47 / 119
4.2人の軍師(6)
しおりを挟む
柔らかな風が頬に触れている。
額と頬、目元からこめかみ、耳元から首筋と、まるで誰かの吐息のように優しく。
体が暖かい。
風に探られた耳から甘い波が生まれて、ゆっくりユーノの心を覆っていく。
微かに目を開いた気がする。一瞬、穏やかな真昼の光を目にした気もする。
けれどもそれは、そうと感じる前に切ないような吐息に呑み込まれてしまった。唇を開く。無意識に一人の名前を読んでいた、アシャ…と。
だめだよ。
(!)
不意に声が割り込んできて、ユーノは体を震わせた。
誰を待ってる? 誰を重ねてる? 剣を持てる娘がどうして守ってくれる人を探さなくてはならない? 十分一人で生きていけるのに?
(そう…だね)
ユーノは微笑んだ。
(そうだ……私……一人で生きて……いけるもの)
違う、とまたどこかで声がした。一人で生きてはいけても、行き場のない心は傷つけられ、救いを求めては諦め、諦めてはなお救いを求めて疲れ切ることがある。仮初めにでもいい、休める場所が欲しい、そんな切なさだけが心に波打ち、ただがむしゃらに戦いの中を走る夜が。
(うん…)
それでも、ユーノ、『星の剣士』(ニスフェル)よ。
『ラズーン』の運命を、セレドの未来を、『泉の狩人』(オーミノ)の宿命を負う娘よ。そなたが戦わぬなら、一体幾つの命が消え失せる?
闇の中に、レアナの、レスファートの、ラフィンニの、リディノの、今まで巡り逢った多くの人々の顔が浮かぶ。その背後から白い顔、ギヌア・ラズーン率いる『運命(リマイン)』の暗黒の魔手の鋭く冷たい爪が今にも引き裂きそうに迫る。
(嫌だ…失いたくない)
ゆらりと無意識にユーノは立ち上がった。
勝てるとは思わない、あのアシャでさええ手こずった相手、ユーノ如きに屈するとは思えない。
背負えるとは思わない、絡み合った人の生、入り組んだ運命の糸をどこまで手繰れるのかもわからない。
待つのはたった一人、暗闇に屍を晒す死、か?
(何もできない…)
それでも、ユーノ、『星の剣士』(ニスフェル)よ。
いつしかユーノは一人、草原に立っていた。
押し寄せる緑の草波、揺れる葉先、耳に届くひそやかな草のざわめき、静まり返った周囲に物音一つ、人の気配どころか生き物の気配一つしない草の原………それは遠い日々、セレド郊外に広がっていた草原のようであった。ソクーラの渺々たる草(テップ)の海のようであった。スォーガの赤茶けた草原さえ思わせた。そして、それはまた、今一人、ユーノがそこに立つ長丈草(ディグリス)の原のようでもあった。
頭上に星々が広がる。地を這う人間を憐れむように、見守るように。
良かろう、と声が呟くのが聞こえた。
良かろう。
たとえ一人ぼっちの死が待つにせよ、この地で生きて行こう、と。
私はそれしか術を知らない。ただ一所懸命に生きていくしか、己の哀しさを耐える術を知らない。
望んでも望んでも報われぬ愛だろう。望んでも、なお望んでも、ただの一瞬の夢にも満たされることのない想いだろう。
だが、私はあまりにも私で……運命を捻じ曲げるのさえ潔しとしないほど、どうしようもなく私で、その哀しさは私が私として生きる限りなくなりはしないのだから。
良かろう、ならば受け入れよう。
この地で一人、果てていけばいい。
流してきた血に報いるだけの血を流して倒れればいい。
そして……一人還ろう、夜の闇に。数限りなく駆け抜けてきた、あの闇に。
(……)
ふと、蹄の音を聞いた気がして、振り返った。
夜闇に白く、淡い光を身に纏って、草原を馬が駆け抜けていく。馬上には白い短衣に華奢な鎧、一目で武人ではないとわかる少女、それでも瞳は真っ直ぐに前方を見据え、ほんの少しのためらいもなく草原を駆けていく。
(『灰色塔の姫君』…)
ユーノは、少女の凛凛しい表情とは裏腹に、口元に不思議に優しい笑みが漂っているのを認め、理解した。
『彼女』にはいささかの悲壮感もなかったのだ。どれほど酷い死が待っていようと、どれほど切ない別れが待っていようと、全て自分の生き様の果て、『彼女』はそうして戦いに身を投じることを良し、としたのだ。それこそが自分にできる最上のことだと悟っていたのだ。
(死ぬつもりで走ったんじゃない)
たとえ水晶球で未来を知っていたにせよ。
(生きようとして走ったんだ)
愛する人を命かけて守る、それが唯一の生き様だとして。
だからこそ、長丈草(ディグリス)は『灰色塔の姫君』の前に道を開き、死してはその躰を静かに抱き止め飲み込んだ。
(生きよ…と言うんだね……?)
