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第2章 書けない小説
4.犯罪
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ミステリーが書けない。
ただでさえ構築力のない人間が、憧れているのが細かな伏線が張り巡らされ、魅力的な登場人物が縦横無尽にドライブし、しかも事件が滞りなく展開して飽きさせず、キャラクターに愛着を育てつつ一緒に不安がったり楽しんだりどきどきしたりして、けれども最後の最後にはああそういうことだったのかと新しい世界を見るような視点で語られた解決に安堵し物語を終えていく。
最近そういう漫画を読んで、久々に読後感すっきり明日への活力ばっちり、何だろうこの元気さはと疑うほどに溌剌として、日々の仕事にかかれるという体験をした。
こうあらねば。
小説は娯楽なのだから、こういうものでなければなあ。
物語が終ったからと言って無念がるのではなく余韻に漂い、次を次をと焦るのではなくさてもう一度、いやもう少し後でもう一度とその作品を楽しむ気力を与えられ、大事に大切に、へたり切ったときの栄養剤にしようと胸と棚の良い場所にしまわれるようなもの。
翻って自分の作品はどうか。
評価以前。
伝わっていないだろうと予想がつく。
自己満足の垂れ流しだとわかる。
正直うんざりするような場面が続き、疲労感に項垂れる。
気合いが足りない根性が育ってない忍耐力が備わっていない。
およそ人を楽しませる側にある者としてのあらゆる資質に欠けている。
いつぞやの繰り返しだ、そういうことなら自分一人でノートにでも書き、古紙回収にでも出してしまえばいい。
事実、こういう文章が続くなら、私だって投げ捨てる。投げ捨てなくて書いているのは自分可愛さでしかない。
モテない女の言い訳っぽい。
ハーレクインでは、こういう時に必要なのは冴えないみっともない主人公の良い所を華麗な相手が見つけ出し惚れてくれるから気がつける。
投げ捨てないのはきっと自分の小説にも、何かしら人と違った魅力があり、それを自覚できていないからだとわかっているからだ。
せめて、書いていて楽しいものが書きたい。
となると、構築する必要がなく、解説を加える必要がなく、思ったまま感じたままを書いて、しかも誰かからの理解や共感を得られるものとなる。
我が儘な要求。
ミステリーを描きたいが犯罪を描きたくない。
世界の在り方を探索し、その意味を考え、何かしらの本質に辿り着いてすっきりしたい自分の本性に、ミステリーがよい形式だというのはわかる。
犯罪のないミステリーもある。
アイザック・アシモフ氏の『黒後家蜘蛛の会』は秀逸。
二番煎じも多々出現する。
人の世の暗い部分に無意識に魅かれるのは、いろいろと複雑な人々に囲まれてきたせいかもしれないが、いい加減その部分を放棄してもいいような気がする。
犯罪を娯楽の素材とするのが苦しい。
あの作家さんが駄目な理由は、人の傷みを喰い啜るからだ。自分の中にある不快な感情を刺激し、きれいごとを言っても無駄だと嘲笑ってくるからだ。しかも、そういう自分は小説の中に雲隠れし、それを読み取るこちらに全責任をおっ被せてくるからだ。
そんなものは自分の倉庫にぶちまけておいてくれ。
私は読み手に笑って欲しい。
笑ってくれる場面を入れたい。
悲劇と喜劇。
どんな悲惨な出来事の中にも笑いは存在する。
文化によって不敬と言われ不穏と受け取られることであっても。
病棟経験の中で2階3階同時に心停止が起こったことがあった。深夜のことで勤務者が足りない。各自に看護師が貼り付き、たった一人の当直医は各階を走って指示を出し胸骨圧迫を繰り返す羽目になった。
上司が辿り着くまでの数十分間、エレベーターを待っていては間に合わない。階段を駆け上がり駆け下りる。他にもっとよい方法があったのだろうが、必死に走る彼が「俺が階段で心停止しそう」とぼそりと漏らした。
一瞬の空白に私が考えたのは「心停止が3人、人手が足りない」。
このダークな笑いを、この無茶苦茶な状況を笑いに変える力を、たぶん私はとても愛している。
けれどそれを読み手を傷つけずに提示する資質がない。
たぶん彼の作家が苦手なのは、そこに読み手を傷つけてもダークな笑いを提供しようとする自分の本質を読み取ってしまうからだろう。
関西には著名な二つの喜劇があった。
そこでは老いも借金も浮気も病気も、およそ人生にあって好ましくないとされるあらゆることが次々起こり、しかもそれが悉く笑い飛ばされる。
落語もそうだ。
遊郭に売り飛ばされること、飢え死にするような貧乏、圧政の中で虐げられて死ぬ人々さえも、おうよ、それがどうした、こんぐれえ笑えなくて、人間やってられるかよ、と鼻先で吹き飛ばされる。
滝というキャラクターは私の願いを負っている。
特殊能力がなく、なかなか裕福にならず、賢明でなく、スマートでない。うまくやったと思ってもどこかで必ずへまをしている。
けれど、そのへまこそが、全てを解きほぐす鍵であること。
私が笑いを愛するのは、それが深刻で悲劇的な状況をひっくり返す唯一の力だと知っているからだ。
そうして私が何とか生き延びてきたからだ。
歪んではいても、自分を道化師として嘲笑うことで、私は世界を大きく見ることができた。自分の抱え切れない傷みや苦痛が考え方一つでちっぽけな乗り越えやすいものに変わるのを経験した。
