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第4章
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しおりを挟む 映画。
映画。
伊吹と映画に出かける。
「考えない」
それが京介そっくりの人間が破滅していくものであっても。
「考えない」
なぜ急に美並が一緒に見に行こうとしているのかも。
「……考えない」
その後、京介と美並がどうなるのかも。
美並は指輪をつけてきた。あれほど丁寧に扱ってくれていたもの、傷つくからと大事にしまっておいてくれたものを、急につけてきたのは京介に突き返すためだからじゃないかとか。
映画の内容をじっくり見て昨日一晩考えたんですけど、京介とは一緒にいられないってわかりました、と説明されるんだろうとか。
考えない。
考えたらもう終わりになる。
跳ねるように階段を駆け下りていく京介に、受付の女性職員が微かに笑う。
きっと機嫌よく見えてるんだろう、今にも踊り出しそうに。
「そうだよ」
今にも踊り出すかもしれない、この階段から飛び出して、玄関を越えて弾むような足取りで目の前の交差点に飛び込むぐらいには。
それでもいい、最後に美並と一緒に居られるなら、それだけでいい。
「んーと」
仕事が終わったと伊吹に連絡を入れたけれど、なぜか携帯はすぐに繋がらなくて、一瞬繋がった背後の物音は明らかに外、「わかりました」と慌ただしく切られて不審が募る。まだ勤務時間中だったはずと課に電話をしてみると、出てくれた石塚がちょっと席を外してます、と応じた。
『メール便かもしれませんね』
違うよね。
直感と言えばそうかもしれないけれど、京介の耳が微かに拾ったのは横断歩道の青を知らせるアラーム音、道路を越えていく場所に持っていくメール便などない。
「どこへ行ってるの、美並」
京介が戻ってくるのを待つのではなく、仕事が終わったなら連絡しろと言ったのは、その隙に誰かと会うためじゃないの?
「……考えない」
どうでもいいよ、もう。
伊吹に嫌われた京介が伊吹が会う誰かに嫉妬しても仕方がない。
「僕は美並と映画を見る、んだ」
映画を見て。
そこで自分そっくりの男が正義の味方にぼこぼこにやられるのを見て。
伊吹が別れを告げるのを見て。
それから、最後には。
「……」
見上げた空は紫がかった薄闇色、星もなければ月もない、逢魔が時に踏み入る時間。
「…ふふ」
美並の前でというのは悪趣味だよね?
「…どこがいいかなあ…」
いっそ、実家に戻ろうか。
実家に戻って大輔に死ぬほど抱かれて、そのままあの山の果てから吹っ飛ぼうか。
でも。
「……も…一度…」
美並に抱かれたかった、な。
溜め息まじりに口の中で呟いて、ずきずきした下半身に苦笑しながら横断歩道を会社に向かって渡りかけ、角で向き合うカップルに気づいた。
「……美並?」
すらりとした紺色のワンピース、短めの灰色ボレロはお出かけ仕様、京介が初めて見る可愛らしい気配だったが、相手の男は色気のない濃い灰色のビジネススーツ、しかもその手が。
「っ」
ためらう間もなく駆け出していた。横断歩道を一気に渡り、そのまま速度を緩めることなく角まで走って、体を引いた美並の腕をしっかり握る相手の前へ、
「失礼!」
「!」
体を割り込ませるように腕を差し入れた。
「京介…っ」
「なんだ、君は」
相手は浅黒い顔で京介をまっすぐ睨みつける。大石とは違った精悍な顔立ち、がっちりした上背、厚い胸板、一瞬身構えた姿勢に殺気があった。
「婚約者です」
「え?」
「彼女の婚約者ですよ」
「……」
「大丈夫、美並?」
「……はい」
背中で伊吹が小さく応え、ひたりと背中に温かなものが寄せられて、背筋に痺れが走った。
「…美並?」
背中越しに振り向いて、伊吹の髪が微かに震えているのに気づく。背中に当てられたのは掌、それが驚くほど小さく感じて。
怖がっていた?
ふいに、胸が苦しくなった、固くて重いものに貫かれるように。
今の今まで自分が落ち込んでいた傷みとは、全く違ったその痛みに、息が止まるほど切なくなる。
こんなに怯えるほど僕の美並を怖がらせた、この目の前の男が。
突き上げるのは、これまで感じたことのない、重くて冷たい怒り。
「……そうか、君が」
ぼそりと目の前の男が低く呟いて、顔を戻した。
「君が真崎京介か」
はっきり名前を呼ばれてじろりと見返す。
「そうですが、あなたは?」
穏やかに、けれどきっぱりと問い返すと、相手はゆっくり深く吐息をついた。張りつめていた気配が見る間に緩み、しぼんでいく。
「………有沢、基継と言います。……向田署の…刑事です」
「刑事……?」
「伊吹さん」
京介を越えて有沢は背中の伊吹に呼びかけた。
「今日は、これで」
失礼します。
それ以上粘ることもなく、有沢はすぐに身を翻して離れていく。
「伊吹さん…?」
「……っ」
遠ざかる男が会話も聞こえなくなっただろうあたりで、京介はそっと伊吹を振り向いた。いやだ、と詰るようにスーツの背中を強く掴まれて、訝しく思いながらも前を向き直しながら、そっと背中に手を回す。
「……どうしたの?」
「………」
「……何があったの?」
「…………」
「………僕に……話せないような、こと?」
「……………」
珍しく沈黙したままの伊吹が、じっと背中に張り付いている。周囲を行き過ぎる人間達が二人をゆっくり避けながら、それでもちらちら横目で眺めていく。
「…………映画行こうよ」
ひょっとして、今のが伊吹さんの新しい彼氏なのかな。
じわりと湧き上がった想像に竦みそうになったのを押し殺して、もう一歩。
「映画行って……ご飯食べて…」
駄目かもしれない拒まれるかもしれない、けれど今のがそうならなおのこと、今日が最後ならもう一歩。
「…………伊吹さん」
ごくり、と唾を呑み込んだ。
「……………僕のところでコーヒー飲もう?」
その意味をわからないはずがない。伊吹と京介の間で、そのことばが何を示すか、忘れるほどに距離は空いていないはず。
けれど。
「……はい」
「っ…」
小さな同意が背中で響いて、微かに体が顫えた。
映画。
伊吹と映画に出かける。
「考えない」
それが京介そっくりの人間が破滅していくものであっても。
「考えない」
なぜ急に美並が一緒に見に行こうとしているのかも。
「……考えない」
その後、京介と美並がどうなるのかも。
美並は指輪をつけてきた。あれほど丁寧に扱ってくれていたもの、傷つくからと大事にしまっておいてくれたものを、急につけてきたのは京介に突き返すためだからじゃないかとか。
映画の内容をじっくり見て昨日一晩考えたんですけど、京介とは一緒にいられないってわかりました、と説明されるんだろうとか。
考えない。
考えたらもう終わりになる。
跳ねるように階段を駆け下りていく京介に、受付の女性職員が微かに笑う。
きっと機嫌よく見えてるんだろう、今にも踊り出しそうに。
「そうだよ」
今にも踊り出すかもしれない、この階段から飛び出して、玄関を越えて弾むような足取りで目の前の交差点に飛び込むぐらいには。
それでもいい、最後に美並と一緒に居られるなら、それだけでいい。
「んーと」
仕事が終わったと伊吹に連絡を入れたけれど、なぜか携帯はすぐに繋がらなくて、一瞬繋がった背後の物音は明らかに外、「わかりました」と慌ただしく切られて不審が募る。まだ勤務時間中だったはずと課に電話をしてみると、出てくれた石塚がちょっと席を外してます、と応じた。
『メール便かもしれませんね』
違うよね。
直感と言えばそうかもしれないけれど、京介の耳が微かに拾ったのは横断歩道の青を知らせるアラーム音、道路を越えていく場所に持っていくメール便などない。
「どこへ行ってるの、美並」
京介が戻ってくるのを待つのではなく、仕事が終わったなら連絡しろと言ったのは、その隙に誰かと会うためじゃないの?
