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2.屋敷(1)
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慌ただしく揃えた旅行用具一式を例のボストンバッグに詰め込み、俺は石蕗家へと向かっていた。
列車の窓の向こうにはいろいろな緑に輝く山々が重なり合い、その山の遥か上にほんのちょっぴり、眩く目を刺す青空が見えている。景色はなかなか変わらない。山間部を走るこの小さな列車が走破するには深すぎる山らしい。
濃い緑の針葉樹、若々しく茂る青葉を波打たせている広葉樹、陽射しが跳ね、光の反射が窓枠に乗せた俺の手に踊っている。カタタン、カタタン、カタタン…と続く列車の音に、どこか遠くからの小鳥の声が縺れ合って聞こえる。
「ねむ…」
俺はさっきから忍び寄ってくる眠気とひたすら戦い続けている。
今朝早く吉田弁護士から連絡があり、石蕗家のある御前(みまえ)への詳しい行き方を打ち合わせていた。この列車の終点駅で車が待っているはずで、石蕗家はそこからなお車で約一時間ほどかかると言う。乗り換えはないはずだが、眠り込んでしまえば、どこへともなく遠く彼方に連れ去られそうな気がする。
「…」
この車輌に乗っているのは俺一人だった。
客のいない座席に開け放たれた窓から風が舞い込み、誰かが忘れていったらしい新聞がばさばさと音をたてている。単調に続く車輪の音、ちらつく陽射し、小鳥の声、風が吹く、新聞がめくれる音、車輪の音、陽射し、小鳥の声、風、新聞の音、車輪の音、小鳥の……。
「…さん。お客さん!」
「っ、うわっ」
はっと目を開けた。
いつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。目の前にぬぼっと突っ立っている人影に驚いて、危うく座席からずり落ちかけた。
「眠そうじゃの、お客さん」
「あ…あは…はぁ」
決まり悪さにひきつり笑いを返す。乗務員らしく、濃茶の制服に帽子を被り、夏には不似合いなうっとうしい顔をしていた。
「どこへ行きなさる」
口調ほど老人ではない、だが、どことなく年老いたイメージを与える男だ。のんびりと俺の前に腰を降ろしながら尋ねてきた。
「あ、ああ、あの、御前へ」
「御前?」
不審そうな目を向けて重ねてくる。
「あんなところ、何もありゃせんが。せいぜい、石蕗様の屋敷がある程度じゃ」
「あ、その石蕗家に行くんです」
相手はぎょっとしたように俺を眺めた。やがて、
「…興味本位ならやめた方がええ。どうせ、あの話を聞いてきたんじゃろうが」
「あの話?」
「そうよ」
乗務員は声を低めた。
「ほれ、先代の若奥様が狂い死になさってから、亡霊が出るという話じゃ」
「ぼうー!」
「これ、めったに話すでない!」
男が飛びかかるように口を押さえつけてきて、俺はもごもご唸った。しばらくそのまま、やがて喚く気はないらしいと思ったのか、のっそりと離れる。
自分から振っといて、話すでない、でもないだろう。
責める俺の視線に構わず、相手は深く溜め息をつき、
「おまけに、今度は大館様までお亡くなりになった。心臓マヒという話じゃが、どうだかの、怪しいもんじゃ」
背骨の付け根辺りが縮こまっていくような気分になってきた。自慢じゃないが、俺は今まで一度だって、『亡霊さん』とか『幽霊さん』とかいうものにお目にかかったことはないし、お近づきになったこともない。ましてや、わざわざあちらの世界の方にインタビューしようなぞと思ったこともない。
なのに何だって? 石蕗家に亡霊が出る?
俺が青くなったのに気づいたのか、乗務員は少し首を傾げた。
「おや、ご存知なかったようじゃな。とすると、一体どうして石蕗家へ?」
「ど…ど…ど」
ことばを紡げない口に苛立ってばちっと自分の頬を叩く。
「どうしてって…その、吉田さんていう人に頼まれて…」
「それでは、あんたが!」「わわっ」
どしん!
いきなり相手が血相を変えて立ち上がり、俺はついに座席から滑り落ちた。打った尻の痛さに顔を歪めていると、唾を飛ばさんばかりに相手はまくしたててくる。
「大館様の御遺言にあった滝様かな!」
「は、はぁ…たぶん…」
「これは失礼なことを申しました! どうぞ、今の話はお館様にはご内聞に!」
「は、はい」
「あ、ああ、もう終点ですに。わしは戻りますから!」
乗務員はそそくさと席を立ち去りかけたが、車輌の境のドアを開けながらふと振り返り、寒々とした顔で付け加えた。
「けんど、どうぞ、くれぐれもお気をつけて」
もう来ちまったってのに、何にどう気をつけろって言うんだ。
泣きたい気持ちで列車を降りる。
(亡霊なんて聞いてないぞ)
それに何だって? 先代の若奥様が狂い死に? 伸次の死も怪しい?
それだけ話しておいて、あげくの果てが「くれぐれもお気をつけて」?
いやもう、これは完全に何かのフラグってやつだよな? ああ、やっぱりうまい話にはいろいろあるんだなあ、ほんとにもう今更だが!
「くそっ!」
自棄になって足元に転がっていた小石を蹴る,次の瞬間。
「あっ」「へっ?!」
石が飛んだ方向から、か細い悲鳴が聞こえ、ぎょっとした。
駅の外、黒塗りの車を背に一人の女性が居て、手の甲あたりを押えて胸に抱えている。頭の中央で分けた肩に流れる黒髪、白い肌、仄かに赤みを帯びた頬と辛そうに噛まれた淡い色の唇、儚げな幻のような美女だ。薄青の夏物だろうか、涼しげな着物もまたよく似合って。
「っ、す、すみません!」
見とれた俺は我に返ってボストンバッグを放り出し、駆け寄った。
「それ、俺が蹴った石です!」
驚いたように顔を上げた美女が細い眉を潜める。手の甲が赤く痣になっている。
「ほんとごめんなさい! ちょっと苛々してむしゃくしゃしてて!」
うわあ、こんな綺麗な人に石ぶつけた、と血の気が引いた。理由にもならないだろうが必死に弁解して、平謝りに頭を下げる。
「ほんと、本当ーっにすみませんっっ!」
「…いいんですのよ」
柔らかな声で応じて、彼女は少し微笑んだ。涼やかに澄んだ黒い瞳がまっすぐ俺を見つめ返して、見る見る俺の顔に血の気が戻った、いやもっと集まってきた。
「こんな所にぼんやり立っていた私も悪うございましたから」
「そんなっ」
ためらいがちに慰めてくれるのに、ますます申し訳なくなる。
「そんなことないです! あなたが悪いなんて、そんなこと絶対ないです! むしろ俺が何一人で煮え詰まってんだとか苛々してるのをばらまくなよとか、そういう問題で、つまり俺が悪い訳で!」
「…お優しいのね」
くすり、と甘く笑われた。
「鞄…よろしいのかしら」
「へ? あ、あ、ああ、そう、そうですよね!」
ようやく放り出したボストンバッグを思い出して取りに戻る。元々そんなきれいな物でも立派な物でもないから、ぱんぱんと軽く埃を落として美女の元へ戻ると、じっと眺めていた彼女が尋ねてきた。
「ご旅行ですか? この辺りには、それほど見て回れるものは…」
「あ、いえいえ、違います。えーと…知り合い、に呼ばれて」
「お知り合い…」
「迎えが来るはずなんです」
「あら」
美女は嬉しそうに唇を綻ばせた。
「私も人を待っているんですの。そろそろ来られるはずなんですけど……」
ちら、と俺を見やって、また少し微笑む。
「滝志郎様、とおっしゃるんですけど」
「あ、お、いや、『僕』です、それ」
「まあ…やっぱり?」
微笑みが蕩けるように広がって思わず見惚れた。細く白い指先が唇に軽く当てられ、視線を釘付けにした笑みがなおも深まる。
「ちょうど良かった。石蕗よりお迎えに参りましたわ」
静々と頭を下げながら、
「石蕗久の妻、鈴音、と申します」
「あ、は、はい」
(妻?)
頭の中で疑問符が見る見る増殖する。
確か、久というのは、伸次の一人息子で当年五十二歳。後妻を貰ったとは聞いているが、鈴音は多く見積もっても二十四、五にしか見えない。
「滝様?」
「は、はいっ! あのっ、よろしくっお願いしま…」
「あ、滝さ…」
ごんっっ!!
とにかく相手より深く頭を下げようとした俺は、回り込んできた運転手が開いた扉に思い切り頭をぶつけていた。
列車の窓の向こうにはいろいろな緑に輝く山々が重なり合い、その山の遥か上にほんのちょっぴり、眩く目を刺す青空が見えている。景色はなかなか変わらない。山間部を走るこの小さな列車が走破するには深すぎる山らしい。
濃い緑の針葉樹、若々しく茂る青葉を波打たせている広葉樹、陽射しが跳ね、光の反射が窓枠に乗せた俺の手に踊っている。カタタン、カタタン、カタタン…と続く列車の音に、どこか遠くからの小鳥の声が縺れ合って聞こえる。
「ねむ…」
俺はさっきから忍び寄ってくる眠気とひたすら戦い続けている。
今朝早く吉田弁護士から連絡があり、石蕗家のある御前(みまえ)への詳しい行き方を打ち合わせていた。この列車の終点駅で車が待っているはずで、石蕗家はそこからなお車で約一時間ほどかかると言う。乗り換えはないはずだが、眠り込んでしまえば、どこへともなく遠く彼方に連れ去られそうな気がする。
「…」
この車輌に乗っているのは俺一人だった。
客のいない座席に開け放たれた窓から風が舞い込み、誰かが忘れていったらしい新聞がばさばさと音をたてている。単調に続く車輪の音、ちらつく陽射し、小鳥の声、風が吹く、新聞がめくれる音、車輪の音、陽射し、小鳥の声、風、新聞の音、車輪の音、小鳥の……。
「…さん。お客さん!」
「っ、うわっ」
はっと目を開けた。
いつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。目の前にぬぼっと突っ立っている人影に驚いて、危うく座席からずり落ちかけた。
「眠そうじゃの、お客さん」
「あ…あは…はぁ」
決まり悪さにひきつり笑いを返す。乗務員らしく、濃茶の制服に帽子を被り、夏には不似合いなうっとうしい顔をしていた。
「どこへ行きなさる」
口調ほど老人ではない、だが、どことなく年老いたイメージを与える男だ。のんびりと俺の前に腰を降ろしながら尋ねてきた。
「あ、ああ、あの、御前へ」
「御前?」
不審そうな目を向けて重ねてくる。
「あんなところ、何もありゃせんが。せいぜい、石蕗様の屋敷がある程度じゃ」
「あ、その石蕗家に行くんです」
相手はぎょっとしたように俺を眺めた。やがて、
「…興味本位ならやめた方がええ。どうせ、あの話を聞いてきたんじゃろうが」
「あの話?」
「そうよ」
乗務員は声を低めた。
「ほれ、先代の若奥様が狂い死になさってから、亡霊が出るという話じゃ」
「ぼうー!」
「これ、めったに話すでない!」
男が飛びかかるように口を押さえつけてきて、俺はもごもご唸った。しばらくそのまま、やがて喚く気はないらしいと思ったのか、のっそりと離れる。
自分から振っといて、話すでない、でもないだろう。
責める俺の視線に構わず、相手は深く溜め息をつき、
「おまけに、今度は大館様までお亡くなりになった。心臓マヒという話じゃが、どうだかの、怪しいもんじゃ」
背骨の付け根辺りが縮こまっていくような気分になってきた。自慢じゃないが、俺は今まで一度だって、『亡霊さん』とか『幽霊さん』とかいうものにお目にかかったことはないし、お近づきになったこともない。ましてや、わざわざあちらの世界の方にインタビューしようなぞと思ったこともない。
なのに何だって? 石蕗家に亡霊が出る?
俺が青くなったのに気づいたのか、乗務員は少し首を傾げた。
「おや、ご存知なかったようじゃな。とすると、一体どうして石蕗家へ?」
「ど…ど…ど」
ことばを紡げない口に苛立ってばちっと自分の頬を叩く。
「どうしてって…その、吉田さんていう人に頼まれて…」
「それでは、あんたが!」「わわっ」
どしん!
