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第1章
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課に戻ると、真崎は美並の机に載っていた資料を一抱え、自分の机に移動させて入力作業をしていた。
美並が戻ってきたのはわかっているだろうに、PCから逸らしもしない視線、眼鏡が画面の光を反射して表情がよくわからない。静かで淡々と作業している、傍目にはそう見える。
けれど、美並には、その真崎の体の周囲をうっすらと淡く白い繭のようなものが取り囲んでいるのが見えた。
その繭は何度か目にしたことがある。
真崎の実家へ向かう車の中や、夕食の席など。
おそらくは真崎ができれば同席したくないか、関わりたくない相手とどうしても一緒に居なくてはならないときの防御壁。
傷つけちゃったんだ。
そう思って美並はずきりとした。
『壊れてるよ』
無防備に両手を広げたままで。
『知ってると、思ってたけど』
優しい声で薄く笑った。
『壊れてるんだよ』
諦めと絶望と。
『だからさ……僕は、退場するね』
少し開きかけていた扉が高い音をたてて閉められたまま、真崎は美並に背中を向けている。
石塚に仕事を放り出してしまったことを詫びながら、美並は一つ一つ考えた。
大石が生きていた、元気で居る、それはとても嬉しかった。
もちろん、なぜ生きていたのかとか、なぜ自殺したなんてことになったのかとか、いろいろ気になることはあるけれど、生きていてくれたのなら、そういうことはもうどうでもいいような気もする。
ずっと見つからなかった欠片が、ぱちりと音をたててはまったようだ。
そうして何だか元の色を取り戻した世界に居たのは、不安そうに微笑みながら両手を広げている真崎で。
ゆっくりと手を降ろしながら、肩を落としているのに気付かないのだろう、どれほど自分が泣きそうな顔になっているかもわかっていないのだろう。
それでも、何も言わないつもりでいる、いじっぱりな表情で。
逃げ出したから後を追い掛けてきてみれば、何もなかったように振る舞っているけれど、美並のことを気にしてアナウンスの手配をしたり、駐車場をチェックに行ったり……そんなこと、したくなかっただろうに。
かなわない、なあ。
確かにいろいろ壊れててぶっ飛んでる人格だとは思うけど、一層剥いだその下にあったのは触れるのも怖いほど透き通った綺麗なものだった、そんな感じがする。
けれど、それを美並はざっくり傷つけてしまったから、きっと次はすぐには開いてもらえない。
でも。
一緒に居よう。
こつんと指に触れるほど、強い意志が生まれている。
真崎と一緒に歩いてみよう。
時間はうんとかかるだろうけど、それでも真崎を覆った繭を一つずつそっと取り除いていって、もう一度あの綺麗なものをそのまま手にできるような距離まで近付こう。
密かに決意した。
「急ぎは課長が入れてくれてるから、ああ、これ、電話かかってたから」
石塚のお小言が済んでメモを渡され、ぎょっとする。
真崎大輔。
名前の側には会社の電話番号らしいものが石塚のきっちりした文字で書き込まれている。
「……この方、ですか?」
「そうよ、連絡つかないかって」
「あの……どうして私がここに居ることを」
「知らないわよ、私は」
石塚は不愉快そうに眉を寄せた。
「とにかく、戻ったら連絡してほしいって言うことだから、受けた責任もあるし、連絡入れてね」
はい、と頷いたものの、どう考えたものか、と真崎を振り向く。
じっとこちらを見ていたらしい真崎が、うろたえた顔になって薄く赤くなった。
可愛い。
って、何。
過った思考に美並は思わず自分で突っ込んでしまった。
男性に対して、ましてや同年輩以上に対してこんなことを感じたのは初めてだ。
真崎が壊れてるなら、そういう人間に魅かれる私だって十分壊れてることになるよね。思いながら、慌てて目を逸らす真崎の横顔を見る。
なぜ大輔は美並に連絡を取ろうとしたのだろう。
真崎が同じ部署だと知っているはずだ。
弟が家に連れてきた女性に単独で連絡を取ろうとするなら、普通は警戒する。ましてや、大輔は既に恵子をそういう経過で手に入れているから、真崎がピリピリするのは目に見えているはずだ。
「あの」
「ん?」
PC画面を見つめたままの真崎は緊張して怯えている。大輔が連絡を取りたいと言ってきている、そう告げても引きこもったまま応じてくれないかもしれない。
ならば、それこそ真崎流の揺さぶりを使ってみるというのも手かもしれない。