ユーノは幻のように駆け去った馬の後をじっと見送りながら呟いた。
(生きよ、と……心が示す通りに……全力を尽くして生きよ…と……あの伝説の意味は、本当はそうなんだね……?)
風が長丈草(ディグリス)を波立たせた。
生きていけ、と声なき声が命じる。
この世界に生を受けた、その意味を見失うな、と。
深く息を吸い込む。風が、清冽な生命の息吹となって体の中心に吸い込まれ、しん、と深く澄み渡る。
当たり前のことなのだ。人は誰も死ぬために生きるのではない。生きようとして、運命の中で己の生き様を貫こうとして生きるのだ。
(愛して……いるよ…)
ユーノは闇の草原に声を投げた。
(あなたたち、すべてを愛している)
ならばたじろぐまい。怯むまい。己を育んだ『何か』にかけて、ただの一瞬たりとも
額と頬、目元からこめかみ、耳元から首筋と、まるで誰かの吐息のように優しく。
体が暖かい。
風に探られた耳から甘い波が生まれて、ゆっくりユーノの心を覆っていく。
微かに目を開いた気がする。一瞬、穏やかな真昼の光を目にした気もする。
けれどもそれは、そうと感じる前に切ないような吐息に呑み込まれてしまった。唇を開く。無意識に一人の名前を読んでいた、アシャ…と。
だめだよ。
(!)
不意に声が割り込んできて、ユーノは体を震わせた。
誰を待ってる? 誰を重ねてる? 剣を持てる娘がどうして守ってくれる人を探さなくてはならない? 十分一人で生きていけるのに?
(そう…だね)
ユーノは微笑んだ。
(そうだ……私……一人で生きて……いけるもの)
違う、とまたどこかで声がした。一人で生きてはいけても、行き場のない心は傷つけられ、救いを求めては諦め、諦めてはなお救いを求めて疲れ切ることがある。仮初めにでもいい、休める場所が欲しい、そんな切なさだけが心に波打ち、ただがむしゃらに戦いの中を走る夜が。
(うん…)
それでも、ユーノ、『星の剣士』(ニスフェル)よ。
『ラズーン』の運命を、セレドの未来を、『泉の狩人』(オーミノ)の宿命を負う娘よ。そなたが戦わぬなら、一体幾つの命が消え失せる?
闇の中に、レアナの、レスファートの、ラフィンニの、リディノの、今まで巡り逢った多くの人々の顔が浮かぶ。その背後から白い顔、ギヌア・ラズーン率いる『運命(リマイン)』の暗黒の魔手の鋭く冷たい爪が今にも引き裂きそうに迫る。
(嫌だ…失いたくない)
ゆらりと無意識にユーノは立ち上がった。
勝てるとは思わない、あのアシャでさええ手こずった相手、ユーノ如きに屈するとは思えない。
背負えるとは思わない、絡み合った人の生、入り組んだ運命の糸をどこまで手繰れるのかもわからない。
待つのはたった一人、暗闇に屍を晒す死、か?
(何もできない…)
それでも、ユーノ、『星の剣士』(ニスフェル)よ。
いつしかユーノは一人、草原に立っていた。
押し寄せる緑の草波、揺れる葉先、耳に届くひそやかな草のざわめき、静まり返った周囲に物音一つ、人の気配どころか生き物の気配一つしない草の原………それは遠い日々、セレド郊外に広がっていた草原のようであった。ソクーラの渺々たる草(テップ)の海のようであった。スォーガの赤茶けた草原さえ思わせた。そして、それはまた、今一人、ユーノがそこに立つ長丈草(ディグリス)の原のようでもあった。
頭上に星々が広がる。地を這う人間を憐れむように、見守るように。
良かろう、と声が呟くのが聞こえた。
良かろう。
たとえ一人ぼっちの死が待つにせよ、この地で生きて行こう、と。
私はそれしか術を知らない。ただ一所懸命に生きていくしか、己の哀しさを耐える術を知らない。
望んでも望んでも報われぬ愛だろう。望んでも、なお望んでも、ただの一瞬の夢にも満たされることのない想いだろう。
だが、私はあまりにも私で……運命を捻じ曲げるのさえ潔しとしないほど、どうしようもなく私で、その哀しさは私が私として生きる限りなくなりはしないのだから。
良かろう、ならば受け入れよう。
この地で一人、果てていけばいい。
流してきた血に報いるだけの血を流して倒れればいい。
そして……一人還ろう、夜の闇に。数限りなく駆け抜けてきた、あの闇に。
(……)
ふと、蹄の音を聞いた気がして、振り返った。
夜闇に白く、淡い光を身に纏って、草原を馬が駆け抜けていく。馬上には白い短衣に華奢な鎧、一目で武人ではないとわかる少女、それでも瞳は真っ直ぐに前方を見据え、ほんの少しのためらいもなく草原を駆けていく。
(『灰色塔の姫君』…)
ユーノは、少女の凛凛しい表情とは裏腹に、口元に不思議に優しい笑みが漂っているのを認め、理解した。
『彼女』にはいささかの悲壮感もなかったのだ。どれほど酷い死が待っていようと、どれほど切ない別れが待っていようと、全て自分の生き様の果て、『彼女』はそうして戦いに身を投じることを良し、としたのだ。それこそが自分にできる最上のことだと悟っていたのだ。
(死ぬつもりで走ったんじゃない)
たとえ水晶球で未来を知っていたにせよ。
(生きようとして走ったんだ)
愛する人を命かけて守る、それが唯一の生き様だとして。
だからこそ、長丈草(ディグリス)は『灰色塔の姫君』の前に道を開き、死してはその躰を静かに抱き止め飲み込んだ。
(生きよ…と言うんだね……?)
