履いたところで後数回、へたすりゃ、公衆の面前でパンツの色柄を誇示することになる。
「やれやれ」
 ジーパンをベッドに放り投げ、ごそごそと寝間着兼用のトレパンを身に着ける。こちらもかなり年期もの、高野に一度廃棄処分にされかけた代物、もちろん朝倉家にはふさわしくないだろうが仕方がない。まあ、ジーパンがふさわしいかと言うと、そういうものでもなかったが。
「金があったかなあ…」
 ボストンバッグから取り出した財布の中身を覗き込むと硬貨が十枚、ベッドに座り込んで並べてみる。締めて五百七十二円。
「うーん」
 とてもじゃないが、人形のエプロンも買えそうにない。
 食と住は保証されていて、授業料はバイトで何とかまかなってきたが、週給三千五百円を交通費に始まる諸費に当てると衣類が買えなくなるのは自明の理、それにしても厳しい。
「新しいバイト、探さなきゃならんなあ」
 短期でジーパンと諸費のストック分が作れるような奴。一応は周一郎に雇われている身だから、時間も内容も限定されてくる、そんなに気軽に他の仕事に手を出す訳にはいかないだろう。周一郎が俺を必要とした時には応じられなくちゃならない……、だろう、か?
『僕はあなたなんか呼びません』
 ふいと周一郎のことばが甦り、俺は硬貨を片付け、財布をポケットに突っ込んだ手を止めた。
(あれはひょっとして、俺なんかいなくていいってことか?)
 俺だけが、あいつの側に居てやらなくちゃならないと勝手に思い込んでいるだけなのか?
 チィーチチチチチ………と愛らしい声を響かせて、ベッドの上を鳥の影が横切った。
 ぐーぅるるるるる………と愛らしくもくそもない音が、ベッドの上に座った俺の腹から響き渡った。
「……はいはいわかったわかったわかった、シリアスな場面は似合わんっつーことだろ、わかったよ!」
 どこかで大笑いしてやがるだろう神様に、毒づきながらベッドを降りた。
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