「……考えない」
どうでもいいよ、もう。
伊吹に嫌われた京介が伊吹が会う誰かに嫉妬しても仕方がない。
「僕は美並と映画を見る、んだ」
映画を見て。
そこで自分そっくりの男が正義の味方にぼこぼこにやられるのを見て。
伊吹が別れを告げるのを見て。
それから、最後には。
「……」
見上げた空は紫がかった薄闇色、星もなければ月もない、逢魔が時に踏み入る時間。
「…ふふ」
美並の前でというのは悪趣味だよね?
「…どこがいいかなあ…」
いっそ、実家に戻ろうか。
実家に戻って大輔に死ぬほど抱かれて、そのままあの山の果てから吹っ飛ぼうか。
でも。
「……も…一度…」
美並に抱かれたかった、な。
溜め息まじりに口の中で呟いて、ずきずきした下半身に苦笑しながら横断歩道を会社に向かって渡りかけ、角で向き合うカップルに気づいた。
「……美並?」
すらりとした紺色のワンピース、短めの灰色ボレロはお出かけ仕様、京介が初めて見る可愛らしい気配だったが、相手の男は色気のない濃い灰色のビジネススーツ、しかもその手が。
「っ」
ためらう間もなく駆け出していた。横断歩道を一気に渡り、そのまま速度を緩めることなく角まで走って、体を引いた美並の腕をしっかり握る相手の前へ、
「失礼!」
「!」
体を割り込ませるように腕を差し入れた。
「京介…っ」
「なんだ、君は」
相手は浅黒い顔で京介をまっすぐ睨みつける。大石とは違った精悍な顔立ち、がっちりした上背、厚い胸板、一瞬身構えた姿勢に殺気があった。
「婚約者です」
「え?」
「彼女の婚約者ですよ」
「……」
「大丈夫、美並?」
「……はい」
背中で伊吹が小さく応え、ひたりと背中に温かなものが寄せられて、背筋に痺れが走った。
「…美並?」
背中越しに振り向いて、伊吹の髪が微かに震えているのに気づく。背中に当てられたのは掌、それが驚くほど小さく感じて。
怖がっていた?
ふいに、胸が苦しくなった、固くて重いものに貫かれるように。
今の今まで自分が落ち込んでいた傷みとは、全く違ったその痛みに、息が止まるほど切なくなる。
こんなに怯えるほど僕の美並を怖がらせた、この目の前の男が。
突き上げるのは、これまで感じたことのない、重くて冷たい怒り。
「……そうか、君が」
ぼそりと目の前の男が低く呟いて、顔を戻した。
「君が真崎京介か」
はっきり名前を呼ばれてじろりと見返す。
「そうですが、あなたは?」
穏やかに、けれどきっぱりと問い返すと、相手はゆっくり深く吐息をついた。張りつめていた気配が見る間に緩み、しぼんでいく。
「………有沢、基継と言います。……向田署の…刑事です」
「刑事……?」
「伊吹さん」
京介を越えて有沢は背中の伊吹に呼びかけた。
「今日は、これで」
失礼します。
それ以上粘ることもなく、有沢はすぐに身を翻して離れていく。
「伊吹さん…?」
「……っ」
遠ざかる男が会話も聞こえなくなっただろうあたりで、京介はそっと伊吹を振り向いた。いやだ、と詰るようにスーツの背中を強く掴まれて、訝しく思いながらも前を向き直しながら、そっと背中に手を回す。
「……どうしたの?」
「………」
「……何があったの?」
「…………」
「………僕に……話せないような、こと?」
「……………」
珍しく沈黙したままの伊吹が、じっと背中に張り付いている。周囲を行き過ぎる人間達が二人をゆっくり避けながら、それでもちらちら横目で眺めていく。
「…………映画行こうよ」
ひょっとして、今のが伊吹さんの新しい彼氏なのかな。
じわりと湧き上がった想像に竦みそうになったのを押し殺して、もう一歩。
「映画行って……ご飯食べて…」
駄目かもしれない拒まれるかもしれない、けれど今のがそうならなおのこと、今日が最後ならもう一歩。
「…………伊吹さん」
ごくり、と唾を呑み込んだ。
「……………僕のところでコーヒー飲もう?」
その意味をわからないはずがない。伊吹と京介の間で、そのことばが何を示すか、忘れるほどに距離は空いていないはず。
けれど。
「……はい」
「っ…」
小さな同意が背中で響いて、微かに体が顫えた。
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