私にとって小説は、そういう装置だった。
ただでさえ構築力のない人間が、憧れているのが細かな伏線が張り巡らされ、魅力的な登場人物が縦横無尽にドライブし、しかも事件が滞りなく展開して飽きさせず、キャラクターに愛着を育てつつ一緒に不安がったり楽しんだりどきどきしたりして、けれども最後の最後にはああそういうことだったのかと新しい世界を見るような視点で語られた解決に安堵し物語を終えていく。
最近そういう漫画を読んで、久々に読後感すっきり明日への活力ばっちり、何だろうこの元気さはと疑うほどに溌剌として、日々の仕事にかかれるという体験をした。
こうあらねば。
小説は娯楽なのだから、こういうものでなければなあ。
物語が終ったからと言って無念がるのではなく余韻に漂い、次を次をと焦るのではなくさてもう一度、いやもう少し後でもう一度とその作品を楽しむ気力を与えられ、大事に大切に、へたり切ったときの栄養剤にしようと胸と棚の良い場所にしまわれるようなもの。
翻って自分の作品はどうか。
評価以前。
伝わっていないだろうと予想がつく。
自己満足の垂れ流しだとわかる。
正直うんざりするような場面が続き、疲労感に項垂れる。
気合いが足りない根性が育ってない忍耐力が備わっていない。
およそ人を楽しませる側にある者としてのあらゆる資質に欠けている。
いつぞやの繰り返しだ、そういうことなら自分一人でノートにでも書き、古紙回収にでも出してしまえばいい。
事実、こういう文章が続くなら、私だって投げ捨てる。投げ捨てなくて書いているのは自分可愛さでしかない。
モテない女の言い訳っぽい。
ハーレクインでは、こういう時に必要なのは冴えないみっともない主人公の良い所を華麗な相手が見つけ出し惚れてくれるから気がつける。
投げ捨てないのはきっと自分の小説にも、何かしら人と違った魅力があり、それを自覚できていないからだとわかっているからだ。
せめて、書いていて楽しいものが書きたい。
となると、構築する必要がなく、解説を加える必要がなく、思ったまま感じたままを書いて、しかも誰かからの理解や共感を得られるものとなる。
我が儘な要求。
ミステリーを描きたいが犯罪を描きたくない。
世界の在り方を探索し、その意味を考え、何かしらの本質に辿り着いてすっきりしたい自分の本性に、ミステリーがよい形式だというのはわかる。
犯罪のないミステリーもある。
アイザック・アシモフ氏の『黒後家蜘蛛の会』は秀逸。
二番煎じも多々出現する。
人の世の暗い部分に無意識に魅かれるのは、いろいろと複雑な人々に囲まれてきたせいかもしれないが、いい加減その部分を放棄してもいいような気がする。
犯罪を娯楽の素材とするのが苦しい。
あの作家さんが駄目な理由は、人の傷みを喰い啜るからだ。自分の中にある不快な感情を刺激し、きれいごとを言っても無駄だと嘲笑ってくるからだ。しかも、そういう自分は小説の中に雲隠れし、それを読み取るこちらに全責任をおっ被せてくるからだ。
そんなものは自分の倉庫にぶちまけておいてくれ。
私は読み手に笑って欲しい。
笑ってくれる場面を入れたい。
悲劇と喜劇。
どんな悲惨な出来事の中にも笑いは存在する。
文化によって不敬と言われ不穏と受け取られることであっても。
病棟経験の中で2階3階同時に心停止が起こったことがあった。深夜のことで勤務者が足りない。各自に看護師が貼り付き、たった一人の当直医は各階を走って指示を出し胸骨圧迫を繰り返す羽目になった。
上司が辿り着くまでの数十分間、エレベーターを待っていては間に合わない。階段を駆け上がり駆け下りる。他にもっとよい方法があったのだろうが、必死に走る彼が「俺が階段で心停止しそう」とぼそりと漏らした。
一瞬の空白に私が考えたのは「心停止が3人、人手が足りない」。
このダークな笑いを、この無茶苦茶な状況を笑いに変える力を、たぶん私はとても愛している。
けれどそれを読み手を傷つけずに提示する資質がない。
たぶん彼の作家が苦手なのは、そこに読み手を傷つけてもダークな笑いを提供しようとする自分の本質を読み取ってしまうからだろう。
関西には著名な二つの喜劇があった。
そこでは老いも借金も浮気も病気も、およそ人生にあって好ましくないとされるあらゆることが次々起こり、しかもそれが悉く笑い飛ばされる。
落語もそうだ。
遊郭に売り飛ばされること、飢え死にするような貧乏、圧政の中で虐げられて死ぬ人々さえも、おうよ、それがどうした、こんぐれえ笑えなくて、人間やってられるかよ、と鼻先で吹き飛ばされる。
滝というキャラクターは私の願いを負っている。
特殊能力がなく、なかなか裕福にならず、賢明でなく、スマートでない。うまくやったと思ってもどこかで必ずへまをしている。
けれど、そのへまこそが、全てを解きほぐす鍵であること。
私が笑いを愛するのは、それが深刻で悲劇的な状況をひっくり返す唯一の力だと知っているからだ。
そうして私が何とか生き延びてきたからだ。
歪んではいても、自分を道化師として嘲笑うことで、私は世界を大きく見ることができた。自分の抱え切れない傷みや苦痛が考え方一つでちっぽけな乗り越えやすいものに変わるのを経験した。
私にとって小説は、そういう装置だった。
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