いきなり相手が血相を変えて立ち上がり、俺はついに座席から滑り落ちた。打った尻の痛さに顔を歪めていると、唾を飛ばさんばかりに相手はまくしたててくる。
「大館様の御遺言にあった滝様かな!」
「は、はぁ…たぶん…」
「これは失礼なことを申しました! どうぞ、今の話はお館様にはご内聞に!」
「は、はい」
「あ、ああ、もう終点ですに。わしは戻りますから!」
乗務員はそそくさと席を立ち去りかけたが、車輌の境のドアを開けながらふと振り返り、寒々とした顔で付け加えた。
「けんど、どうぞ、くれぐれもお気をつけて」
もう来ちまったってのに、何にどう気をつけろって言うんだ。
泣きたい気持ちで列車を降りる。
(亡霊なんて聞いてないぞ)
それに何だって? 先代の若奥様が狂い死に? 伸次の死も怪しい?
それだけ話しておいて、あげくの果てが「くれぐれもお気をつけて」?
いやもう、これは完全に何かのフラグってやつだよな? ああ、やっぱりうまい話にはいろいろあるんだなあ、ほんとにもう今更だが!
「くそっ!」
自棄になって足元に転がっていた小石を蹴る,次の瞬間。
「あっ」「へっ?!」
石が飛んだ方向から、か細い悲鳴が聞こえ、ぎょっとした。
駅の外、黒塗りの車を背に一人の女性が居て、手の甲あたりを押えて胸に抱えている。頭の中央で分けた肩に流れる黒髪、白い肌、仄かに赤みを帯びた頬と辛そうに噛まれた淡い色の唇、儚げな幻のような美女だ。薄青の夏物だろうか、涼しげな着物もまたよく似合って。
「っ、す、すみません!」
見とれた俺は我に返ってボストンバッグを放り出し、駆け寄った。
「それ、俺が蹴った石です!」
驚いたように顔を上げた美女が細い眉を潜める。手の甲が赤く痣になっている。
「ほんとごめんなさい! ちょっと苛々してむしゃくしゃしてて!」
うわあ、こんな綺麗な人に石ぶつけた、と血の気が引いた。理由にもならないだろうが必死に弁解して、平謝りに頭を下げる。
「ほんと、本当ーっにすみませんっっ!」
「…いいんですのよ」
柔らかな声で応じて、彼女は少し微笑んだ。涼やかに澄んだ黒い瞳がまっすぐ俺を見つめ返して、見る見る俺の顔に血の気が戻った、いやもっと集まってきた。
「こんな所にぼんやり立っていた私も悪うございましたから」
「そんなっ」
ためらいがちに慰めてくれるのに、ますます申し訳なくなる。
「そんなことないです! あなたが悪いなんて、そんなこと絶対ないです! むしろ俺が何一人で煮え詰まってんだとか苛々してるのをばらまくなよとか、そういう問題で、つまり俺が悪い訳で!」
「…お優しいのね」
くすり、と甘く笑われた。
「鞄…よろしいのかしら」
「へ? あ、あ、ああ、そう、そうですよね!」
ようやく放り出したボストンバッグを思い出して取りに戻る。元々そんなきれいな物でも立派な物でもないから、ぱんぱんと軽く埃を落として美女の元へ戻ると、じっと眺めていた彼女が尋ねてきた。
「ご旅行ですか? この辺りには、それほど見て回れるものは…」
「あ、いえいえ、違います。えーと…知り合い、に呼ばれて」
「お知り合い…」
「迎えが来るはずなんです」
「あら」
美女は嬉しそうに唇を綻ばせた。
「私も人を待っているんですの。そろそろ来られるはずなんですけど……」
ちら、と俺を見やって、また少し微笑む。
「滝志郎様、とおっしゃるんですけど」
「あ、お、いや、『僕』です、それ」
「まあ…やっぱり?」
微笑みが蕩けるように広がって思わず見惚れた。細く白い指先が唇に軽く当てられ、視線を釘付けにした笑みがなおも深まる。
「ちょうど良かった。石蕗よりお迎えに参りましたわ」
静々と頭を下げながら、
「石蕗久の妻、鈴音、と申します」
「あ、は、はい」
(妻?)
頭の中で疑問符が見る見る増殖する。
確か、久というのは、伸次の一人息子で当年五十二歳。後妻を貰ったとは聞いているが、鈴音は多く見積もっても二十四、五にしか見えない。
「滝様?」
「は、はいっ! あのっ、よろしくっお願いしま…」
「あ、滝さ…」
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