ユーノは幻のように駆け去った馬の後をじっと見送りながら呟いた。
(生きよ、と……心が示す通りに……全力を尽くして生きよ…と……あの伝説の意味は、本当はそうなんだね……?)
風が長丈草(ディグリス)を波立たせた。
生きていけ、と声なき声が命じる。
この世界に生を受けた、その意味を見失うな、と。
深く息を吸い込む。風が、清冽な生命の息吹となって体の中心に吸い込まれ、しん、と深く澄み渡る。
当たり前のことなのだ。人は誰も死ぬために生きるのではない。生きようとして、運命の中で己の生き様を貫こうとして生きるのだ。
(愛して……いるよ…)
ユーノは闇の草原に声を投げた。
(あなたたち、すべてを愛している)
ならばたじろぐまい。怯むまい。己を育んだ『何か』にかけて、ただの一瞬たりとも
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
慈愛と復讐の間
レクフル
ファンタジー
とある国に二人の赤子が生まれた。
一人は慈愛の女神の生まれ変わりとされ、一人は復讐の女神の生まれ変わりとされた。
慈愛の女神の生まれ変わりがこの世に生を得た時、必ず復讐の女神の生まれ変わりは生を得る。この二人は対となっているが、決して相容れるものではない。
これは古より語り継がれている伝承であり、慈愛の女神の加護を得た者は絶大なる力を手にするのだと言う。
だが慈愛の女神の生まれ変わりとして生を亨けた娘が、別の赤子と取り換えられてしまった。
大切に育てられる筈の慈愛の女神の生まれ変わりの娘は、母親から虐げられながらも懸命に生きようとしていた。
そんな中、森で出会った迷い人の王子と娘は、互いにそれと知らずに想い合い、数奇な運命を歩んで行くこととなる。
そして、変わりに育てられた赤子は大切に育てられていたが、その暴虐ぶりは日をまして酷くなっていく。
慈愛に満ちた娘と復讐に駆られた娘に翻弄されながら、王子はあの日出会った想い人を探し続ける。
想い合う二人の運命は絡み合うことができるのか。その存在に気づくことができるのか……
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ゲーム未登場の性格最悪な悪役令嬢に転生したら推しの妻だったので、人生の恩人である推しには離婚して私以外と結婚してもらいます!
クナリ
ファンタジー
江藤樹里は、かつて画家になることを夢見ていた二十七歳の女性。
ある日気がつくと、彼女は大好きな乙女ゲームであるハイグランド・シンフォニーの世界へ転生していた。
しかし彼女が転生したのは、ヘビーユーザーであるはずの自分さえ知らない、ユーフィニアという女性。
ユーフィニアがどこの誰なのかが分からないまま戸惑う樹里の前に、ユーフィニアに仕えているメイドや、樹里がゲーム内で最も推しているキャラであり、どん底にいたときの自分の心を救ってくれたリルベオラスらが現れる。
そして樹里は、絶世の美貌を持ちながらもハイグラの世界では稀代の悪女とされているユーフィニアの実情を知っていく。
国政にまで影響をもたらすほどの悪名を持つユーフィニアを、最愛の恩人であるリルベオラスの妻でいさせるわけにはいかない。
樹里は、ゲーム未登場ながら圧倒的なアクの強さを持つユーフィニアをリルベオラスから引き離すべく、離婚を目指して動き始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる