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第2章
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鳴り響く電話にせき立てられて、美並は受話器を上げた。
「はい、伊吹ですけど」
『あの』
柔らかなハスキーヴォイスが控えめに切り出してくる。
『わたし、葉延、七海、ですが』
「あ、こんばんは」
名前と話だけは何度も聞いている、明の結婚相手だ。
「はじめまして、の方がよかったかな」
控えめな印象のある七海が電話をかけてくるのは余程のことだろう、そう思いつつ、あえてあっさり応じた。
「明がいろいろ困らせているかもしれないけれど、どうかよろしくお願いしますね」
美並が拒んでいるのかと気にしていたらしいから、二人が結婚するのを当然のこととしてことばを続ける。
『あ…』
七海の声がふわりと軽くなってはにかんだ。
『はい』
わたしがいつも明さんに助けられているんです。
優しい声が嬉しそうに応じて、美並も思わず微笑む。
「ん、それならよかった。ところで……どうしたの? 明が何か?」
七海が電話をかけてくるのはそれぐらいだろうと尋ねる。
『あの、まだ、明さん、そちらに?』
「え? いえ、帰ったけれど」
『帰った……?』
「まだ帰ってないの?」
『あの、一度は戻ってこられたんですけど、すぐに出ていかれたって』
デートだと言ってなかったか?
美並は思わず眉をしかめる。
少なくとも誰かと会う予定だったのだ、明は。てっきり七海だと思っていたのに、この様子ではどうも彼女じゃないらしい。
じゃあ、一体誰と?
ふいに、いつ見たのだろう、夢を思い出した。
美並と真崎は向き合って立っている。
美並の背後には扉があり、そこがゆっくり開いていって、美並の背中から眩い光が差し込み始め、真崎は驚いた顔で眼を細める。それまでずっと美並を凝視していた眼を、美並の背後の光に向かって開き始める。
美並は真崎の変化に気付く。興奮と驚き、喜びと戸惑い。
世界はこんなに美しかったのか、そう悟って零れ落ちる溜め息。
綻ぶような笑みを浮かべ、真崎はゆっくり近付いてくる。
美並は顔を上げて、その真崎をじっと見つめる。
距離が縮まる。両手を差し伸べる真崎に、思わず知らず美並も両手をそっと上げて。
嬉しそうだ、と思う。
真崎はどんどん速度を上げて走り寄り、笑い声をたてながらついに美並の側までやってきて。
通り過ぎる。
確かにまっすぐ走ってきたはずなのに、幻のように美並をすり抜ける真崎に、美並は動けなくなる。
固まってしまう体をのろのろ振り返らせてみれば、光の中で真崎は確かに誰かを抱き締めている。
その背中が甘く震えていて、低い囁きが響く。
『やっと見つけた』
君をずっと探していたんだ、それが今、わかった。
腕の中の人が美並を気にして、真崎は心配そうに顔を上げ、相手に笑いかけながら美並を振り向く。
『大丈夫だよ、あの人は関係ない』
美並は上げた両手をそろそろと降ろす。
『僕を支えてくれた優しい人だ』
だけど、それだけ。
『欲しかったのは君だから、安心して?』
そうでしょう、伊吹さん?
振り返って笑う真崎に、美並は頷くことしかできなくて、遠ざかる真崎を見送って。
わかってた。
そんなこと、わかってたから。
大丈夫。
涙が吹き零れるままに俯いた。
『何度かお電話させてもらったんですけど』
七海の声に我に返る。
「ああ、ごめんなさい、いなかったのよ」
『明さん……バスケットボール、持っていったんです』
「はぁい?」
バスケットボール?
ひょっとして、明は真崎と会うために出ているのか、そう思った発想が覆る。
「なんでバスケットボール?」
『………確かめたいことがあるって』
「確かめたいこと?」
『本音を引っぱりだしてやるって……誰のことですか?』
七海の声が不安そうに揺れる。
「それで私のところかと思って?」
『はい』
「うーむ」
また謎が増えてしまった。
「わかった、こっちでも探してみます」
携帯に出ないの?
尋ねてみると、繋がらないんです、と七海は心配そうだ。
『何かあったんじゃないかとかも思ってしまって』
「ん、ちょっと待って」
片手で明の携帯を鳴らしたが、やっぱり出ない。電池切れとか電波の加減ではなさそうだ。
「出ないなあ」
『どうしましょう』
「何かわかったら電話します。今、お家?」
七海の家の電話番号を聞いて、舌打ちしながら受話器を置いた。
「ばか明」
恋人を不安がらせて。
夢を思い出して唇を噛む。
「ばか……京介」
なじって、そっと小さく笑う。
そんなことを言える資格は、きっと美並の手には入らない。
首を一つ強く振って、ざっと拭った濡れ髪で玄関から飛び出した。
「はい、伊吹ですけど」
『あの』
柔らかなハスキーヴォイスが控えめに切り出してくる。
『わたし、葉延、七海、ですが』
「あ、こんばんは」
名前と話だけは何度も聞いている、明の結婚相手だ。
「はじめまして、の方がよかったかな」
控えめな印象のある七海が電話をかけてくるのは余程のことだろう、そう思いつつ、あえてあっさり応じた。
「明がいろいろ困らせているかもしれないけれど、どうかよろしくお願いしますね」
美並が拒んでいるのかと気にしていたらしいから、二人が結婚するのを当然のこととしてことばを続ける。
『あ…』
七海の声がふわりと軽くなってはにかんだ。
『はい』
わたしがいつも明さんに助けられているんです。
優しい声が嬉しそうに応じて、美並も思わず微笑む。
「ん、それならよかった。ところで……どうしたの? 明が何か?」
七海が電話をかけてくるのはそれぐらいだろうと尋ねる。
『あの、まだ、明さん、そちらに?』
「え? いえ、帰ったけれど」
『帰った……?』
「まだ帰ってないの?」
『あの、一度は戻ってこられたんですけど、すぐに出ていかれたって』
デートだと言ってなかったか?
美並は思わず眉をしかめる。
少なくとも誰かと会う予定だったのだ、明は。てっきり七海だと思っていたのに、この様子ではどうも彼女じゃないらしい。
じゃあ、一体誰と?
ふいに、いつ見たのだろう、夢を思い出した。
美並と真崎は向き合って立っている。
美並の背後には扉があり、そこがゆっくり開いていって、美並の背中から眩い光が差し込み始め、真崎は驚いた顔で眼を細める。それまでずっと美並を凝視していた眼を、美並の背後の光に向かって開き始める。
美並は真崎の変化に気付く。興奮と驚き、喜びと戸惑い。
世界はこんなに美しかったのか、そう悟って零れ落ちる溜め息。
綻ぶような笑みを浮かべ、真崎はゆっくり近付いてくる。
美並は顔を上げて、その真崎をじっと見つめる。
距離が縮まる。両手を差し伸べる真崎に、思わず知らず美並も両手をそっと上げて。
嬉しそうだ、と思う。
真崎はどんどん速度を上げて走り寄り、笑い声をたてながらついに美並の側までやってきて。
通り過ぎる。
確かにまっすぐ走ってきたはずなのに、幻のように美並をすり抜ける真崎に、美並は動けなくなる。
固まってしまう体をのろのろ振り返らせてみれば、光の中で真崎は確かに誰かを抱き締めている。
その背中が甘く震えていて、低い囁きが響く。
『やっと見つけた』
君をずっと探していたんだ、それが今、わかった。
腕の中の人が美並を気にして、真崎は心配そうに顔を上げ、相手に笑いかけながら美並を振り向く。
『大丈夫だよ、あの人は関係ない』
美並は上げた両手をそろそろと降ろす。
『僕を支えてくれた優しい人だ』
だけど、それだけ。
『欲しかったのは君だから、安心して?』
そうでしょう、伊吹さん?
振り返って笑う真崎に、美並は頷くことしかできなくて、遠ざかる真崎を見送って。
わかってた。
そんなこと、わかってたから。
大丈夫。
涙が吹き零れるままに俯いた。
『何度かお電話させてもらったんですけど』
七海の声に我に返る。
「ああ、ごめんなさい、いなかったのよ」
『明さん……バスケットボール、持っていったんです』
「はぁい?」
バスケットボール?
ひょっとして、明は真崎と会うために出ているのか、そう思った発想が覆る。
「なんでバスケットボール?」
『………確かめたいことがあるって』
「確かめたいこと?」
『本音を引っぱりだしてやるって……誰のことですか?』
七海の声が不安そうに揺れる。
「それで私のところかと思って?」
『はい』
「うーむ」
また謎が増えてしまった。
「わかった、こっちでも探してみます」
携帯に出ないの?
尋ねてみると、繋がらないんです、と七海は心配そうだ。
『何かあったんじゃないかとかも思ってしまって』
「ん、ちょっと待って」
片手で明の携帯を鳴らしたが、やっぱり出ない。電池切れとか電波の加減ではなさそうだ。
「出ないなあ」
『どうしましょう』
「何かわかったら電話します。今、お家?」
七海の家の電話番号を聞いて、舌打ちしながら受話器を置いた。
「ばか明」
恋人を不安がらせて。
夢を思い出して唇を噛む。
「ばか……京介」
なじって、そっと小さく笑う。
そんなことを言える資格は、きっと美並の手には入らない。
首を一つ強く振って、ざっと拭った濡れ髪で玄関から飛び出した。
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