100 / 119
8.夜襲(5)
しおりを挟む
「…どうしても…お連れ下さいませんか」
天幕(カサン)の灯皿の光の中、身支度を手伝ってくれていたジノが、耐えかねたように口を開いた。
「だめだ」
対するユーノの返事はにべもない。脚に布を、続いて皮を巻きつけ、革紐で縛っていたジノが顔を上げ、灯りの中、一層深く見える青の瞳でユーノを見つめた。
「もし、あなたに万が一の事があった場合、私はどのようにレスファート様やレアナ様に申し開きをすれば良いのでしょう?」
「もし、私に万が一の事があったなら」
ジノのことばを繰り返し、相手を見返した。
「誰がラズーンの東が崩れたことを知らせてくれる? 中央に攻め込まれるのは時間の問題、早急に対策を練るようにと、誰がセシ公に警告してくれるんだ?」
野戦部隊(シーガリオン)は既にユーノの策に従って、密やかに東の戦線から離脱しつつあった。東に手を取られたラズーンを一気に攻めるために、南からギヌアの兵が突っ込んでくるのは、火を見るより明らか、『鉄羽根』がどれほど巧みに戦ったところで、ギヌア特有の二段構えでやってこられれば、易々と突破されてしまう。ギヌアに悟られぬように第二の防御陣を張っておく必要があった。
もちろん、ユーノを『星の剣士』(ニスフェル)として特別扱いしている野戦部隊(シーガリオン)は素直に納得するはずもなかった。特にユカル、シートスに至っては、強制的にでもユーノを連れ帰ろうとしたが、ユーノの策以外の方法となると、おいそれとより良い案も浮かばず、不承不承ながら撤退することに同意したのだ。
「心配しないでいいよ。ジノを残すのは、それこそ『万が一の事』のため、死ぬ気はないから」
「…お強い方ですね、あなたは」
返ったことばに歪みかけた顔を笑顔に仕立てる。
「強くなんかない……私だって怖いさ、逃げたくなるほどね」
答える心に『灰色塔の姫君』の伝えが蘇る。
「けれど、私にはこれしかできないから」
「……」
ジノは何かを問いたげに見たが、それ以上ユーノが語ろうとしないのを知ると、諦めたように立ち上がり、ユーノの全身を検分した。
『泉の狩人』(オーミノ)は飢粉(シイナ)に対して耐性があるらしく、所詮『穴の老人』(ディスティヤト)と同じく前世紀の残され者かとディーディエトは自嘲したが、飢粉(シイナ)に触れても何事も起こらなかった。が、ユーノは違う。全身を布と皮で包み、目だけを出した姿は異様だったが、背に腹は代えられない。どこもかしこもしっかりと守られているのを確かめると、ジノは低い声で吐いた。
「伝言は伺いません」
ユーノの視線に微笑む。
「お帰りをお待ちしております」
「うん」
頷いて、ユーノは立ち上がった。
「『泉の狩人』(オーミノ)の馬を一頭、借りている。戦線が少しでも崩れるようなら、すぐにラズーン目指して走るんだよ」
「はい」
ジノが頷くのに背を向け、ユーノは天幕(カサン)を出た。
その夜、ジノ、あるいは他の詩人(うたびと)が戦に同道していたなら、彼もしくは彼女は詩人(うたびと)としての才能を掛けて、この夜の戦を語っただろう。
それほど、この夜の戦は、幻想的で凄惨なものとなった。
襲ってくる『穴の老人』(ディスティヤト)は、樹皮を纏ったような身体から幾本もの触手を出し、出会うもの目についたものを全て、大きく赤く開く貪欲な口へと運びながら進んでくる。あたりには死臭と腐臭、一面の朱と臓物の原色図絵、『穴の老人』(ディスティヤト)が獲物を噛み砕き咀嚼する言語に絶する音で満ち、しかもその狂気の地獄は『穴の老人』(ディスティヤト)の飽きる事ない食欲に突き動かされ、瞬時も拡大を止めることはない。
対して迎え撃つのは、金目の一つ目の馬に、時には1頭に2人が同乗した青い薄物を翻らせた優しげな女達、ただしその顔は一つを除いて白骨を晒している。十数人が馬の頭をほぼ一列に並べ、『穴の老人』(ディスティヤト)の一人たりと逃がさぬという構え、こちらも怯む事もなくじりじりと馬を進める。
女達の長はどうやら頭巾と皮で体を覆い隠した1人の少女、小柄な体は金目の馬の背でひどくか細く見えはしたが、他の戦士と変わらぬ馬の進め方、腰に吊るした簡素な、けれどもこの上なく殺気を宿している剣で、どうにも只者ではないと思わせた。
より近寄ってみれば、優しげなと形容するにはあまりにも猛々しい紅の気配が、女達の白骨の眼窩の奥に煌めいているのがわかっただろう。少女の目にも宿るその炎は生気に溢れ、これから起きる戦いを待ち望んでいるとしか思えないほどの覇気と力強さを感じさせる。