「いえ、すみません、もうちょっと入力、お願いできますか」
「うん、わかった」
ほ、と小さな吐息をつく真崎が、やっぱり可愛らしいと思ってしまって、美並は眉をしかめたまま受話器を取り上げた。
真崎は、一旦心を開いてしまった相手にはどうしても気持ちが零れるみたいだ。もともと意外に甘えるのが好きなタイプなのかもしれない。
唐突に実家でくっついてきた身体の熱を思い出す。布越しでも十分熱かったのに、もし素肌だったらどうなるんだろう。
「っ」
走りそうになった想像を振り落として、美並は相手の番号を回した。
「もしもし、あの、真崎大輔さんをお願いできますか」
びく、と真崎が体を震わせて振り返った。
「はい、伊吹、美並と言います」
「……大輔…?」
茫然とした真崎の声が響くのに重なって、
『ああ、こんにちは、伊吹さん』
電話の向こうで快活な声が笑った。
「あ、はい、先日はどうも」
ちらりと真崎を見ると、相手は惚けてしまっている。問うように首を傾げると、ぷるぷると軽く首を振った。
『こちらこそ楽しかったですよ。ところで、少しお時間取れませんか。ちょっと京介のことでお話しておきたいことがあって』
大輔のことばには翳りがなく澱みがない。
『お忙しいでしょうが、今日の夕方、どうでしょう。ちょうどそちらへ出ますし』
段取りも理由もはっきりしている。
それが、不審だ。
ほとんど知らない女に応対するとは思えない滑らかさが気になる。
「今日…ですか? ええ、終わるのは……五時過ぎますけど」
「伊吹…っ」
『構いませんよ、それじゃあ、そうだな、向田駅前でどうですか。近くに喫茶店がありますし』
事前に店も調べてある、急な思いつきではないということだ。
「わかりました、じゃあ、今日六時、駅前でお待ちしています」
「伊吹さんっ! 今のっ」
結果おーらい。
席を立った真崎が急いでやってきて、美並は微笑んだ。真崎が自分から距離を縮めてくれるに越したことはない。
「夕方大輔さんに会います。何か話したいことがあるって」
京介の、と言ったことは伏せておく。
京介の話、そう言えば真崎は連れてこないだろう。そういう意図があからさまに感じ取れるから、目的はどちらかというと真崎なしで逢おうということなのだ。
「何を」
「わかりません。でも」
真崎は不安そうに見下ろしている。その顔をまっすぐ見つめ返しながら尋ねた。
「課長はどうされますか」
美並が戻ってきたのはわかっているだろうに、PCから逸らしもしない視線、眼鏡が画面の光を反射して表情がよくわからない。静かで淡々と作業している、傍目にはそう見える。
けれど、美並には、その真崎の体の周囲をうっすらと淡く白い繭のようなものが取り囲んでいるのが見えた。
その繭は何度か目にしたことがある。
真崎の実家へ向かう車の中や、夕食の席など。
おそらくは真崎ができれば同席したくないか、関わりたくない相手とどうしても一緒に居なくてはならないときの防御壁。
傷つけちゃったんだ。
そう思って美並はずきりとした。
『壊れてるよ』
無防備に両手を広げたままで。
『知ってると、思ってたけど』
優しい声で薄く笑った。
『壊れてるんだよ』
諦めと絶望と。
『だからさ……僕は、退場するね』
少し開きかけていた扉が高い音をたてて閉められたまま、真崎は美並に背中を向けている。
石塚に仕事を放り出してしまったことを詫びながら、美並は一つ一つ考えた。
大石が生きていた、元気で居る、それはとても嬉しかった。
もちろん、なぜ生きていたのかとか、なぜ自殺したなんてことになったのかとか、いろいろ気になることはあるけれど、生きていてくれたのなら、そういうことはもうどうでもいいような気もする。
ずっと見つからなかった欠片が、ぱちりと音をたててはまったようだ。
そうして何だか元の色を取り戻した世界に居たのは、不安そうに微笑みながら両手を広げている真崎で。
ゆっくりと手を降ろしながら、肩を落としているのに気付かないのだろう、どれほど自分が泣きそうな顔になっているかもわかっていないのだろう。
それでも、何も言わないつもりでいる、いじっぱりな表情で。
逃げ出したから後を追い掛けてきてみれば、何もなかったように振る舞っているけれど、美並のことを気にしてアナウンスの手配をしたり、駐車場をチェックに行ったり……そんなこと、したくなかっただろうに。
かなわない、なあ。
確かにいろいろ壊れててぶっ飛んでる人格だとは思うけど、一層剥いだその下にあったのは触れるのも怖いほど透き通った綺麗なものだった、そんな感じがする。
けれど、それを美並はざっくり傷つけてしまったから、きっと次はすぐには開いてもらえない。
でも。
一緒に居よう。
こつんと指に触れるほど、強い意志が生まれている。
真崎と一緒に歩いてみよう。
時間はうんとかかるだろうけど、それでも真崎を覆った繭を一つずつそっと取り除いていって、もう一度あの綺麗なものをそのまま手にできるような距離まで近付こう。
密かに決意した。
「急ぎは課長が入れてくれてるから、ああ、これ、電話かかってたから」
石塚のお小言が済んでメモを渡され、ぎょっとする。
真崎大輔。
名前の側には会社の電話番号らしいものが石塚のきっちりした文字で書き込まれている。
「……この方、ですか?」
「そうよ、連絡つかないかって」
「あの……どうして私がここに居ることを」
「知らないわよ、私は」
石塚は不愉快そうに眉を寄せた。
「とにかく、戻ったら連絡してほしいって言うことだから、受けた責任もあるし、連絡入れてね」
はい、と頷いたものの、どう考えたものか、と真崎を振り向く。
じっとこちらを見ていたらしい真崎が、うろたえた顔になって薄く赤くなった。
可愛い。
って、何。
過った思考に美並は思わず自分で突っ込んでしまった。
男性に対して、ましてや同年輩以上に対してこんなことを感じたのは初めてだ。
真崎が壊れてるなら、そういう人間に魅かれる私だって十分壊れてることになるよね。思いながら、慌てて目を逸らす真崎の横顔を見る。
なぜ大輔は美並に連絡を取ろうとしたのだろう。
真崎が同じ部署だと知っているはずだ。
弟が家に連れてきた女性に単独で連絡を取ろうとするなら、普通は警戒する。ましてや、大輔は既に恵子をそういう経過で手に入れているから、真崎がピリピリするのは目に見えているはずだ。
「あの」
「ん?」
PC画面を見つめたままの真崎は緊張して怯えている。大輔が連絡を取りたいと言ってきている、そう告げても引きこもったまま応じてくれないかもしれない。
ならば、それこそ真崎流の揺さぶりを使ってみるというのも手かもしれない。
「いえ、すみません、もうちょっと入力、お願いできますか」
「うん、わかった」
ほ、と小さな吐息をつく真崎が、やっぱり可愛らしいと思ってしまって、美並は眉をしかめたまま受話器を取り上げた。
真崎は、一旦心を開いてしまった相手にはどうしても気持ちが零れるみたいだ。もともと意外に甘えるのが好きなタイプなのかもしれない。
唐突に実家でくっついてきた身体の熱を思い出す。布越しでも十分熱かったのに、もし素肌だったらどうなるんだろう。
「っ」
走りそうになった想像を振り落として、美並は相手の番号を回した。
「もしもし、あの、真崎大輔さんをお願いできますか」
びく、と真崎が体を震わせて振り返った。
「はい、伊吹、美並と言います」
「……大輔…?」
茫然とした真崎の声が響くのに重なって、
『ああ、こんにちは、伊吹さん』
電話の向こうで快活な声が笑った。
「あ、はい、先日はどうも」
ちらりと真崎を見ると、相手は惚けてしまっている。問うように首を傾げると、ぷるぷると軽く首を振った。
『こちらこそ楽しかったですよ。ところで、少しお時間取れませんか。ちょっと京介のことでお話しておきたいことがあって』
大輔のことばには翳りがなく澱みがない。
『お忙しいでしょうが、今日の夕方、どうでしょう。ちょうどそちらへ出ますし』
段取りも理由もはっきりしている。
それが、不審だ。
ほとんど知らない女に応対するとは思えない滑らかさが気になる。
「今日…ですか? ええ、終わるのは……五時過ぎますけど」
「伊吹…っ」
『構いませんよ、それじゃあ、そうだな、向田駅前でどうですか。近くに喫茶店がありますし』
事前に店も調べてある、急な思いつきではないということだ。
「わかりました、じゃあ、今日六時、駅前でお待ちしています」
「伊吹さんっ! 今のっ」
結果おーらい。
席を立った真崎が急いでやってきて、美並は微笑んだ。真崎が自分から距離を縮めてくれるに越したことはない。
「夕方大輔さんに会います。何か話したいことがあるって」
京介の、と言ったことは伏せておく。
京介の話、そう言えば真崎は連れてこないだろう。そういう意図があからさまに感じ取れるから、目的はどちらかというと真崎なしで逢おうということなのだ。
「何を」
「わかりません。でも」
真崎は不安そうに見下ろしている。その顔をまっすぐ見つめ返しながら尋ねた。
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