二者の衝突は、互いに相手を認めた時からじわじわと上がった速度がほぼ最高に達した頃合い、ラズーン領土境界からラズーン外壁に接近すること、半分よりやや食い込まれた位置で起こった。
天幕(カサン)の灯皿の光の中、身支度を手伝ってくれていたジノが、耐えかねたように口を開いた。
「だめだ」
対するユーノの返事はにべもない。脚に布を、続いて皮を巻きつけ、革紐で縛っていたジノが顔を上げ、灯りの中、一層深く見える青の瞳でユーノを見つめた。
「もし、あなたに万が一の事があった場合、私はどのようにレスファート様やレアナ様に申し開きをすれば良いのでしょう?」
「もし、私に万が一の事があったなら」
ジノのことばを繰り返し、相手を見返した。
「誰がラズーンの東が崩れたことを知らせてくれる? 中央に攻め込まれるのは時間の問題、早急に対策を練るようにと、誰がセシ公に警告してくれるんだ?」
野戦部隊(シーガリオン)は既にユーノの策に従って、密やかに東の戦線から離脱しつつあった。東に手を取られたラズーンを一気に攻めるために、南からギヌアの兵が突っ込んでくるのは、火を見るより明らか、『鉄羽根』がどれほど巧みに戦ったところで、ギヌア特有の二段構えでやってこられれば、易々と突破されてしまう。ギヌアに悟られぬように第二の防御陣を張っておく必要があった。
もちろん、ユーノを『星の剣士』(ニスフェル)として特別扱いしている野戦部隊(シーガリオン)は素直に納得するはずもなかった。特にユカル、シートスに至っては、強制的にでもユーノを連れ帰ろうとしたが、ユーノの策以外の方法となると、おいそれとより良い案も浮かばず、不承不承ながら撤退することに同意したのだ。
「心配しないでいいよ。ジノを残すのは、それこそ『万が一の事』のため、死ぬ気はないから」
「…お強い方ですね、あなたは」
返ったことばに歪みかけた顔を笑顔に仕立てる。
「強くなんかない……私だって怖いさ、逃げたくなるほどね」
答える心に『灰色塔の姫君』の伝えが蘇る。
「けれど、私にはこれしかできないから」
「……」
ジノは何かを問いたげに見たが、それ以上ユーノが語ろうとしないのを知ると、諦めたように立ち上がり、ユーノの全身を検分した。
『泉の狩人』(オーミノ)は飢粉(シイナ)に対して耐性があるらしく、所詮『穴の老人』(ディスティヤト)と同じく前世紀の残され者かとディーディエトは自嘲したが、飢粉(シイナ)に触れても何事も起こらなかった。が、ユーノは違う。全身を布と皮で包み、目だけを出した姿は異様だったが、背に腹は代えられない。どこもかしこもしっかりと守られているのを確かめると、ジノは低い声で吐いた。
「伝言は伺いません」
ユーノの視線に微笑む。
「お帰りをお待ちしております」
「うん」
頷いて、ユーノは立ち上がった。
「『泉の狩人』(オーミノ)の馬を一頭、借りている。戦線が少しでも崩れるようなら、すぐにラズーン目指して走るんだよ」
「はい」
ジノが頷くのに背を向け、ユーノは天幕(カサン)を出た。
その夜、ジノ、あるいは他の詩人(うたびと)が戦に同道していたなら、彼もしくは彼女は詩人(うたびと)としての才能を掛けて、この夜の戦を語っただろう。
それほど、この夜の戦は、幻想的で凄惨なものとなった。
襲ってくる『穴の老人』(ディスティヤト)は、樹皮を纏ったような身体から幾本もの触手を出し、出会うもの目についたものを全て、大きく赤く開く貪欲な口へと運びながら進んでくる。あたりには死臭と腐臭、一面の朱と臓物の原色図絵、『穴の老人』(ディスティヤト)が獲物を噛み砕き咀嚼する言語に絶する音で満ち、しかもその狂気の地獄は『穴の老人』(ディスティヤト)の飽きる事ない食欲に突き動かされ、瞬時も拡大を止めることはない。
対して迎え撃つのは、金目の一つ目の馬に、時には1頭に2人が同乗した青い薄物を翻らせた優しげな女達、ただしその顔は一つを除いて白骨を晒している。十数人が馬の頭をほぼ一列に並べ、『穴の老人』(ディスティヤト)の一人たりと逃がさぬという構え、こちらも怯む事もなくじりじりと馬を進める。
女達の長はどうやら頭巾と皮で体を覆い隠した1人の少女、小柄な体は金目の馬の背でひどくか細く見えはしたが、他の戦士と変わらぬ馬の進め方、腰に吊るした簡素な、けれどもこの上なく殺気を宿している剣で、どうにも只者ではないと思わせた。
より近寄ってみれば、優しげなと形容するにはあまりにも猛々しい紅の気配が、女達の白骨の眼窩の奥に煌めいているのがわかっただろう。少女の目にも宿るその炎は生気に溢れ、これから起きる戦いを待ち望んでいるとしか思えないほどの覇気と力強さを感じさせる。
二者の衝突は、互いに相手を認めた時からじわじわと上がった速度がほぼ最高に達した頃合い、ラズーン領土境界からラズーン外壁に接近すること、半分よりやや食い込まれた位置で起こった。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
会うたびに、貴方が嫌いになる
黒猫子猫(猫子猫)
恋愛
長身の王女レオーネは、侯爵家令息のアリエスに会うたびに惹かれた。だが、守り役に徹している彼が応えてくれたことはない。彼女が聖獣の力を持つために発情期を迎えた時も、身体を差し出して鎮めてくれこそしたが、その後も変わらず塩対応だ。悩むレオーネは、彼が自分とは正反対の可愛らしい令嬢と親しくしているのを目撃してしまう。優しく笑いかけ、「小さい方が良い」と褒めているのも聞いた。失恋という現実を受け入れるしかなかったレオーネは、二人の妨げになるまいと決意した。
アリエスは嫌そうに自分を遠ざけ始めたレオーネに、動揺を隠せなくなった。彼女が演技などではなく、本気でそう思っていると分かったからだ。
五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。
秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚
13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。
歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。
そしてエリーゼは大人へと成長していく。
※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。
小説家になろう様にも掲載しています。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
転生悪役令嬢に仕立て上げられた幸運の女神様は家門から勘当されたので、自由に生きるため、もう、ほっといてください。今更戻ってこいは遅いです
青の雀
ファンタジー
公爵令嬢ステファニー・エストロゲンは、学園の卒業パーティで第2王子のマリオットから突然、婚約破棄を告げられる
それも事実ではない男爵令嬢のリリアーヌ嬢を苛めたという冤罪を掛けられ、問答無用でマリオットから殴り飛ばされ意識を失ってしまう
そのショックで、ステファニーは前世社畜OL だった記憶を思い出し、日本料理を提供するファミリーレストランを開業することを思いつく
公爵令嬢として、持ち出せる宝石をなぜか物心ついたときには、すでに貯めていて、それを原資として開業するつもりでいる
この国では婚約破棄された令嬢は、キズモノとして扱われることから、なんとか自立しようと修道院回避のために幼いときから貯金していたみたいだった
足取り重く公爵邸に帰ったステファニーに待ち構えていたのが、父からの勘当宣告で……
エストロゲン家では、昔から異能をもって生まれてくるということを当然としている家柄で、異能を持たないステファニーは、前から肩身の狭い思いをしていた
修道院へ行くか、勘当を甘んじて受け入れるか、二者択一を迫られたステファニーは翌早朝にこっそり、家を出た
ステファニー自身は忘れているが、実は女神の化身で何代前の過去に人間との恋でいさかいがあり、無念が残っていたので、神界に帰らず、人間界の中で転生を繰り返すうちに、自分自身が女神であるということを忘れている
エストロゲン家の人々は、ステファニーの恩恵を受け異能を覚醒したということを知らない
ステファニーを追い出したことにより、次々に異能が消えていく……
4/20ようやく誤字チェックが完了しました
もしまだ、何かお気づきの点がありましたら、ご報告お待ち申し上げておりますm(_)m
いったん終了します
思いがけずに長くなってしまいましたので、各単元ごとはショートショートなのですが(笑)
平民女性に転生して、下剋上をするという話も面白いかなぁと
気が向いたら書きますね
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる